69 ラディウスへの想い
雪が降り始める頃になるとブルーナは部屋から一切出なくなった。
窓の外には葉を落とした木の枝が見えている。その枝に雪が舞い、美しい白い花が咲いているように見えていた。
ブルーナはずっと塞いだままだった。ぼんやりと窓の外を眺め、本すら手にしない。
食事もあまり手につけないために、フィアが工夫して具沢山のスープを作った。鶏の出汁の効いた塩味のさっぱりとしたスープにたっぷりと野菜と豆を入れると、ブルーナはこのスープだけは食べた。
今日もブルーナは椅子に腰掛けたままで窓の外を眺めていた。空の色は重い雲の灰色一色で、寒々としている。目に入るもの全てに色がない様は、何とも言えない鬱積したものが重なったように見える。
「お嬢様? ハーブティーをどうぞ……」
そんな中でもエルダは変わりなくブルーナに接していた。彼女にとってブルーナが元気でも元気がなくても変わりはない。ブルーナはブルーナなのだ。
「体が温まりますよ」
「……えぇ」
手渡されたカップには暖かい黄緑色の液体が入っている。ハーブティーの優しい香りが漂う中、ブルーナはじっとその液体を見つめた。
「温かいうちにどうぞ」
「……そうね」
ブルーナはやっとカップに口を付けた。
確かにこのハーブティーを飲んでからブルーナは風邪をひいていない。だけど、あれからブルーナには覇気がなくなってしまった。
ラディウスの存在がどれほどブルーナに影響していたのか、今はもう誰もがわかっている。
たまにエレーヌがやってくるが、ブルーナは体調が悪いと理由をつけ、エレーヌにも会おうとはしなかった。
どうすればブルーナが気力を取り戻せるのか……。エルダは色々と画策したがどれも成功はしなかった。最後の手段はアリシアの力を借りることだろうか?
アリシアならどうするだろう。エルダは静かにハーブのお茶を飲むブルーナを見つめながら考えた。アリシアなら、きっとたくさんの話をブルーナから引き出すだろう。そしてそれら全てに寄り添う。そんな気がする。
(やはり、一度お手紙を差し出した方が良いかしら?)
エルダは数日前にルドヴィーグ伯爵からブルーナと共に夕食を取りたいと打診を受けていた。でも、今のブルーナを見れば伯爵はもっと心配をするだろう。それがわかっているだけにブルーナの様子を伝えるだけで話を通してはいない。
ラディウスとの別れから二ヶ月が経とうとしていた。ブルーナの心はまだ元には戻らない。それでも良いとエルダは思っている。ゆっくりと心の傷を癒せば良いのだ。
エルダは三週間前にアリシアへ手紙を書いた。素直にブルーナの現状をエルダの視点で書いて送った。詳しく書くわけにはいかず、アリシアには何のことか分からないかもしれない。でも、ブルーナが元気がない事は伝わるはずだった。
来月半ばになると雪が深くなりもう手紙のやり取りができなくなる。その合間を縫っての連絡だ。エルダはアリシアからの返信を待った。この閉じこもる冬に入る前にアリシアの手紙が届けば、ブルーナは少しだけ元気になるはずとその気持ちを信じた。
アリシアからの手紙はそれから十日してエルダ宛に届いた。
エルダに届いた封筒は、王太子妃が使う質の良い紙ではなく、街の人が使うようなありふれた紙が使われていた。明らかに、そのまま違和感なくエルダに届くように気を利かせてくれたのだ。
中にはブルーナ宛とエルダ宛に書いたものが別々に入っている。それはいつものように王太子妃の使用するものだった。
その気遣いをエルダは嬉しく感じた。エルダ宛の手紙にはお礼と、事によってはリングレントに来ないかという提案が書いてあった。
(リングレントへ行く……それも良いのかもしれない)
エルダはアリシアからの手紙を持つとブルーナの元へ向かった。
それ以降、ブルーナの様子は目に見えて改善してきた。食事は鶏の出汁の野菜のスープ以外にもパンや干した果物も口にするようになった。
元々静かに過ごすのが当たり前だったから、側からはそう変化はないように見えたが、日々の状態を知るエルダにとっては大きな変化だ。
アリシアの手紙にはなにが書いてあったのか、ブルーナは何も話さなかった。だが、それでも変化をもたらす程のものがあったのだ。
(もしお会いできたら、感謝を伝えよう)
エルダは祈るような気持ちで青い空を見つめた。
それから数日後。
「父上が? 夕食をともに取りたいと?」
エルダはブルーナに「共に夕食を」という伯爵の申し出を伝える事ができた。
今度はエレーヌも共に食事を取るのだという。やっと家族で食事を取る事ができるのだ。エルダには少しだけ不安はあったもののそれでもブルーナには大切な事だと思えた。
「エレーヌ様もようやく家族と共に食事をいただけるようになったのだそうです。ですから、伯爵様はブルーナお嬢様もご一緒したいと」
「そう……」
さりげなく言ったつもりだが、ブルーナにはどう響いただろう。少し考え込むように窓の外へ視線を向ける。
あれだけ大事にしていたエレーヌとの交流に対して考え込む姿は、まだ心の状態が追い付いていないのだと判るだけに、無理強いをする事もできない。
だがしばらくするとブルーナはちゃんと言葉にしてエルダに伝えた。
「ご一緒いたします。そう伝えておいて……」
「……お嬢様、本当に宜しいのですか?」
「えぇ、いつかはちゃんと向き合わなくてはいけない事だから」
「お嬢様……」
ブルーナは何かを決意したのだ。エルダはアリシアの手紙に書いてあったリングレントに来ないかという文章を思った。いずれにしても自分はブルーナについて行くだけだ。
その日、家族の夕食の席にブルーナは参加した。
部屋に入ると伯爵夫妻はすでに席に座っている。でも顔を見る事ができずに直ぐに自分の席へと移動した。
「遅くなりました」
ブルーナが自分の席に座った所でまた扉が開き、今度は侍女と一緒にエレーヌが入って来た。
「あ! お姉様!」
エレーヌは入って来るなりブルーナを見つけ、侍女の手を振り解くとブルーナの元に駆け寄り抱き着いた。
「ずっとずっと、お姉様に会いたかったの。私色々できるようになったのよ。だからお姉様とまた本を一緒に読みたかったの」
涙を溜めた目でブルーナを見上げ、自分が何をできるようになったのか、一生懸命に説明をする。エレーヌは自分がブルーナに嫌われてしまったかもしれない、という不安を払拭するために必死になっている。いじらしくも可愛らしい妹の姿にブルーナも少しだけ涙ぐんだ。
「そう、エレーヌはずっと頑張っていたのね」
ブルーナはまた申し訳ない気持ちが立った。自分のせいで彼女は婚約を破棄されたのだ。今日この場で三人に詫びる事、それもブルーナの一つの目的だった。今それをしておかないと先には進めないように思う。
伯爵夫妻は、何故かエレーヌがブルーナに抱き着いた事を咎める事はしなかった。今日はエレーヌが初めてみんなと食事をとる事で多めに見てくれたのかもしれない。でも、二人の目を見る事ができなかった。
「今日は初めてエレーヌが家族と共に食事をする日だ。今日だけはみんな楽しく食事ができるようにしようではないか」
厳かにルドヴィーグ伯爵は言うと注いだワインの杯を持ち上げそれぞれの顔を見た。
ブルーナとエレーヌの杯に入っているのは似た色の木苺のジュースだ。伯爵とリリアナが杯に口をつけるのを見て、ブルーナも口元へ運んだ。木苺のジュースはほんのり甘く香った。口に含むとほんの少しの酸味と深い甘味が口に広がる。やはりフィアの作るものは美味しい。
料理が運ばれて来るまでブルーナは黙って静かにジュースを飲んだ。
食事は静かに始まった。
ブルーナが好んで食べていた野菜のスープはミルクを入れアレンジされている。でも深い味わいに変わりはなかった。ブルーナはゆっくりとそれだけを食べた。他のものもテーブルの上に並んではいたが、手を付ける事はできなかった。
胸に秘めたものがあるからか、美味しそうに見える食事も食べたいとは思えない。形だけ示すためにブルーナは野菜のスープを飲んだ。
「家族が皆揃うと言うのは嬉しいものだな」
静かな空気を打ち破ろうと、無理矢理に伯爵が話を始めた。
「えぇ、そうですね。エレーヌもようやくこうして席につく事ができましたから……」
そんな穏やかな事を言いながら、きっとこの二人は自分の事を責めるのではないか……。ブルーナの中ではその気持ちが大きかった。
自分が犯した罪は許されるものではないはずだ。だから今日はリングレントに行こうと思うと伝えるつもりだった。彼らのそばを離れる事で、彼らもブルーナ自身も救われるような気がしている。
「私も、お父様とお母様とお姉さまとみんなでのお食事は嬉しいの。フィアの作るご飯はいつも美味しいけれど、今日はいつもよりずっと美味しく感じるわ」
「そうだね。その感覚は大事な事でもあるんだよ」
「そうですね。好きな人達と食べると美味しさは倍に膨れるのよ」
目の前で繰り広げられる仲睦まじい家族の中に自分は入れない。ブルーナの心の刺が一段と深く突き刺さった気がした。
「大好きな人と食べたのは前に一度あるわ。お姉様とお兄様と一緒にピクニックをしたの。あの時はとっても美味しかった」
エレーヌがニコニコとそう言った。そして……
「最近お兄様がいらっしゃらないのはどうして? またお姉様とお兄様と本を読みたいのに。春になったらまた来てくださるかしら? そうしたらまたピクニックもするの」
ブルーナは、途端に暖炉の効いた部屋の温度が下がったような気がした。
「……そうね……お兄様がいらっしゃらないのは寂しいわね、でも……」
リリアナがそこまで行った時、ブルーナは思わずガタッと音を立てて立ち上がってしまった。みんなの視線が自分に注がれているのを感じる。
「……ごめんなさい、私……」
ブルーナはそれ以上言えなくなった。謝るきっかけにちょうど良いタイミングのはずなのに、それ以上の言葉が出てこない。
それから考えるよりも先に体が動いてしまった。そのまま扉まで進み部屋を出て行く。逃げ帰るように自分の部屋へ急ぐ。
(私は、こんなにも弱くなってしまった……)
ラディウスの話を聞くのがこんなに辛いとは……。自分でも分かっていなかった。
(私は、彼を本当に愛してしまっていたのだわ)
自分の行動が信じられない。冷静になるのは得意だったはず。それなのに今、心の余裕が何もない。
後からエルダが追いかけてきた。
「お嬢様! 走ってはいけません!」
(分かっている。そんなこと分かっている! でも、どうしようもないの!)
部屋の扉を開けると、ブルーナは飛び込んだ。
「エルダ! お願い! 一人にして!」
部屋に飛び込むとブルーナは扉を閉め、扉を背もたれにズルズルと床に座り込んだ。
「お嬢様……」
閉じた扉の向こうでエルダの声がする。
「お願い……しばらくで良いの、一人にして……」
ブルーナの頬には涙が溢れていた。もうどうしようもないのに、どうしてこうも涙が出るのか。でも、しばらくの間一人でいたい。
「分かりました……後でご様子を見に参りますから。暖かくしていてくださいね」
エルダは言葉を残し去っていった。冷たい床はまるで自分の人生のようだと思う。何をなす訳でもなく、ただ冷たくそこにある。
ブルーナの涙はしばらく止まりそうになかった。




