父と娘
かつて栄華を誇っていたカロッゾ家の立派な邸宅は闇の中に沈んでいた。
窓ガラスは粉々に打ち砕かれ、塀には獣の血や塗料で数多の冒険者の命を奪った批判が書き殴られている。
数多くいた従者は一人もおらず、一家も離散し、閑散としている。
しかし当主のバグ=カロッゾのみは、この家に留まっていた。彼は一人、己の行いに後悔していた。
数多の冒険者を、自分のわがままで奪ってしまった後悔もあった。しかしそれよりも、彼は未だに娘である“セシリー”の身を案じていた。そしてそういう状況にしてしまった、自分の行いを後悔していた。
己は力を持つ貴族。更に軍事を司る“カロッゾ家”の当主。自分の血肉は民の血税によって成り立っている
ならば力あるものとして、高貴なものとしてノブレス・オブリージュを遂行せねばならない。だからこそ彼は心血を民のために捧げると誓い、行動していた。しかしそれは結果として――家族を蔑ろにすることになっていた。
特に三女の“セシリー”は幼いころから体が弱く、まともに出歩くことができず、なかなか構うことができなかった。
世話の一切合切を侍女の“フェア”に任せきりにしていた。身体が不自由なセシリーを、全く疎ましく思っていなかったと問われれば、それは否である。
しかしそれでも彼は彼なりに、娘のことを愛していた。いつか時間を作って、もっと広い世界を見せてやりたいと思っていた。
だがその気持ちは気持ちだけで、日々に忙殺され、結局成しえない夢に潰えた。
今、セシリーはどこで、何をしているのか? どこかでフェアと共に元気に暮らしているのか? 相変わらず、寝たきりの状態なのだろうか? もしくは、もうこの世にはいないのではないか。
失って初めて気が付く大切さ、とはよく言ったもの。気づいたときにはもう遅い。
そんな慣用句を思い出しながら、彼は荒れ果てた邸宅で一人酒を一気に煽った。
ふと、粉々に砕け散った窓ガラスから、甘い香りが流れ込んできた。
月明かりが遮られ、黒い影が伸び、彼を覆いつくす。
夜盗か、その類か。もうこの家に残されたものなどない。あるとすれば僅かに残った蒸留酒の酒瓶と自分の命くらい。
愚かな貴族の末路には相応しいと思い、彼はゆらりと振り返る。
そして自然と体が震えた。
「セシリー……?」
赤いドレスに、肩まであるウェーブがかった長い髪。凛とした佇まいは気品の高さを感じさせる。
頭にはまるでハットのように真っ赤で、毒々しい斑点の浮かぶ不気味な巨大な“花”が咲き誇っていた。
こんなにまで凛々しく、そして元気そうにしている娘の姿だった。
そんな娘の姿を初めて目の当たりにした彼は、涙をこぼす。何か言葉をかけたいが、涙が止まらなかった。
「君は……今どこに?」
「樹海よ」
ようやく出た言葉に、娘の姿をした“何か”は端的に答えた。
「元気なのだな?」
「ええ、まぁ」
「そうか……」
「忠告よ。もう二度と樹海へ立ち入らないで。もしまた攻めて来たら、私たちはまた容赦しないわ」
今目の前にいるのは、娘のセシリーでないことは明らかだった。しかし、そうだったとしても、自分の足で立ち、言葉を紡ぐ彼女にバグは感動を覚える。
やがて彼女は“ふん”と鼻を鳴らして、人では考えられない跳躍をしてみせる。頭に赤い花を咲かせた娘の姿を取る怪人は、闇の中へ消えてゆく。
まるで一瞬の幻のようなできごと。それでもバグ=カロッゾの胸は満たされていた。
セシリーはこの屋敷に居た時以上に元気に暮らしている。もうそれがわかっただけで充分だった。
彼は再び、酒を煽る。さっきよりも口当たりがよく、華やかな香りが鼻を抜けたような気がしたのだった。
●●●
「こんなんで良かったのかしら?」
「十分です。ありがとうございました。お手数をおかけしました」
カロッゾ家から近くの森林に戻ったラフレシアへ、マタンゴは礼を言う。
マタンゴは四輪馬車の扉を開けて、乗るよう促す。
「これで暫くは樹海に誰も来ないのよね?」
「おそらくは。暫く安心でしょう」
「ふーん……まぁ、良いわ。出して」
ラフレシアの指示を受けて、マタンゴは手綱を引く。
馬が走り出し、四輪馬車が動き出す。同乗していたクルスは、マタンゴの脇で弓を構え、周囲の警戒を始める。
「君は立派な騎士だな」
「……」
「最後にかつての主君へ元気なセシリーの姿を見せてやりたかったのだろ?」
「なんの話だ。これは念のための保険だ。これでもう樹海へやってこないのなら良し。もし来たならば、また追い返す。結局、あの方の目的はお嬢様の生死の確認だけだ。アレはそういうお方だ」
「……そうか」
「クルス殿」
「ん?」
「貴方のような方に手記をみつけて頂いて良かった。叶うならば、この先もお嬢様の、セシリー様としての生涯をずっと覚えていてくれればありがたい」
「……わかった」
「ありがとう。感謝する」
マタンゴはそれっきり何も語らず馬を走らせる。クルスもこれ以上聞くのは野暮だと思って、口を閉ざす。
侍女騎士フェア=チャイルドに寄生した魔物:マタンゴ。魔物として転生しても、彼女は今でもカロッゾ家とセシリーに忠誠を誓う、高潔な侍女騎士なのかもしれない。クルスはそう思うのだった。
数日後、カロッゾ家当主バグ=カロッゾ自ら、聖王への爵位の返上と、領地の返還を申し出た。
樹海は以後、“危険区域”と指定され、好んで立ち入る人間が減少の一途を辿る。
なぜならばそこには数多の戦士たちや勇者を葬り去った【五大怪人】が、生息しているからである。
「お帰りなさい、クルスさん。今日はどうでしたか?」
「今日も良い日だった」
「そうですか! 良かったです」
「ねえ様、今日は僕も頑張ったのだぁ!」
「ふふ、そうなの。偉いね!」
「でへへ!」
「さっそくお食事にします?」
「ああ、頼む」
「はいっ! ふふーん」
樹海の平穏は保たれた。
そしてそこで人間のクルスとアルラウネのロナは、静かに暮らしている。
何人たりとも、二人の平穏を犯すことは許されないのである。




