4. 暁が空手部に入部したのは
暁が空手部に入部したのは、直人の言う通り高二になる直前のこの二月のことだった。これまで全く部活に興味がなく、小学校からただの一度もそういったものに所属したことがない。超名門と呼ばれる国立高校に進学し、大学は医学部志望、残りの高校二年間も当然帰宅部で勉強に勤しむつもりでいたある日のこと。偶然隣の席になった男子生徒が、他のクラスメイトに愚痴っていたのがきっかけだった。
『やばい、三年生いなくなってから部員が全然集まらない……このままじゃ廃部だ……』
ベタすぎるセリフに見向きもしないまま、暁は内心で少しだけ感動していた。
(本当に言ってる男子高校生初めて見た)
録音しておけば良かったとちょっと後悔するくらいの感慨があった。かつて周りに隠れながら読み漁った地上世界の漫画や小説に、同じセリフから始まるものがいくつあったかわからない。もちろんその設定自体が、主人公によるどんでん返しストーリーが始まるフラグでもある。
サッカーと水泳から現地再集合型のあの作品も、誰もルールのわからないセクシーな格闘技部の迷走を描いたあの作品も、伝説のバスケ漫画も当初廃部寸前の設定ではなかったか?どの作品にも思い出があった、最近勉強が忙しくてなかなか新作に手が回らない状態だけれども。(人間の体力知力の限界値の低さには未だに不満だ。その気になれば三十日は完徹できたし、今思えば図書館一つ分ほどの情報容量があったあの頃のスペックが懐かしい。)
暁は母譲りの端正な顔を引き締め、真剣に悩んだ。ホームルームが始まるのを待つフリをして鞄に手を突っ込み、そっとスマホの録音機能を起動させようか、と。
(あわよくばもう一度くらい同じ言い回しをお願いできないだろうか?)
記念に……だがどうやってこの世の記念に残そうというのか。死んだら来世にデータを持っていくことはできない。次に何に生まれ変わるか知らないが、二千年余りも天上世界で苦労に苦労を重ねてきた元・悪魔にとって、長くてせいぜい百年という人間の寿命はあまりに短い。儚い人の身の微かな感慨など、結局とるにたらないもののようにも思われる。
(長めの休暇みてーなもんだしな……)
さわがしい一年三組の真ん中で、暁はうたかたの平和な日常を、生まれてこの方続いている虚脱状態で噛み締めた。
そんなすぐ隣のルックス良し・成績良しのクォーター・ハイスペック男子の達観などつゆ知らず、件の空手部男子が、相変わらず悩ましげに自分のスマホ画面をタップする。
『近所の桁学は全国レベルの強豪なのにさー。タメに特に強い奴がいんの、ほらこいつ。秋からこっち、どの大会でも優勝総なめ」
同じクラスになって一年弱、名前も知らない彼の、青春に懸ける爽やかさは儚い。だがその儚さに、天上世界に居た時同様惹かれて、暁はつい横目にその画面を見てしまう。白い道着姿の男女の写真が並んだページだった。どうやら高校空手の大会の結果をまとめたサイトらしい。その中の一枚の写真に、暁の老成した濡れ羽色の瞳が釘付けになった。
「……まさか」
我知らず呻きが漏れてしまうほど、取り乱した。それはごく普通の日本人的な顔の少年だった。瞳が大きく中性的な顔立ちで、競技中のショットだからか酷く厳しい表情である。その眼差し、小さな唇の引き結び方、白い額の形に見覚えがあった。はっきりと、昨夜見た夢より鮮やかに、憧れを孕んだ情けない呟きさえ聞こえてきそうだった。
『行ってみてーな、コンビニ……』
(桁学……すぐ隣にセブンできたじゃねーか……!)
気づいた時には、両膝ごとま隣の彼に向き直っている暁だった。当の空手部員と、話をグダグダに聞いていた周囲の生徒がその勢いにビビって五センチずつ後ろに引いていた。
『あ……悪い。知り合いに似てる気がして』
思えばこれまでの人生、なぁなぁに生きることを最優先にしてきたため、率先して人付き合いもしてこなかった。不器用げに言い訳する暁に、しかしさっぱりした短髪を逆立てた空手部員が明るく眉を上げて言った。
『桁山学園の荒野光太郎、知ってんの⁉︎』
『知って……いや知らない。けど知ってる、かもしれない』
『どっちだよって!』
懐っこく八重歯を見せてくしゃりと笑うと、彼は気安く携帯と膝を寄せてきた。性格なのか、たちまち親しげにたたみかけてくる。
『空手、鬼のよーに強ぇやつ!知り合いかどうか確かめてみねぇ?なーんて、でもまじで入部して次の大会出ればホンモノ見られるよ!っつーか運悪けりゃ当たる』
『当たる……?』
『試合で戦うってこと!』
『戦う』
その言葉で咄嗟に閃くのはもちろん空手などではなく、数え切れないほど繰り広げた死闘の数々だったが。
『いやでも君タッパはあるけどいきなり大会はさすがに厳しいかぁ?格闘技経験ねーと』
『格闘技経験』
『まあ場数大事だからさ、荒野に勝つのは無理だとしても!』
『……ある』
『えっ?』
勝つのは無理?
今も真っ白な顔面を抉る感覚の残る拳が、冗談だろうと激しく疼いた。
『格闘技経験、ある』
しまったと思った時には遅かった。直情型らしい空手少年の茶の瞳が目の前でキラキラ輝き、有頂天で暁の手首をチャンピオンよろしく掴み上げると、教室中に響く大声で叫んだ。
『やった、五人集まったーーーー‼︎』
再びのベタなセリフと展開に、暁はどこか他人事のようにもう一度(本当に言ってる男子高校生初めて見た)と感動してしまったのだった。