68 すれ違う心
ラディウスはブルーナの部屋に到着したが、部屋に入るのを躊躇った。もしこの扉の中で、彼女に何かが起こっていたら……それを思うと、扉に手が伸びない。怖いのだ。ブルーナを無くす事がどうしようもなく怖い。
「ラディウス様、先程まで、お嬢様はベッドから出ようと……書庫のラディウス様に会いに行こうとしていたのです」
追いかけてきたエルダが肩で息をしながらラディウスの背中に声をかけた。
「カルロス・アザック様がどうにかお止めしたのですが……どうしてもラディウス様に会いたいと……聞きたい事があると……ですからどうか、話を聞いてあげてくださいませ」
ラディウスの後でエルダが懇願するように声をかける。それに後押しされるようにラディウスはやっと扉に手を伸ばした。
* * * * *
部屋に入ると、ブルーナはベッドの中で目を閉じていた。表情からは何もわからないが顔色は青白い。そのためか細い体がさらに細く、消え入りそうで心細く見えている。
ラディウスの手が己の意思とは関係なく震えた。
(ブルーナ、私には君が必要なんだ!)
叫ぶのを抑えるのが精一杯になる。彼女との別れなどあってはならない。
「ブルーナ……私だ……」
どうにか声を掛けるとブルーナは目を開け、ラディウスの姿を確認すると小さな声を出した。
「来てくれたのね。良かった……」
その声を聞いてホッとした瞬間にラディウスの手の震えが治まる。この一瞬で手の震えが治るほど、ブルーナは自分に影響力があるのだと認識してしまう。
「……君が倒れたと聞いて、とても心配した」
ラディウスはかすれた声でどうにかそれだけを声にした。
「今はこの通り、ちょっと弱っています」
ブルーナは力ない苦笑を浮かべる。
「お願い、殿下と二人だけで話をさせて下さい」
「ですが、お嬢様……」
「お願いよ、エルダ。私は大丈夫、もう無理はしないから、だから殿下と二人だけで話をさせて」
誰もが何も言い出せず、部屋を出ていくしかない雰囲気になった。それだけブルーナの声には弱々しくあっても気迫があった。
「ラディウス様、お嬢様をお願いします。何かあればすぐに声をかけて下さい。部屋の外で待機していますから……」
「わかった……」
ラディウス以外が部屋から出ていくとブルーナが口を開いた。
「殿下、こちらに座ってください。ごめんなさい。今身体を動かすのが少し辛いの。ちゃんと声は聞こえる?」
「あぁ……」
ラディウスがブルーナの傍の椅子に座ると、彼女は一度目を閉じた。そして目を開けた時には、いつものブルーナのように真っ直ぐにラディウスを見た。
「エレーヌと婚約破棄とはどういう事なのか、殿下から説明が聞きたかったのです」
「それは……」
「私のせいですか? 私の身体がこんなだから、だから妹の身体も心配だと思ったのですか?」
具合が悪いはずなのにブルーナの声は小さいが凛としている。
「そうではない。それは関係ないんだ」
「ではなぜ? 私は妹を不幸にしてしまったの? そうなんでしょう?」
「違うんだブルーナ。どういえば君が理解してくれるのか、ずっと考えていた。でもこれだけは言える。隠す事が、できなくなった……」
「隠す?……」
(あぁ……やはりそうなのだ)
ブルーナには思う所があった。自分がラディウスの事を好きになったからだ。だから、ラディウスは自分に応えようとした。だから、婚約を破棄した。
後悔の念が胸に広がる。こうなる筈ではなかったのに。
でも自分は彼にとって必要だと言われた言葉が嬉しかった。だからたくさんの政治に関する書物も読んだ。自分が考えを言う事で彼は考える。助けになる一助になるならそれでよかった。
それだけで良かったはずなのに……。
好きになってしまったのは自分の非だ。エレーヌの幸せを奪ったのは自分だ。だけど言葉が出ない。
何もなかった事にできるだろうか? 私は彼の婚約者の姉であってそれ以上ではない。そんな風に、前のように思う事はできるだろうか? できるとすれば、自分の気持ちをもう決して彼には見せない。エレーヌの幸せのためにはそれが一番良い選択だ。
黙ってしまったブルーナをラディウスは労わるように見つめた。
「私は……」
(私が愛しているのは君だから……)
ラディウスはその言葉を何度も呑み込んだ。ブルーナの瞳が濃いブルーに変化し揺らぐ。ラディウスは思わずブルーナから目を逸らした。体調が万全ではない彼女にどこまで本心を伝えればいいのか躊躇いがある。
婚約破棄の事を言い訳するつもりは無い。でも、ここで本心を言ったところで状況は変わらない。
ブルーナはエレーヌとの婚約を元に戻したい筈だ。でも自分に必要なのはエレーヌではない。どう転んだ所でそれだけはどうしようもないのだ。どう言えば分かってくれるのか。
「殿下、お願いがあります」
ブルーナがゆっくりと起き上がった。力が必要なのか息が上がっている。
「ブルーナ! 起きるな!」
慌ててラディウスはブルーナの手を取った。その手を離すまいとブルーナはラディウスの手を握り締める。その力を借りてブルーナは起き上がった。
「婚約破棄を取り消して下さい。あの子には私にはない未来があるの。きっとあなたを支える強い女性になるわ。だからお願い……」
(違う! 私には君が、この手が必要なのだ)
ラディウスはブルーナの手を包み込むと、願うように自分の唇へ持って行った。こんなに愛しいと感じているのに、なぜこうもうまく行かないのか。それから屈んで祈るようにその手の甲に額をつける。
「……私は君を……君を愛している。誰よりも君を……」
空気が止まったような気がした。
ブルーナは自分の手に額をつけ、呻くように呟くラディウスの言葉を聞いた。でも、聞いてはいけないと思った。これは許されない事だ。
「お願い……私ではなく、エレーヌを愛して!」
その瞬間、ラディウスは思わずブルーナを抱きしめていた。必死に抑えていたブルーナへの想いが一気に流れ出る。ベッドの上のブルーナは細く儚く身悶えもしなかった。
ラディウスの腕に抱かれた感覚は、あの書庫の出来事とは少しだけ違った。抱きしめる腕に優しさがこもっている。ラディウスはブルーナの思いも一緒に抱きしめているのだと感じた。優しく力強い彼の腕の中は、どこよりも安全な場所に思える。
ラディウスの肩越しの窓ガラスの向こうに青い空が見えている。その青い空をブルーナの心が鮮明に捉えた。
(あぁ、気づかなかった……今日はとても天気が良いのだわ……)
外は寒いだろうに、樹木の葉は落ちているだろうに、心の中の炎が燃え上がるような気がしている。身体が熱くなる感覚がある。そしてこの感情は何なのだろう。
「あの日、君が倒れた日……私の心に居るのは君なのだと思い知った。私が求めるのは君なんだ。エレーヌじゃない、それをどうかわかって欲しい」
その言葉が嬉しい。ラディウスに抱きしめられている現実が嬉しい。ラディウスの衣服のシダーウッドの匂いが間近でするのが嬉しい。身体の奥の方で抑えられない何かがある。
(あぁ……そうか。私はこの人がどうしようもなく愛しいのだわ)
すがり付きたい想いに駆られ、ラディウスの背に手を回そうとして、ブルーナは我に帰った。
(駄目……エレーヌを傷つけてしまう。今、私がしなくてはならない事は……)
ブルーナの見開いた目から涙が頬に落ちた。一度目をギュッと瞑り、喜びを心の奥に閉じ込めようともがいた。
「それがわかった以上、エレーヌとの婚約を続ける事は出来ない。それに……」
ラディウスは言葉を続けようとしたが、腕の中のブルーナが身をよじった。そして渾身の力でラディウスから離れる。息が荒い、でも構ってはいられない。
「………………私は!」
(私は身体が弱いから、あなたには相応しくない! だからエレーヌと……)
ブルーナはその言葉を飲み込んだ。そんな事を言って何になるのか。ラディウスはもうエレーヌとの婚約を破棄する事を決めている。今更そんな事を言っても何も覆る事はない。
(もう、この人とは会う事はできない)
ブルーナは漠然とそう思った。もう会えない。会えば自分もラディウスも、そしてエレーヌも辛くなる。
「ブルーナ! お願いだ! 時間をくれないか? 私は君を失いたくないんだ」
それはラディウスの心からの叫びだった。ブルーナを失いたくない。その思いは何より強く大きい。
でも、ラディウスの表情は苦悩に満ちている。
ブルーナはラディウスの顔を見つめた。
いつだっただろう、愛する人に口づけされる夢を見た。あの時、顔も覚えていない愛する人は愛の言葉をささやいて微笑んでいた。でも、目の前にいるラディウスは苦しい顔をしている。
(この人は身体の弱い私を愛したから苦悩している)
ブルーナは冷静になろうと努めた。
彼は自分とは結ばれてはいけない。自分はいつ死ぬかわからない、そうなれば彼には苦悩だけが残ってしまう。
(彼を救う手段は……)
「あなたはご自分で何を言っているのかわかっているのですか? 無理を言って、幼いエレーヌと婚約し……違うからと破棄した後に今度は私? 馬鹿にしないで……」
ブルーナの声は静かだった。ラディウスを苦悩から救う手段はこれしかないと思った。自分の病は治らない、それなら彼をここに縛り付けることをしてはならない。
(彼を傷つけても、彼が私を嫌いになる方が良い)
悲しい決断に思えた。でもそうする事でラディウスは思いを断ち切ることができる。それはブルーナ自身にも言えた。
「ブルーナ……そうとられても仕方ない……だが……」
「……あなたの感情は間違っている、あなたが私に対して思っているのは愛じゃない……同情よ。あなた程の人が、なぜそれがわからないの?」
「同情なものか! 君が目の前で倒れるのを見た時……自分の心臓が止まるかと思った。私は、君を、失いたくないんだ!」
ラディウスの真剣な目がブルーナを捉えていた。でもブルーナも必死だった。
「私の想いに答えてくれ……」
ラディウスはブルーナの手を包み込むと、願うように自分の唇へ持って行く。
ラディウスの気持ちは一心にブルーナに向かっている。一瞬、ブルーナ自身もラディウスを愛しいと激しく感じた。この手を握り返すことが出来たら……。
でも、その申し出を呑む訳にはいかない。ブルーナは手を振りほどいた。身体の弱い自分を傍につけるなど周りが許さない。彼は間違っている。エレーヌとなら幸せな未来が待っているのに。
(なぜ愛してしまったんだろう……)
「同情よ……あなたの感情は同情以外の何ものでもない! 私を失いたくない? 錯覚と現実の区別もつかないの? 私はそんなものを望んでいる訳ではないわ!」
涙が溢れてくる。では、自分はいったい何を望んでいるのか……。
(生きたい!!)
ブルーナの心の奥底に、欲望のようにその言葉が沸き起こった。
(……私が健康なら……この手を握り締めるわ、彼のこの胸に飛び込むわ)
思わずブルーナは目の前にあるラディウスの力強い手に触れそうになった。
しかし、現実は自分とラディウスは結ばれてはならないという強い思いだった。その思いで口を付いたのはラディウスへの批判。
「あなたのやった事は軽率で愚かな行為よ……もう二度と私の前に現れないで……」
「ブルーナ……」
ラディウスは手をつかんでブルーナを落ち着けようとした。これ以上興奮してしまうとまた発作に見舞われる危険がある。でもその手は払われてしまった。
「帰って! 婚約を破棄すると言うなら、もう二度とここへは来ないで!」
「ブルーナ! 落ち着いてくれ!」
「帰って下さい……お願い、もう帰って……」
ブルーナは目を閉じた。もうラディウスを見ようともしない。
ラディウスは唇を噛んだ。取り付く島がない。ある程度予期していた事ではあった。病がわかった時もブルーナはエレーヌの婚約破棄を恐れていたから。
(私が欲しいのは君なんだ……ただそれだけなのに……)
ブルーナを迎えるために、そのために自分はこれからやるべき事がある。
もうこれ以上ブルーナを興奮させてはいけない。もし今また発作が起これば、自分を呪うしかなくなる。
今は、この場を立ち去るべきだ。
目を伏せると、ラディウスは椅子から立ち上がり扉に向かって歩き出した。
悲痛な面持ちで扉を開けるとエルダが立っていた。
「あ……」
扉の外で部屋の中の険悪な空気を感じながらも入れずにいたのだろう。
「悪かった……私は帰るが、ブルーナを頼む」
一言告げると、ラディウスは玄関に向かって歩きだした。思い詰めながらも、エルダはその後ろ姿を見つめる事しかできなかった。
* * * * *
ブルーナはラディウスが部屋を出ていくとベッドの中で体を丸め嗚咽した。
本当は同情かそうでないかなど、どうでもいい。ラディウスの愛の告白は余りにも嬉しかった。でも同じように、余りにも哀しかった。自分とは幸せにはなれない。彼はこの病の危うさを理解していない。
幼い頃、五歳まで生きられないと言われ、それからいつも新しい年が来る度に、生き長らえてしまったと複雑な思いに捕らわれた。
自分の人生など取るに足らないものだ。自分は決してアリシアと見上げたあのカツラの木の葉に手が届くことはない。その人生に彼が関わるなどありえないのだ。
そう思った時、ブルーナの脳裏にラディウスの笑う笑顔が浮かんだ。
(もう、会えない……)
ラディウスともう二度と会う事は出来ないだろう。そして離した手はもう繋がることはない。
(誰かこの苦しい気持ちをなくす方法を教えて!)
そう思った時、ブルーナの脳裏にアリシアの笑顔が浮かんだ。ベッドの中で思わず手を伸ばす。
(アリシア……助けて……私、とても苦しい)
婚約解消が現実なら、エレーヌを溺愛している両親は自分の事を許さないだろう。もう、ここに居る事も許してはもらえないかもしれない。妹の婚約を破棄した原因が姉であるなどあってはならない事だ。
(……アリシアに会いたい!)
悲しみの先に何か見えて来るものがあるのだろうか? パンドラの中には最後に希望が残っていた。だが自分には何も残ってはいない。悲しい程それが現実なのだ。
(アリシア、あなたに会いたい!)
ブルーナは友の顔を思い出しながら声にならない声で叫んでいた。
ブルーナとラディウスは悲しくも分かれてしまいました。
もうあの書庫で二人の時間は持てないのか……
でも……ラディウスは……
誤字報告、本当にありがたくて仕方ありません。
お恥ずかしい限りではありますが、感謝しているんです!本当に!




