9 舞踏会の報告
舞踏会から戻ったブルーナは、誰が見ても今までのブルーナとは違って見えていた。表情がくるくると変化し、生き生きとして見える。従者達はこの変化を口にはしなかったが、それぞれが驚いて見ていた。そしてその事を知った父ルドヴィーグ伯爵は、誰よりも喜んだ。
ブルーナはこの日、家族で取る夕食の場に出席する事に決めた。まだ幼い妹のエレーヌは別室での食事だが、久し振りの家族団欒の場を設けようとしたのである。ルドヴィーグ伯爵と妻のリリアナはブルーナがこの二人と共に夕食を摂ると聞いた時、ただ驚いた。
「ハンス……ブルーナが夕食を共に取ると言ったのか?」
ルドヴィーグ伯爵は信じられない思いで従者のハンスに尋ねたが、ハンスは深く頷いた。
「左様でございます。ブルーナ様の居られる前で、エルダがハッキリと『夕食は伯爵と共に』と申しました。本日の舞踏会の報告も兼ねているのではないでしょうか」
「……そうか……そうか、ブルーナが……」
ルドヴィーグ伯爵は噛み締めるようにそう返事をすると、リリアナに視線を向けた。だがそのリリアナは優れない表情をしている。
「リリアナ?」
「わたくしは遠慮致しますわ。ブルーナ様は父上と、と申し上げたのでございましょう? そこに私は入っておりませんので……」
「いや、しかし……君も一緒に……」
リリアナは何かを話そうとするルドヴィーグ伯爵を制した。
「わたくしは、遠慮致します」
ハッキリとした口調でそう言われると、伯爵はそれ以上何もいう事は出来なかった。少し重い空気が漂う。だが、娘から共に食事を摂りたいと言って来たのだ、この期を逃したくはない。伯爵は娘と二人で食事をする事を了承した。
彼は、経験を積む事でブルーナの人生は書庫の中の小さな世界から外へ広がると考えていた。それを最愛の前妻レティシアのドレスを贈り物にするという事に託つけて強要したのだが……結果的に思惑通りにいったのだ。
ルドヴィーグ伯爵はブルーナが舞踏会で何かを得た事が何より嬉しかった。身体が弱く殻に閉じ籠るブルーナに人並みの幸せを与えてやりたい。伯爵はいつもそう思っていた。
「ハンス、お前に礼を言おう。お前がレティシアのドレスを贈り物にしてはどうかと提案してくれなければ、今のこの事実はなかった」
ルドヴィーグ伯爵は長年彼の従者を務めてきているハンスに声を掛けると、部屋の隅に立っていたハンスは穏やかに笑った。
「旦那様、滅相もございません。私はただ提案したに過ぎません。実行なさったのは旦那様でございます」
「それでも礼を言いたいのだよ。ありがとうハンス」
夕食時には少し着飾ったブルーナがやって来た。舞踏会に出かける前の様子と、今、目の前にいるブルーナはやはり何かが違って見える。瞳は輝き、頬は少し高揚し、何よりも口角が少し上がっている。
「ブルーナ、久し振りに共に摂る食事だ。私はとても嬉しいよ」
ルドヴィーグ伯爵は素直に自分の気持ちを言葉にし、ブルーナは少し微笑んだ。
「舞踏会のご報告を……と思ったのです」
そうして少し辺りを見廻した。
「母上はいらっしゃらないのですか?」
「あぁ、リリアナは今、少し体調を崩していてね……」
伯爵は嘘をついた。折角の娘と共に摂る食事だ。少しでも空気を悪くはしたくない。伯爵はブルーナがリリアナの事をよく思っていないのは十分にわかっていた。ブルーナはほんの一瞬、父を見つめたが、真意を問う事はしない。
食事は穏やかに始まった。蝋燭の明かりが灯され、普段なら遠くに座るのだが、この日はルドヴィーグ伯爵の命により、よりよく顔が見えるようにテーブルの角を利用して座った。
近い位置での父との食事は幼い頃以来だ。ブルーナはそれが嬉しかった。
「父上? 今日の舞踏会での話をお聞きになりたいですか?」
ブルーナは少し悪戯っぽく父に尋ねた。
「勿論、聞きたいものだ。何か良い事があったんだね」
「はい。結論を言えば、行って良かったです」
ブルーナは実に楽しそうに笑う。ルドヴィーグ伯爵は娘の様子に涙ぐむのを堪え笑い掛けた。
「初めは……舞踏会に行った事を後悔したのです。知らない人ばかりですし、とても多くの人が居ましたし、踊れませんし……でも、エルダが踊るのを見た後、控え室に参りました」
「ほう……エルダは踊ったのかね?」
「えぇ、とても素敵でしたわ……父上にもお見せしたかった」
ブルーナはエルダが踊る様子を思い出しながら話した。控えめなエルダが顔を赤く染め、相手の男性と優雅に踊る様は何とも可憐だった。思い出し笑いをしながら、ブルーナは話を進める。
「控室では……色々とありました。でもそれで……父上、私は親友を得たのです」
「……親友?」
ブルーナの口から出た言葉に伯爵は耳を疑った。
「親友だと言ったのか?」
「はい。父上はパルスト辺境伯をご存知ですか?」
目を輝かせ笑うブルーナの顔は晴れやかに冴え渡る空を思わせた。伯爵はまた目尻が潤うのを感じ、慌てる。
「あぁ、知っているとも。パルスト辺境伯は我が国随一の守護神と言って良い。辺境にありながら他国からの侵略を止め、また他国からの商品や情報をこの国にもたらしている。信頼のおける御仁だ。オルファ王との親交も厚い……そのパルスト辺境伯がどうしたのだ?」
「そうでしたか……アリシア様のお父上は信頼のおける方なのですね。納得いきます」
ブルーナが微笑んだ。
「そのパルスト辺境伯の御息女と親友になりました。アリシア様はとても美しく、聡明な方でした。行動にもそれは現れていて、私は本当に良き友を得たのだと思っています」
「そうか……親友になったのはパルスト辺境伯の御息女か?」
伯爵はパルスト辺境伯を認めてはいるものの直接話をした事はない。文官である小さな土地を持つルドヴィーグ伯爵と辺境伯として広大な土地を持つパルスト辺境伯の差異は歴然としていた。騎士の保有も街の整備も経済の流れも農業や工業にしても、辺境伯は小さな国としての機能を持ち、多くの責務を負うのだ。
「はい。とても話が合いましたし、とても楽しい時間を過ごす事が出来ました」
伯爵はブルーナに自信が漲っているのが見えた。伯爵は小さく溜息をつく。娘の変化は大きなもので、彼自身にも影響を与えるように思う。変哲のない生活が、舞踏会に出席した事で大きく変化する兆しが見える。これは喜ばしい事だ。
「そうだったか……ブルーナ、お前にも親友と呼べる人が出来たのだね……」
ルドヴィーグ伯爵は染み染みと口を開く。
「そこでお願いがあるのです。父上、この家にアリシア様をご招待したいのです。どのような方法を取るかはエルダと共に考えます。ですから、その許可を頂きたいのです」
ブルーナはお願いになると少し不安な表情をした。普段であれば身体に障る事は必ず反対される。だがお茶会はどうだろう? 身体に障るとは思えないのだが、ブルーナには初めての事で予想がつかなかった。
「……良いだろう。アリシア様を持て成してさしあげなさい」
ルドヴィーグ伯爵は直ぐに了承し許可を出した。途端にブルーナの顔が輝いた。
「父上、本当に良いのですか? 母上は許可をなさらないのでは?」
「あぁ、お前が持て成す側の主人をして頑張るのなら、幾らでもやりなさい。リリアナの事は心配しなくても良い。私が話しておこう。ただし、無理はいけないよ」
ルドヴィーグ伯爵はブルーナの表情が喜びに満ちていく様を眺め、微笑んだ。
ようやく一人の女性としてのブルーナの才覚を知る事ができるのだ。今まで避けて来た事をこなす事が出来るのかは未知数だが、こんなチャンスは二度と無いだろう。ルドヴィーグ伯爵は喜ぶブルーナを愛おしく見つめた。
ブルーナとアリシアが舞踏会の日に出会い、再会を誓い合ってから三日が過ぎた。
二人は舞踏会のその日から手紙のやり取りを始めていた。ルドヴィーグ伯爵から許可を得た事は嬉しい出来事で、ブルーナはその後直ぐに手紙を書いたのだ。
アリシアからの返事は翌日の昼には届いた。同じ街にいるのだから当たり前の早さではあるが、ブルーナには驚きの連続だった。
そしてまた今朝、アリシアから手紙が届いた。ブルーナにとって、自分宛の手紙を貰うという行為はこのやり取りが初めての出来事で、毎回、手紙が届く度に心が弾んだ。
今回はどんなことが書いてあるのだろう。書庫で手紙を受け取ったブルーナは大事そうに部屋に運び、自分の部屋の長椅子に座り手紙を広げた。そこにはアリシアが明後日にブルーナを訪ねたいとある。
「エルダ! アリシアが明後日にこちらへいらしてくださるわ!」
ブルーナは慌ててエルダに伝えると、満面の笑みを浮かべた。そのブルーナの心からの笑顔にエルダも心を弾ませた。
あの『すずらん祭り』の舞踏会の後から、本当にブルーナは変わった。エルダ以外の者と接する時は今までのように無表情であったが、纏う空気が優しくなっていた。エルダといる時も声を上げて笑う事もあり、その変化はブルーナの健康にも目に見えて良い影響を与えていた。
エルダはそれが嬉しかった。あの城での出来事は多くの事を変えていったのだ。親友というものの存在がこれほどの威力を発するとは、エルダには信じられない思いがあった。
「アリシア様がいらっしゃるのですね」
「ねぇ、お茶会はどの様にするの? 何を用意すれば良いの? エルダは知っている?」
「はい、お茶の準備は私とフィアにお任せ下さい。そうですね……」
エルダは少し考えた。
「お菓子は当然ですが……軽食もご用意いたしましょうか。もしも天気が良いのであれば、中庭でのピクニックはいかがですか?」
ブルーナは目を輝かせた。
「ピクニック? 素敵! 私はした事がないもの……アリシアとピクニックなんて、最高だわ!」
ブルーナはこれ以上はない程の笑顔を見せた。
「では、それに向けて色々と準備をしなくてはなりませんね。」
ブルーナはアリシアからの手紙を何度も読み返し、何度も嬉しそうに微笑んだ。
「本当に来てくれるのね……またアリシアと話が出来るのだわ。エルダ、私は今日嬉しくて眠れないかもしれない」
「お嬢様、毎日ちゃんとお休みにならなければ体調を崩しますよ。お願いですから、夜はちゃんとお休みください」
エルダが真面目な顔をした。浮かれていても生活の基本を壊す気はないのだ。
「エルダ、これはものの例えよ。本当に眠らないわけではなく、それほどに嬉しいという事を表現したに過ぎないの。まともに取らないで」
ブルーナは心配するエルダを笑った。
「それなら良いのですが……お嬢様は本当にそうなさる事が多いのですから」
念を押すようにエルダが言うと、ブルーナは肩を竦めた。
それからエルダと料理人のフィアの二人でお茶会に出す食べ物の計画がなされ、その都度ブルーナに報告があった。
その間、ブルーナはといえば静かな書庫の中で本棚を見上げていた。
アリシアも本は読むと言った。もしもアリシアに書庫の本を貸すとしたら……ブルーナは吟味をし始める。
アリシアに貸す本はどれが良いだろう。哲学書や科学書は読むだろうか? 戦記はどうだろう。物語の類はあるが、どのジャンルを好むだろう。ブルーナにとってアリシアの喜ぶ顔を想像しながら本を選ぶ作業は、何より楽しい時間だった。