運命じゃない(短編)
―――ただ光が欲しかった。
今ならば、それが光であり絶望だったのだとわかる。
目の前には幸せに包まれた男女が踊っている。舞台の真ん中で皆の祝福を受けて微笑み合い、その瞳の中にはお互いしか映っていない。光そのもののような幸せな恋人達。
強い光の元で出来る影の中で立ち尽くすしか出来ない自分は笑えているだろうか。この場に笑顔以外は似つかわしくない。
この国の王太子と神子の婚姻式だ。国中が祝福に湧いている。何の憂いもなく一点の陰りもない輝かしい未来を願っている。
それを誰よりも一番に願ったのはミズリ自身だった。願いを叶えてくれるなら何を犠牲にしても奪われても構わないと。
だからミズリはこの結果を誰よりも喜ばなければいけない。感謝だけが許される感情だろう。
何故なら神はミズリの願いを叶えてくれた。ミズリに光を与え、ミズリの一番大切なものを奪っていった。ミズリの希望通りに。
祝福の鐘がなった。いつの間にかミズリは二人の前に立っていた。最高神官の法衣に身を包み聖杖を持っている。
この国の第一王子であり王太子であるルーファスと救国の神子であるアリサ。運命を結び合わされた二人に最後の祝福を送るのがミズリの仕事である。
二人は跪き手を握り合っている。神子の白く細い指とルーファスの大きく力強い指を絡めて2度と離れないかのように固く結び合わせている。
聖杖を持つ手に力が篭る。その無機質な冷たい感触がミズリに現実を突き付けている。
ミズリを見上げるルーファスの瞳には何の感情もない。かつてあった愛情の一欠けらも幼馴染みに対する親しみも、憎しみもない。彼はただこれから自分達を祝福してくれる神官を見ているだけだった。
痛む胸をミズリは持たない。そんな資格はないのだ。だから神官らしく慈悲深く微笑むだけだ。
ミズリが聖女として力に目覚めたのは4歳の時だった。目覚めると同時に神殿に迎え入れられ、年齢の釣り合うルーファス王子と婚約を結んだ。聖女の力が国の防御の要であるため代々聖女が王家と婚姻を結ぶ事は慣例であった。
初めて出会った時の事をミズリは幼過ぎて覚えていないが、二人は一緒に仲良く成長した。ミズリの記憶の傍らにはいつもルーファスがいた。そこに特別な感情があったのかミズリはルーファスに確かめた事はない。ルーファスは気軽に自分の気持ちを語れるような性格ではなかったし、ミズリもまた改めて気持ちを確かめ合うには羞恥が強過ぎた。どうであれ、お互いを大事に思っている事だけは確かだったからミズリは不安を感じずにいた。
神殿の限られた世界に生きるミズリにとってルーファスは全てだった。ごく限られた一部の人間しか知られてはいない事実がある。聖女は王家の血筋に強く惹かれるのだ。不思議な事に王家との婚姻により聖女の力は強まるために、この婚姻は必ず結ばれる。だから、ミズリはルーファスと歩む幸せな未来を疑いもしなかった。
そこに陰りが見え始めたのは12歳の頃だった。ミズリの力が衰え始めたのだ。前代未聞の出来事だった。
日々失われていく力にミズリは戦慄した。真っ先にルーファスの事を思った。聖女でなくなれば彼との関係はどうなるのかと。聖女ではない自分の価値を考えずにはいられなかった。
始めは自分の事しか考えられなかった。けれども直ぐにそんな己を恥じた。事はもっとずっと深刻だった。
今は誤魔化されていても必ず事態は露見する。聖女の力が弱まれば結界の維持は難しい。守りを失えばいずれ国の崩壊だ。その事実の前にミズリの恋は塵芥と同義だった。
ミズリはあらゆる手を尽くした。聖女の力が戻る方法を探した。ルーファスはミズリの尋常ではない様子に直ぐに気が付いたがミズリは頑として口を開かなかった。ルーファスの疑念を知りながら、恐れ故にとても話せるものではなかった。
愚かだったのだ。国を滅ぼすかもしれない恐怖、聖女の力が戻るかもしれないと願う捨てきれない一縷の望み、聖女でなくなれば無価値な自分や、失うかもしれないルーファスの愛情を思って、誰にも打ち明ける事が出来なかった。ルーファスを避け、気が付けば顔を合わせる事もしなくなっていた。ルーファスの思いを置き去りにして。
ミズリは気が狂う程に神に願った。願って願って願って4年が過ぎて、ミズリの希望の光は異世界から来た可愛くて美しい清廉な女性だった。
聖女を凌ぐ神に祝福された神子。ミズリの光。突然全てから切り離されて、それでも凛と立つ美しい人。
ミズリはアリサの世話を誠心誠意もってした。彼女の嘆き悲しみ憎しみ、それを凌駕する優しさ強さを全て受け止めた。それはミズリがしなければいけない事だった。アリサはミズリのせいでここにいる。ミズリは全力でアリサのために存在しなければ。
二人が出会った時の事をミズリは生涯忘れないだろう。
ルーファスの瞳にミズリの知らない熱が浮かんだ。いつもどこか強がっていたアリサの瞳が緩んだ。お互いしか目に入らない様子だった。
アリサと居るルーファスはミズリの知らないルーファスだった。
ルーファスからの面会の要請はずっと続いていた。手紙にはいつも会って話がしたいと書いてあった。決まって“親愛なるミズリ”と始まる手紙。
ルーファスとアリサの噂は王都中に広まっている。今更、話し合う必要があるのだろうか。
ミズリはルーファスを恨んだりしない。責める事など考えもしない。
アリサがルーファスを望んでいる。それだけでミズリには十分だった。ミズリの恋心を握り潰すには十分だった。
聖女は王家の者に強く惹かれる。その逆も然り。それはまるで運命だ。ルーファスの運命はミズリではなかった。
微笑む二人を前にして、ようやくミズリは悟った。自分の存在はこのためにあったのだ。何故自分の力が衰えていったのか。
(運命の二人を結び合わせるために―――)
ただ、それだけのために。
ミズリの還俗を神殿は許さなかった。そもそもミズリのような前例がない。聖女は王家と婚姻し生涯を通じて聖女で在り続けた。ミズリの扱いは非常に難しいものだった。ミズリの力が衰えているとは言え同時期に聖女が2人現れた事もない。
ルーファス以外との婚姻が提示されたが、ミズリの力はいずれ完全になくなる可能性の方が高いと言えば簡単に却下された。還俗が出来ないのであればミズリに取れる道は一つしかない。
生涯神殿に身を捧げる事。
ミズリに否はない。もとよりそれ以外の生き方をしらない。聖女である誇りしかミズリには残されていなかった。
神は慈悲深くもあり、無慈悲でもある。
国は恙無くこれからも続いて行く。犠牲になったアリサはルーファスが幸せにしてくれる。ルーファスは本当の運命の相手と廻り会えた。
ミズリの願いは叶った。これ以上願う事がない程に。
(何を犠牲にしても、何を奪われても構わない。私が願った通りになった、ただそれだけ………)
ミズリの力は年月と共に失われていった。それと共にミズリは感情も失くしていった。ルーファスは王になり、王子と王女に恵まれた。王と王妃は仲睦まじく、神子の力は国の隅々まで行き届いていた。時折届く噂話はミズリの心を通り過ぎて行った。
日々凪いだ心で祈りを捧げた。そんな中でミズリを惑わす声が聞こえるようになった。それは魔の囁きだ。本来聖女の力は魔を寄せ付けない筈だが、ミズリの力が衰えたためなのだろう。魔は聖女の魂が大好きなのだ。
魔はルーファスの姿をしていた。
『ミズリ』
ルーファスの姿で、ルーファスの声で、あの頃のように。
『ミズリ』
確かな親愛を込めて。
『ミズリ、私を見て。愛しているよ』
魔は毎日飽きもせず現れた。愛を囁く時もあればミズリを罵倒する時もあるし懐かしく昔を語る時もある。そのどれにもミズリは沈黙で返した。
『覚えている?森で迷子になった時の事を?君が泣きだして、私が君を背負って歩く羽目になった。あの時本当は私も泣きたかったが、君が必死にしがみ付くものだから泣く暇もなかったよ』
『どうして私を頼ってくれなかった?君を愛していたのに』
『私が君を裏切ったんじゃない。ミズリが私をアリサに差し出したんだ』
『ミズリを愛した事なんかないよ。君との婚姻は王族としての義務でしかなかったんだ』
『アリサこそが私の運命だ。アリサを愛している』
『君には感謝している。アリサを連れて来てくれた。アリサさえいれば私は幸せだ。君の事なんてどうでもいい』
『初めて会った時から君は愛らしかった。私は一目で恋に落ちた』
『本当は君だけを愛している』
『ミズリ』
『私のミズリ』
魔はミズリを堕落させるためにあの手この手と必死だった。
魔とはなんて愚かなのだろう。ミズリは心を失ったのに。何を言われても見せられても心が無いのだから何も感じようがない。頑なにルーファスの姿をとる魔は滑稽だ。
愛の言葉に嬉しいと思う?責められれば心が痛む?アリサへの思いに嫉妬する?そのどれにも惑うわけがない。いい加減悟ればいいものを。呆れるばかりだった。人里離れた辺境の神殿で、魔との奇妙な生活にどれ程の月日が流れたかわからない。
それほど聖女の魂が欲しいものなのだろうか?ミズリのような出来損ないの聖女の魂を?
彼女には執着がない。それは自分の魂であってもそうだった。そんなにも欲しいのならあげてもいい気がした。魂をあげるという事は恐らくミズリは死ぬのだろうが、特別生きたいとも思っていないので問題もない。力の殆どを失い聖女とは言えない自分が、どんな扱いであれ望まれるのは嫌な気分ではなかった。
その日、ミズリは初めて魔が訪れるのを待っていた。祈っているといつの間にか後ろに人の気配を感じた。魔がこれ程に存在感を露わにするのは珍しい。ミズリはゆっくりと振り向いた。
予想した通りルーファスの姿があった。
ミズリは目を瞠った。魔はいつもルーファスの色んな姿をとった。出会ったばかりの幼い姿だったり少年の姿だったり、凛々しい青年だったりと、ミズリが記憶しているルーファスの様々な姿を。けれど、目の前にいるルーファスはミズリの記憶にないルーファスだった。
目じりには少し皺がある。艶やかな黒髪に白が混じっている。綺麗な青い瞳はそのままだが鋭さが増している。柔和だった口許は固く引き結ばれて厳めしい。体はミズリが最後に見た時より筋肉に覆われて大きいような気がした。どこから見ても立派な大人の男性だった。ミズリの知らないルーファスだ。
咄嗟の動揺をミズリは呆れにすり替えた。
ここまでするのかとなんだか笑い出したくなった。ミズリは立ち上がって魔に近づいて行った。見上げた魔の存在感は圧倒的だった。魔の緊張を肌で感じてミズリは恐れを抱いた。
(恐れ?どうして………)
ミズリには心がないのに、恐れを抱くのはおかしい。それとも惑わされたのだろうか、このルーファスに。まさかと思う自分もいるが、今となってはどちらでも同じだと気付く。
ミズリは初めて自分から魔に話しかけた。
「あなたには負けました。私の魂を差し上げます。好きにすればいい」
男の瞳は驚愕に見開かれた。男が意味を理解した途端にミズリの体が攫われた。男の腕の中に。
ミズリの視界は男の胸元だ。眩暈がするようなこの感覚はなんだろう。
「………ミズリ」
深い声だった。今までに聞いた事のない、幾重にも感情を抑えて重ねたような声だ。ミズリの胸が初めてざわついた。ミズリを抱く腕に痛い程の力が篭る。押し付けられた胸元からは力強く早く打つ鼓動が聞こえる。人間のように。
「えっ………」
戸惑いが口をついて出た。密着する肌の感触や温かさや包まれる匂いまでもが急にミズリに迫って来る。体が震えた。
「ミズリ」
耳を犯すその声に失くした筈の心が悲鳴を上げた。息が出来ない。何が起こっているのかわからない。
男の手が震えるミズリの頬を包んで顔を上げさせた。二人の視線が絡む。
「私のミズリ」
咄嗟に逃れようとした。だがそれを男は許さなかった。再びミズリをすっぽりと抱き込んで離さない。
「逃げては駄目だ。君は私にくれると言った。好きにしていいと」
あまりの事にミズリは叫んだ。
「違うわ!」
「違わない。聖女は嘘を口に出来ない筈だ。だからかつて君は私を遠ざけたのだろう」
「貴方に言ったんじゃないの!」
「私しかいなかった。聖女の言葉は誓約と変わらない」
「そんなっ」
反論しようとしたミズリを男が抱き上げた。咄嗟にミズリは男に縋りつく。
「何故こんなっ」
ミズリには混乱しかない。気が遠くなりそうだった。だってこれはルーファスだ。魔の者ではない。ここにいる筈のない、一生会う筈のない本物のルーファスだった。
ルーファスは自分の体にミズリを押し当てた。
「王妃が死んだ。アリサが」
暴れようとしたミズリの動きが止まった。恐る恐る顔を上げてルーファスの瞳を覗き込む。真実を知るために。
「嘘よ………。だってアリサは祝福された神子だもの。こんなに早く逝く筈がない」
「彼女は天寿を全うしたんだ。異世界人だった。寿命の長さが違ったんだ。我々と違って短命だった」
ルーファスの瞳には悲しみがあった。ミズリはどうすればいいのか分からない。アリサの死に何も感じない。悲しみもない。まして喜びもない。ただルーファスの運命が居なくなった事だけが恐ろしかった。運命を失って彼の心が壊れるのではないかと恐ろしかった。
「私はアリサを愛したよ。最後まで彼女は幸せだったと言ってくれた」
ルーファスはミズリを抱いたまま目に付いた椅子に腰かけた。顔色を失ったミズリの頬を撫でる。ミズリから少しも目をそらさずにアリサへの愛を語った。
愛を語っているのに。
「運命に逆らわず、ちゃんとアリサを愛した。ミズリを忘れて、ミズリの願い通りに」
ミズリは言葉が出なかった。呆然とルーファスを見上げるしか出来ない。
こんなルーファスをミズリは知らない。穏やかで優しいルーファスしか知らない。こんなにも陰惨としたルーファスは知らない。
ルーファスの瞳には底のない昏い闇が揺らめいていた。それはアリサを失った絶望ではなく、ミズリが気付かない振りをして来たルーファスの心の悲鳴だ。その闇がミズリを欲しがっている。ミズリはそこから目が離せない。
ルーファスの指が微かな呼吸を繰り返すミズリの唇に触れる。当たり前のように、そうする事が自然なように。
深い、深い闇。きっと光は二度と届かない。
「だから、もういいだろう?わたしはもう王ではない。王族である事も辞めた。ミズリも聖女ではない。だから、もういいだろう?」
ルーファスがミズリを懐に深く抱き込む。その腕が震えている。
「ミズリは私のもので、私はミズリのものだ」
泣いていたのはミズリだろうか?ルーファスだろうか?
苦しんでいたのは。傷ついていたのは。絶望にのたうち回ったのは。悲鳴をあげ続けていたのは。心を失くしたのは。
誰だった?
「どうでもいいんだ。運命なんか。ミズリがいれば。二人であれば」
お読み頂きありがとうございました。このお話の連載版も始めました。短編の10倍くらいの長さになってしまいましたが、お時間とご興味があれば、どうぞ。