71 鈴蘭とライラック
今回は少し短いです。
季節は過ぎ、ラディウスが来なくなってから数ヶ月が過ぎた。
湖の氷は溶け、降り積もる雪も消え、風はまだ冷たいが春の日差しが見え始めている。
相変わらず、時折起こる発作に悩まされながらも、ブルーナは以前よりも家族と一日を楽しむ事が多くなっていた。
だが、まだラディウスに対する失恋の痛みは大きくて、本を片手にボンヤリと物思いにふける様子もよく見られている。気が付くと涙が頬を伝っていることもあり、そんな時に限って、よくエレーヌに見つかった。
本格的に冬に入る前に送られてきたアリシアからの手紙の中には、紙に包まれた幾つかの小さな種が入っていた。手紙の内容によると、それはライラックの種なのだそうだ。その種を桂の木から少し離した場所に植えてはどうかと書いてあった。そしてライラックの花言葉は『友情』なのだと……。
ブルーナは大事にサイドテーブルの引き出しに保管してある種を確認した。
——そろそろこの種も植えたほうがいいかしら……。
それとは別に、テーブルの上には鈴蘭の鉢植えがある。地上部はすっかり枯れ、部屋の日当たりの良い場所に置かれていた。春になればまた芽吹くだろうか? これもまた早く地面に植えてあげなければならない。
『私が掘り起こしたものだ……枯らすなよ』
そう言ったラディウスの笑う顔が思い出される。枯れ果てて何もないように見える鈴蘭の植木鉢を、それでも手元に置いていたくて窓辺に置いたままにしていたが、土に植え込んでも良いだろう。球根は土の中で芽吹くのを待っているはずだ。
——ライラックの近くにこの鈴蘭も植えてあげよう。
ラディウスからもらった物だ。彼に言われたからではなく、ブルーナ自身がどうしても枯らしたくはなかった。ブルーナは鉢を持つと呼び鈴を鳴らした。
「お呼びですか?」
しばらくして入ってきたのは、料理担当のフィアだった。呼び鈴を聞いて急いで駆けつけたのだろう、息が少し上がっている。
「エルダは?」
「先程お使いに出てまだ戻って来ていません。お急ぎのご用ですか?」
「あぁ、そうだったわね」
そうだった。いつも自分のそばにいて、屋敷の外に出ることが極力少ないエルダに自由な時間を与えたくて、手紙用の紙の束を買ってくるようお願いしたのだった。
「このスズランを私の窓から見える場所に植えたいの……フィアは……今、忙しい?」
フィアは嬉しそうに首を振った。
「いいえ、お嬢様。今は仕込んだ後の休憩時間ですから」
「では、この鈴蘭とライラックの種を植えたいの、手伝ってくれる?」
ブルーナは笑った。
母と話したあの夜から、ブルーナは徐々に人を頼る事をいとわなくなっていた。自分の力が及ばないのなら、手を貸して欲しいと素直に言うようになっている。その事は、使用人達の密かな喜びとなり、ブルーナの役に立つなら何処からでも飛んで来た。
「まぁ、お嬢様……そのような事は私がやりますから」
慌てて言うフィアに、ブルーナは笑う。
「違うのよ……この鈴蘭は自分で植えたいの」
その笑顔を見て、フィアも微笑んだ。ブルーナの手の中にある植木鉢の鈴蘭が、ブルーナに取ってとても大事なものである事をフィアは理解した。
「……わかりました、では道具をお持ちしますから、しばらくお待ち下さい」
「ベンチの所で待っているわ」
「いいえ! 外は寒いですからここでお待ち下さい。すぐにお持ちしますから。あ、ショールはもう一枚羽織らなくても良いですか? 外はまだ寒いですよ」
「大丈夫。コートを羽織るから」
「そうですか、ではお待ちくださいね。すぐです!」
そう言ってすぐに道具を取りに向かうフィアを、ブルーナは頼もしく眺めた。
以前に比べ、フィアも自分の意見をブルーナにシッカリと言うようになった。自分が変われば周りも変わって行く。ブルーナは微笑んだ。心が通うということは、こんなにも一日を喜びで満たすことが出来るのだ。
フィアはすぐに道具を持って戻って来た。そのまま二人は庭へ続く出入り口から外へ出る。桂の木にはまだ新芽は出ていない。でも、陽光が暖かく感じる。
少し離れた場所で、フィアは立ち止まった。
「お嬢様、この辺りでいいのではないですか? ここを鈴蘭の花壇にしましょう」
「そうね……」
桂の大きな樹木の影響を受けず広い場所、そう思うと今フィアが立っている場所が一番いいようだ。
「ライラックの種も一緒に植えていいのかしら?」
「んー……どうでしょう? 農家ではよく、植木鉢に種を入れて、芽吹いてから地面に植えますよ。そのほうが管理しやすいと思います」
「そう……じゃあ、この鈴蘭を植え込んだ後、この植木鉢を使おうかしら……ここに種を入れたらいいわよね?」
「そうですね。それが一番何も無駄にならない方法のような気がします」
二人はしゃがんで先が湾曲した木のヘラで穴を掘った。その辺りは人が通る事はないからか、地面は柔らかい。穴を掘り終えると鉢をひっくり返し鈴蘭を土ごと出す。そうして穴の中に入れ込むと土を被せた。
「こうして、少しだけ抑えるんです。本当は冬になる前に植え込むのが良いんですけれど……時期が遅れても芽吹くと思います」
フィアが手で土をならす。少しだけ盛り上がってはいるが上手くいったようだ。
鈴蘭を地面に植え込み終えると、掘り出した土を鉢の中に入れ、今度はライラックの種をその土に入れる。
成長したアリシアのライラックとその足元を埋めるラディウスの鈴蘭、その様子をブルーナは十分に想像する事が出来た。ただそれだけの事が嬉しい。
フィアは中庭を見回した。
「冬は、鈴蘭の地上部はみんな枯れてしまいますが、春になればちゃんと出て来ます……数年後は、この花壇はちょっとした鈴蘭の畑になっているかもしれませんよ」
「……なるかしら」
「なりますとも……」
フィアはそう言った後、急いで付け加えた。
「さぁ、お嬢様、このままではお体が冷えてしまいます。手を洗って部屋にお戻り下さい。私はお茶の準備をして、部屋にお持ちしますから」
フィアが心配している事が伝わってくる。ブルーナは素直に頷いた。
「先程、お菓子が焼き上がりましたから、それもお持ちしましょうね」
ブルーナは頷いて、立ち上がった。
「フィアの作る物は美味しいから好きよ」
「まぁ! お嬢様! そんな事を仰ると嬉しくなって一日に何個も作ってしまいますよ」
「一日に何個もは食べられないわ」
ブルーナは声をあげて笑う。
ラディウスが来ないまま時は過ぎていく。
ラディウスとの思い出は、今も心の中心にある。でも、前に比べると少しは向き合えるようになったと思う。こうして少しづつ彼とのことは思い出になって行くのかもしれない。
ブルーナは植え込んだ鈴蘭の盛り上がった場所を見つめながら、そんなことを思っていた。
少しづつブルーナの環境は変化していきます。
でもラディウスを忘れる事はできません。




