70 新しい時間
自室で一人、何度目かのノックの音がしたが、ブルーナは長椅子に座ったまま返事をしなかった。今はまだ誰とも話す気になれない。エルダだって分かってくれているはずだ。そう思っているとまた音がした。
「…………」
扉の向こうのエルダには申し訳なく思うが、まだ時間が欲しい。笑えるようになるまでとは言わない。せめて今日だけは一人でいたかった。
しかし、ブルーナの意思とは関係なく、部屋の扉はゆっくりと開いた。目を向けると、そこに立っていたのはエルダではなく義母のリリアナだった。
「!…………」
ブルーナは驚いて立ち上がった。
「……少しあなたに話したい事があるの、いいかしら」
リリアナがこのような形でブルーナの部屋を訪れるのは初めてのことだ。リリアナの訪問はブルーナを追い詰めるのに十分だった。自分の部屋であるはずなのに、別な違う場所にいるような所在無さを感じる。
「…………」
返事のできないブルーナを見て、リリアナは黙って部屋に入ってきた。ブルーナは自室の空気が張りつめていくのを感じ、手を握りしめるとなすすべもなく長椅子に腰を下ろした。いつか婚約破棄に関する何かを言われると覚悟はしていた。それが今なのだ。
リリアナはブルーナの隣に静かに腰掛け、小さな溜息を吐いた後、黙ったままブルーナを見つめている。
いたたまれない心地がした。どうせなら、ハッキリと婚約破棄はブルーナのせいだと責められた方が幾分楽かもしれない。その方が罪を受け止めやすくなり、罰する方も容赦ない判断ができるだろう。
(私は今、この人に裁かれるのだ)
言い訳などできるはずもなく、漠然とした思いをブルーナが抱いた時、リリアナが口を開いた。
「……婚約破棄の事だけれど、一度ちゃんとあなたと話す必要があると思って……」
ブルーナは視線を落とした。いつものようにリリアナの顔を睨みつける事は出来ない。婚約破棄が自分のせいである事は紛れも無い事実だ。
「……私のせいです」
ブルーナは震えそうになる自分の声を必死に抑えた。
「……どう詫びればいいのか」
複雑な思いが心に広がっている。一瞬でもラディウスの傍に居たいと大それた事を望んでしまったのだから。
「私は……どんな罰でも受けます……」
ブルーナの言葉が途切れた。
ラディウスと共に過ごした時間は、ブルーナの心に鮮やかな色を差して残っている。
端整な顔立ちがくしゃっと崩れ笑う様や、リラックスした表情で書籍を仰ぎ見る姿、ムッとした時に表れる眉間のシワまでも鮮明に思い出すことが出来た。彼と二度と会わない……そう思うと知らず知らず顔が歪んだ。
「ここを出て行けとおっしゃるのならその通りにいたします……」
厄介者と言う文字が心に浮かぶ。厄介者のくせに、妹の婚約を壊してしまった。
何のために今までひっそりと人目につかぬよう生きてきたのか。エレーヌは大事な妹だ。いつも、こんな自分を慕ってくれた。それなのに……。
妹に対する申し訳なさがとめどもなく溢れてくる。
ブルーナは俯いたまま堪えていた。詫びる気持ちを口にすればする程、自分を消し去ってしまいたくなる。贖罪の意をどう表せば良いだろう。ブルーナは頭を垂れるしかなかった。
「……何故そう思うのです?」
リリアナの震える声が頭上で聞こえる。
(何故?……)
自分がエレーヌの婚約を破棄する切っ掛けを作ったからではないか。それは歴然とした事実なのだ。
そう思いつつリリアナの声の震えが気になる。怒りが頂点に達しているのであれば、手をあげられる事もあるだろう。
「こちらを見て頂戴……私の顔を見て、ブルーナ」
それでもリリアナの震える声にブルーナは今まで感じたことのない何かを感じ、恐る恐る顔を上げた。
すると、思いも寄らぬものがブルーナの目に飛び込んできた。リリアナの目は慈愛に満ち、涙で濡れていたのだ。
(……何が、起こっているの?)
驚くブルーナにリリアナはゆっくりと話し始めた。
「エレーヌとの婚約の破棄を申し出たのはこちらなのよ……そして、あるべき姿に戻って良かったと思っているの」
その言葉にブルーナは驚いた。何を言っているのか、すぐには理解できない。
「私が心を痛めているのは、あなたの事よブルーナ」
リリアナはおずおずとブルーナの手を取った。
「あなたはこんなに美しいのに……こんなに賢いのに……ずっと本の世界に閉じこもっていた……アリシア妃と友人になった時、私がどれほど嬉しかったかわかるかしら……あぁ……この娘の人生がやっと動き始める……そう思ったの」
ブルーナは目を見張ってリリアナを見た。そうする事しかできなかった。
「身体が余り丈夫ではない事が、どれ程あなたに影響を与えていたのか……一緒に住み始めてわかったの……だから、私はあなたに自由にして欲しかった……あなたのしたい事をさせてあげようと心に決めていた……だから、出来るだけあなたに何も言わないようにしていたの……でもね、どうしても、どうしても知って欲しいことが一つだけある……それは私の願いでもあるの」
リリアナはブルーナの手を温めるように包み込むと優しく微笑んだ。
「一人の女性として男性を愛するという事……一人の女性として男性から愛されるという事……それがどれ程の幸福をもたらすか……あなたに知って欲しかった……あの方があなたを見つけ、愛し始めたと気がついた時、あなたが受け入れるよう願ったわ……ただただ願った……だからエレーヌとの婚約を破棄したいと申し出たの……」
リリアナは泣きながらもふふっと笑った。
「エレーヌの婚約破棄を喜ぶなんて……母親失格かしらね……」
全く予想もしてないリリアナの言葉だった。
罵られて当然だと思っていた。リリアナがそのように自分の事を思っていてくれていたとは全く考えなかった。厄介者という事だけがブルーナの中にあった。嫌われているとずっと思っていた。
(愛されていたの?……私はこの人に?)
でも……ブルーナはリリアナの言葉を信じる事が出来ない。
「……あなたは私を……憎んでいるのでは?……」
上手く説明できずもどかしい気持ちになるが、あまりにも驚いた事で頭の中が何から考えていいのか解らなくなった。
「何故憎むの? あなたは私の憧れた女性のたった一人の大切なお嬢さんなのに……」
(憧れ?……)
「私のお母様が、憧れ?」
「そうよ」
リリアナは涙で濡れた瞳をブルーナに向け、ニッコリと笑いながら頷いた。
「……あ……でも、あなたは私からエレーヌを遠ざけた……」
(そうよ……この人はエレーヌに近寄る事を許してくれなかったわ)
私が大切だと思う者を近寄らせてはくれなかった。リリアナがブルーナの事を嫌っているはずだと思っていた今までの出来事を、ブルーナはあげ連ねた。
「……どこで誤解が生じたのか……あなたに説明したくても、あなたは私を拒んでいたから……」
リリアナは少し悲しげに笑う。
「幼いエレーヌがあなたの負担になるのではないかと思ったのよ。エレーヌが生まれてしばらくした頃、強い発作に見舞われた事を覚えているかしら……あの時、あなたはエレーヌを可愛いって抱っこをしていたわ……その事が身体の負担になるのではと」
「…………」
「エレーヌがもっと大きくなって、言って聞かせてあの子が理解するようになるまでは、あなたに無理をさせる訳にはいかなかった」
ブルーナはリリアナの目を見つめた。そこに嘘は見えない。
「……私にも勇気がなかったの。もっと早く、もっと強くあなたに関われば良かった。拒まれた事に怯んでしまった私がいけなかったの……私の思う事をあなたに何を言われようが伝えれば良かった……」
確かに今ならわかる気がする。あの頃の自分はエレーヌとはしゃぎたくて、身体の事を考えずに無理をしたかもしれない。記憶の中に朧げにリリアナが心配そうに自分とエレーヌを見ている姿を思い出した。
「私は‥‥」
ブルーナはそれ以上言葉にする事が出来なかった。一体自分は何に対して反抗し、何に対して怒りを感じていたのか。先程まで堪えていた涙が堰を切ったように溢れだす。
「ブルーナ……」
リリアナが手を伸ばしブルーナの肩を引き寄せた。そのまま抱き締められ、ブルーナはリリアナにしがみ付いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ブルーナは何度も謝った。
自分は何て愚かなのだろう。何も見えていなかったのだ。
リリアナの胸の中でブルーナは初めて声を上げて泣いた。今まで、ずっと抑えていた物が一気に噴き出すように、しゃくり上げてブルーナは泣いた。
リリアナの手が優しくブルーナの背を撫でる。その手は暖かい。
「私が何故貴女のお父様と結婚したのか、知る訳ないわね……」
リリアナは静かに話し始めた。
「あなたのお父様は、貴女のお母様を今も愛していらっしゃるわ」
ブルーナは顔を上げた。
「私が出会った頃も、もちろんお父様の中にはレティシア様が住んでいたの。その時すでに亡くなられて九年の歳月が経っていた。でも、お父様の心は揺るぎなくレティシア様に向いていたの」
「……それで良かったのですか?」
「えぇ……それで良かったの、歳月が流れてもレティシア様の事を愛し続けるお父様の事を、私は愛したから……貴女のお母様も含めて私は愛しているのよ」
ブルーナは改めてリリアナを見つめた。
リリアナは強い人なのだ。強さだけではなく深くて大きな人だという事を初めて知った。その強さも、深さも、大きさも普段は見えない。でも確実に彼女の中に息づいている。
「私は……そんなに強くない……」
呟いたブルーナにリリアナは微笑んだ。
「私は強いのではないわ……ただ、貴女のお父様とお母様の愛し方がとても共感できるの。とても好きなのよ。今でも、お父様と二人の時、よくレティシア様の話をするの……それはとても穏やかな時間なのよ」
そしてリリアナはふふっと笑った。
「レティシア様は私の憧れの方だったから……初めてスズラン祭りの舞踏会でレティシア様を見た時、あまりの美しさに女神だと思ったわ。二年前あなたが初めて舞踏会に参加した日、あの時着ていたブルーのドレスを、レティシア様も着ていたの……あの日の貴女はレティシア様そのものだったわ。あまりに驚いて、涙が出そうになって慌てて二階へ駆け上がったけれど……貴女の馬車が見えなくなるまで、ずっと見ていたのよ…‥」
リリアナは、目を見張るブルーナを覗き込んだ。
「もっと話してもいいかしら?」
リリアナの言葉にブルーナは素直に頷く。
「初めて舞踏会に出た時、私はまだ十五歳で……気後れしてしまってテラスから外へ出てしまったの。庭の早咲のバラを見ている方が気楽だった……そんな時、偶然レティシア様がテラスへ出て来られて、私を見つけ声をかけてくださったの。私はあまりの緊張で慌ててしまって、バラの棘で怪我をした。そんな私にレティシア様は優しく微笑んで、舞踏会は緊張するわよねって……私もそんなに舞踏会は得意じゃないのって、そう仰られて……そして私の指にハンカチを巻いて下さったわ。そのハンカチは今も大事にしているのよ」
懐かしむように話すリリアナの声が心地よく響いている。
「それからレティシア様を心配した貴女のお父様が現れて……私はそそくさと退散したの。でも、その時にレティシア様の話すのが聞こえて……可愛らしい方に会ったの、ブルーナもあんな風に可愛らしくなって欲しいわ……って、その言葉を聞いて私は舞い上がってしまったわ。そしてその言葉がどんなに嬉しかったか……ある意味ずっと私の心の支えになっていたのよ」
リリアナの眼に涙が滲んでいた。リリアナの話すレティシアは、ブルーナの中で生き生きと動き始める。父と共に自分の事を話すレティシアの姿が見えるように思えた。
「私のお手本は、レティシア様なの……貴女のお母様ならどうするかしらって、いつも考えるわ」
ブルーナはリリアナに甘えてみたくなった。体を丸め、リリアナの胸にうずくまる。リリアナは小さな子供を抱く様にブルーナを優しく抱きしめた。
満たされなかった何かが少しずつ満たされてゆく、そんな感覚がある。淀んでいた空気が浮上していく。ラディウスと出会って、戸惑いばかりがあった。でも……。
「もう少し我がままになっても良いのよ、ブルーナ。身体が楽な時は、その事を忘れることも必要よ。もちろん無理はいけないわ。でも、先の事は誰にもわからないの」
リリアナの声は優しく力強くブルーナの心に響いた。
「あなたはラディウス殿下と出会って愛することを知ったでしょう?……今度は素直に愛されることを知って御覧なさい。そうすれば、自分の中にどんどん力が出て来るわ、多少の事では揺るぎない程の力よ。もしいつかまた、あなたの心に触れる殿方と出会うなら、素直に……ただ素直にあなたの心に従いなさい。貴女は十分に愛されるべき人なのよ」
リリアナの言葉は心の中を暖かく満たした。今なら素直に言えるかも知れない。
「私……ラディウス殿下の事が……とても好きでした……」
また涙が溢れた。初めてラディウスへの気持ちを口にしたブルーナは、少しだけ心が軽くなるように感じた。リリアナは何も言わず優しく抱き締めてくれる。
結ばれてはならない終わってしまった恋だけど、素直に自分の心を口にした事でその想いに向き合える気がした。
「私は彼の事が好きでした……大好きでした……」
素直になるとは、こんなにも心を軽くするものなのだ。ブルーナは素直にリリアナに体を預けた。リリアナの腕の中は暖かい。
「えぇ……それは尊い想いなのよ。忘れないで……」
「……はい」
「……これからはもっとたくさん話しましょう。たくさんの時間を共に過ごしましょう」
「はい……母上」
リリアナはブルーナの背中を優しく叩いた。まるで眠る子供の背中を叩くように優しく優しく。
リリアナは自分にこのように接したかったのだ。ブルーナはリリアナの気持ちを素直に受け入れる事で落ち着きを取り戻していった。
義母の思いを知ってから、ブルーナは家族との時間を増やしていった。エレーヌはそれが嬉しくて仕方ないらしく、朝目覚めて身支度を整えるとそのままブルーナの元へやってくる事が多くなった。父とも会話をするようになり、家族が揃うと居間の笑い声が頻繁に聞こえるようになった。
ラディウスとの恋は終わってしまったが、ブルーナの変化が嬉しくてエルダはラディウスに感謝をせずには居られなかった。
ラディウスとは別れてしまいましたが、家族との時間を取り戻したブルーナ。
彼女の心がまた大きく成長します。




