もう一つの力
「随分と厳重な警戒ですね。なにかあったのですか?」
「いやね、最近この辺りにセイバーエイプが現れるようになって、陛下への貢物の“バナナ”を狙ってるらしいんだよ」
宿場町へ入るなり、隊列と荷車を眺めていた町人へ問いかけると、そんな答えが帰ってきた。
たしかにギルドの認識票を見せれば、衛兵はあっさりと町へ入れてくれたし、町の中は平穏だった。
聖王国討伐兵団は宿場町を守るためにいるのではなく、“バナナ”という貢物を守っているだけらしい。
バナナとは最近、聖王国遠征兵団が東方で発見し、輸入をし始めた果実のことだった。大変高級なもので、上流階級のみが口にできる美味なものと聞く。
それを危険度Aの猿型魔物“セイバーエイプ”が狙っている。どうやらそのバナナは、魔物にとっても生唾ものの食物らしい。
しかしEランク冒険者である貧しいクルスにとっては縁のない食べ物といっても過言ではなかった。
よってこれ以上の情報収集は無意味。
クルスは事情を教えてくれた町人へ頭を下げて、歩き出す。
この宿場町には集会場こそ無いものの、各種清算や一部依頼の受注可能な“分所”がある筈。
分所は地元民の簡単な依頼を受理することが多く、日帰りを希望としているクルスにとっては好都合なのである。しかし幾ら辺境の宿場町と言えど、昼を過ぎてしまえば、さすがに依頼の数も少なくなってしまう。
もうあまり時間は無い。クルスは足早に分所へ向かってゆく。
その時、甲高い鐘の音が響き渡り、一瞬で宿場町全体の空気が張りつめた。
「どうしたー! 何が見えたんだぁー!」
近くにいた重武装の兵士が空へ向けてそう叫ぶ。
相手は近くの櫓で警戒に当たっていた物見の兵へだろう。
物見の兵は身を乗り出していた柵から身を引き、踵を返して下を向く。
「セイバーエイプしゅうらーい! しゅうらぁーいっ!! 物凄く大き……っ!?」
物見の声がかき消された。刹那、櫓が風もなく砂上のように崩れ去る。
周囲にあったレンガを積み上げて作られた家が震えて、ボロボロと崩れ始める。
近くに停めてあった馬車の幌が、激しく波を打って破れた。荷車を引いていた強靭な体躯の馬が、激しく嘶き、目を白黒とさせながら泡を吹いて倒れた。
「ぐあああああ!!」
馬はもとより、重厚な全身甲冑を装備した屈強な討伐兵団の兵が、街を行く大勢の人々は耳をふさぎつつも、“音の圧力”に負けて次々と倒れてゆく。
獣の遠吠えのような、雄たけびのような。そんな奇怪な叫び声は宿場町を席巻し、音圧だけで次々と周囲のものをなぎ倒してゆく。
(バインドボイス!? しかしこんな強力なものは初めてだ……!!)
状態異常耐性のおかげか、クルスは地獄の音圧の中で一人、冷静さを保てていた。
それでも必死に両手で耳を塞ぎながら真正面へ鋭く気配を尖らせる。
そして目前の家屋が破裂するように弾けて、巨大な黒々とした影がクルスを覆いつくす。
「うおぉおぉ! うおぉおぉっ!」
名前の由来となった“刀剣”のような尾の先を振り回しながら、獰猛な猿の魔物はまるで勝ち誇ったような雄たけびを上げた。
目の前に現れたのは危険度Aのセイバーエイプと見て間違いはない。間違いはない筈なのだが。
「なんだ、この大きさは……?」
思わず正直な感想が口から漏れ出した。本来セイバーエイプは人よりやや大きい程度の体長である。しかし今目の前にいるのは巨人と例えられるゴーレムか、それ以上の巨大な体躯を誇っていた。
「うおぉおぉ!」
セイバーエイプは巨体に見合わない俊敏な跳躍でクルスの頭上を過った。
バインドボイスによってなぎ倒された馬車の荷車へ降り立つ。そして辺りに散らばった黄金色をした希少な果実――バナナを夢中で頬張り始めた。
「突撃―! 討伐兵団クレナ第五隊の力を見せてやれぇー!」
勇ましい掛け声が響き、次いでがしゃりがしゃり無数の鎧の揺れる音が響き渡る。
道の向こうから立派な装備に身を包んだ聖王国討伐兵団の精鋭が、剣や槍を手に、果敢にも巨大セイバーエイプへ迫る。
「うおぉおぉおぉおぉおぉーっ!!」
セイバーエイプは再び激しい音圧を持つ、声を放った。声は空気を思い切り押し出して、迫る討伐兵団の兵士をまるで紙人形のようにあっさりと吹き飛ばした。それっきり兵士はピクリとも動かない。明らかに“行動不能状態”に陥っていたのである。
兵を圧倒した巨大セイバーエイプは満足げに刀剣のような先端の尻尾をゆらりゆらりと揺らしながら、再びバナナを口へ放り込み始めた。
セイバーエイプの狙いは明らかに、この街へ運び込まれたバナナ。ならば目的のものが無くなれば大人しく帰って行くのだろうか。
そうであると信じたい。しかし相手は野生の、更に人よりも強力な力を持った獣。何を考えているのかは予想もつかないのは確か。
このまま逃げ出しても構わない。相手は規格外の化け物。敵うとは到底考えられない。ならばこの場はおとなしく引き下がるのが得策。冒険者の鉄則はいかに相手に勝つではなく、いかに生き残るかである。
「ぐ、わあああああ!!」
バナナに飽きたのか、セイバーエイプは近くで倒れていた兵の一人を鷲掴み、腹を締め上げる。
兵は悲痛な声を上げ、それを聞いて規格外の化け物は、まるで楽しそうな笑みを零している。
最悪で、醜悪で、悲惨な光景が目の前で繰り広げられる。
「ぎゃうっ!!」
突然、セイバーエイプは短い悲鳴を上げた。巨大な手から力が抜け、締め上げられていた兵は解放されて地面へ落ちる。
巨大な猿の魔物は手の甲に突き刺さった“粗末な矢”を抜き、眉間に皺を寄せて、不愉快そうな視線を飛ばす。
その先にいたのは、弓を構えた貧しいEランク冒険者――弓使(アーチャ―)いのクルス。
「バナナだけならいざ知らず、調子に乗りすぎだ猿!」
「うおぉおぉ!」
セイバーエイプは明らかに怒りの感情を孕んだ叫びをあげながら俊敏な動作で飛ぶ。
鋭い爪が着地と同時に振り落とされたが、クルスは間一髪のところで転がり避けた。
そして素早い動作で狙いをつけ、弓を射る。
「うおぅっ!?」
粗末な矢はセイバーエイプの左目を見事に射貫いた。体躯が大きいのは確かに脅威。しかし、
(そのぶん的としては大きい! やってやる!)
クルスは怒り狂うセイバーエイプの巨腕を、横への飛び込み動作で回避する。遮二無二、矢を放つ。
今度は腕を覆う固い体毛に弾かれた。再びセイバーエイプの怒りに満ちた視線がクルスに向かう。
それでも彼は臆せず、視線を振り切って背後へ回り込み矢を放つ。
――我ながら、また悪い癖が出てしまった、と思った。
前回の毒蜂とは違い、セイバーエイプは有利な相手とは言えなかった。体毛は鋼のように硬く、その下の皮膚でさえ矢で射ぬくのは容易ではない。全く持って分不相応な相手ではある。
だが相手がそんな強敵だったとしても。今、この場で現れた強敵へまともに対峙できるのはクルスただ一人。
逃げ出すこともできる。しょせんEランクの彼が尻尾を巻いて逃走したところで、嘲笑されるだけ。それさえ耐えれば良い。
しかし逃げた結果、この宿場町がどうなってしまうのか。もしも最悪な結果が訪れた時、全く後悔しないなど言い切れるだろうか。
クルスにとって答えはNO。後味が悪くなることは彼の性分では無い。
だからこそ彼は弓を持ち、矢を番えた。それが彼の選択であった。今自分がすべきこと、したいことであると判断した結果だった。
(まずは目を潰し動きを止める。そして――!)
セイバーエイプは立ち止まり、そして空気を吸い込み始めた。
「うおぉおぉおぉおぉおぉーっ!!」
火炎ブレスに匹敵する“強力な音圧”を持ったバインドボイスが放たれた。
音は空気を真っ直ぐと押し出して砂塵を巻き上げる。凶悪化した音の波は、相変わらずその振動でレンガや岩を砕く。
音の暴力的な力に関していえば抗う術は無い。まともに当たってしまえば、貧弱な装備のクルスの即死は避けられない。逆に言えば、音の圧力の進路から外れてしまえば、それだけで良い。幸い、このバインドボイスは正面への強い指向性があった。
音の進路から横へ飛び退き、すぐさま体勢を整えた。いつものように矢筒から矢を取出し、番え、そして弦を引く。
音圧と共にバインドボイスが脅威とされる所以――竦み、気絶、最悪の場合は“行動不能状態”を発生させる状態異常。しかしクルスは、十数年かけて獲得した魔力を全て“状態異常耐性”に注いでしまった男である。彼にとってバインドボイスが持つ、音圧以外の脅威は全く持って意味を成していなかった。それこそただ煩い類人猿の咆哮にしか聞こえなかった。
(きっとあのマンドラゴラが俺へ散々バインドボイスを浴びせてくれたから、“耐性”だったのが、“無効”にまで発展したのだろうな)
今夜森へ戻って、もし童女のマンドラゴラが現れたこのお礼をきちんとしよう。そんな別のことを考えつつ、クルスは既に照準を合わせ終えていた矢を放った。
矢は“ビュン!”と飛び、声を放ち終えたばかりのセイバーエイプの口の中へ吸い込まれる。
「ぐあうっ!!」
セイバーエイプはかすれた悲鳴を上げた。巨体があっさり“ドスン”と転げた。
「かはぁー……! ひゅー……!」」
大きな口からは擦れた声と共に、血が零れ落ちている。
どうやら狙い通り“喉の奥”を射抜けたらしい。
(後はもう片方の目を潰せば!)
クルスは短剣を抜いて、駈け出す。
確かにクルスの装備で、このセイバーエイプを討伐することは不可能だった。しかし強力なバインドボイスを放つ喉を射抜き、両目を潰すことはできる。強力な武器を奪い、視野を潰してしまえば、例え体毛が鋼のように硬く、強靭な肉体を持つ規格外のセイバーエイプであっても、聖王国討伐兵団ならばあっさりと倒してしまうに違いない。
「これで御終いだ!」
クルスは飛びあがり、短剣の切っ先をセイバーエイプの残った右目へ突きつける。
刹那、彼の視界を何かが素早く過った。
降下していた体が宙でピタリと止まる。
「……かはっ!」
クルスは血反吐を吐き、そして恨めしそうな視線で自らの腹を見る。
腹にはまるで刀剣を思わせる、鋭い尾先が突き刺さり、背中まで貫通していた。
規格外の大きさ。火炎ブレスに匹敵する威力を持つバインドボイス。そこばかりに意識を取られ過ぎ、この魔物が何故“刀剣猿”と名付けられたかをすっかり失念していた。
この魔物の脅威は膂力でも、バインドボイスでもない。真に恐れるべき攻撃とは――自在に動く、刀剣を思わせる尾先である。
「ひゅー……! ひゅー……!」
セイバーエイプは興奮気味に呼吸を荒げながら立ち上がった。血走った右目が忌々しそうにクルスを睨む。
早く腹に突き刺さった尾先を抜かねばならない。しかし足は宙に浮いていて、抜くことすら叶わない。
もはやここで戦闘終了。同時に命の最期でもあったらしい。
「く、くそっ……!」
もはや無駄な足掻きでしかないのは分かっている。しかしこのまま黙ってセイバーエイプに捻りつぶされるのは我慢ならなかった。
彼は出血で遠のき始めた意識を必死にかき集め矢筒に手を伸ばす。鏃が自分の血で真っ赤に染まる。震える指先で何とか矢を番え、最後の力を振り絞って弦を引く。
セイバーエイプは慌ててクルスから尾先を引き抜いた。だが時既に遅く、クルスの弓から、鏃が彼の血で真っ赤に染まった矢が放たれていた。
「うおおぅっ!!!」
矢は見事に残った右目を射抜いた。セイバーエイプは視野を全て失い、のた打ち回る。
(あとは、討伐兵団が……?)
うつぶせに地面へ落ちたクルスは、自分の血だまりに沈みつつ妙な光景を目の当たりにする。
セイバーエイプはのた打ち回りつつ、狂ったように地面へ何度も頭を叩き付けていた。
やがて“ひゅう、ひゅう”と喉笛を鳴らしつつ、牙の間から血と共に泡を吹く。
更には全身を激しく掻き毟って、体毛を散らし始める。
「かはーぁっ―――…………」
セイバーエイプは突然、大きく息を吐いたかと思うと、大の字に倒れ込む。
それっきり規格外の体躯を持つ魔物は起き上がることなく、ただ口から血の混じった唾液を垂れ流すのみ。
まるで“毒”を盛られたかのような最期だった。
「や、やった! あの弓使い、セイバーエイプをやりやがったぞ!」
どこからともなく、そんな弾んだ声が聞こえた。次いでがしゃりがしゃりと鎧の音が近づいてくる。
「ここに白術士か治癒士はおらぬか! 彼の手当てを!! 早くしろ! もたもたするなぁー!」
誰かがクルスの頭上でそう叫ぶ。
(倒せたのか……? ならばよかった……)
自分の身よりも、達成した事実にクルスは安堵する。
そこで彼の意識は途切れるのだった。