67 想いの深さ
ラディウスは書庫に向いながら途中にあるブルーナの部屋へと続く廊下で立ち止まった。部屋の方を見るが中の様子はわからない。今あの部屋の中で彼女は苦しんでいるのだろう。そう思うと胸が締め付けられる。
——何故、誰が彼女の耳に入れたのだ?
静かな憤りが腹の奥から沸き起こる。
——何故こうも自分とブルーナの間には障害が立ちはだかるのだろう……。
ラディウスは書庫へと続く渡り廊下を行きながら、ふと中庭に目をやった。もう大分広葉樹の葉は落ち、庭の木々は寂しい色合いになっている。苛立ちを収めるのに苦労しながら、ラディウスは書庫へ足を向けた。
書庫へ向かうと中から一人、男が出て来るところに出会した。彼はラディウスを見ると、少し驚いた顔をしてすぐに廊下の隅に寄り、ラディウスがその男の側を過ぎると立ち去って行った。
それはいつもの従者達の態度に見えたが、ラディウスは何故かその男が気になった。
立ち止まるラディウスに男は背を向け、廊下の向こうに消えて行く。その後ろ姿が気になった。何かわからないが、どこかで見た気がしたのだ。心のどこかで何かが危険を知らせるように警鐘を鳴らす。
——この感覚は何だ?
しばらくその場に佇み考えたが直ぐには思い出せず、ラディウスは引っかかる感覚を残したまま書庫に入って行った。
冷んやりとした書庫の中はブルーナが居ないだけで色褪せて見えた。
ラディウスはそのまま奥へ進み、いつものブルーナの席の前に座った。目の前の席にブルーナがいるだけで、この空間は生きていた。でも今は寒々としている。
改めて自分の中のブルーナの存在が大きくなっているのを痛感する。ラディウスは口元を引き締めた。このままでいいわけはない。
ブルーナの事を父王に話すとして、オルファ王は柔軟性がある。恐らく父は王としての立場より父としての立場として息子と向き合い、ものを言うだろう。それから自分に考える時間を与えるはずだ。
だが、問題は母だ。エマ王妃は立場と物事を重視する。実母ではあるが、きっとブルーナは自分にとって大切な女性だと伝えた所で、ラディウスの言い分は一笑されて終わるだろう。ブルーナの重要性をどう伝えれば母にわかってもらえるのか……伝え方を考えなければいけない。
ふとエリウスの事が頭に浮かんだ。弟は男色だという噂を自ら流していた。あれはもしや……
——母からの干渉を避けるためか?
そう考えると合点がいった。男色だとすれば、母はその感覚が理解できないだろう。おいそれと干渉できなくなる。
——成る程、そういう手があったか……。
だが今それが解ったとしても時間がない。そして同時に思い出した事があった。
「あぁ……そうか……」
思わず声を出してしまったが、先ほどの書庫を出て行った男をどこで見たのかラディウスは思い出した。
彼は母の従者とよく話していた男だ。気付いたのはまだ十四歳の時だったが、確かにあの時に見た男だ。母の従者とは面識があるが、その従者が使っている者の事はよく知らない。
ラディウスは、昔、ある貴族の令嬢と仲良くなった。あの頃、あの男をよく廊下で見かけていた。あれも母の指示だったのだろうか?
記憶を辿ってみるが、侯爵家の三人の令嬢達との時には見た記憶がない。三人の令嬢の時はラディウスは三人とも嫌だと思っていた。でも、昔の十代の令嬢との交流では彼女に好意を持っていた。
知らず知らず眉間に皺が寄る。
後々、あの令嬢は貧乏貴族の娘で、裏で彼女の父親が彼女をラディウスの妃に据えようと画策していたのを知った。別に彼女に罪はなかったと今も思う。だが、婚約に至るまで彼女の事を好きになったかどうかはわからない。優しい娘だったのは覚えているが、それだけだったようにも思う。
——母はあの令嬢が気に入らなかったのだな。
もし、あの男がこの事に絡んでいるとすれば……ブルーナの発作を誘導したのは、間違いなく彼だろう。いつ頃から母は気付いていたのか。
「余計なことを……」
ラディウスは静かに奥歯を噛み締めた。抑えていた怒りが湧き出してくる。
ブルーナを傷つける者は誰であろうと絶対に許さない。それが母であってもだ。
——今、私はあの時とは違う。ブルーナを絶対に守ってみせる。
沸沸とした想いを腹に抱え、ラディウスはひとり考え込んだ。
* * * * *
それからしばらく経ち、書庫に一人の老人が入ってきた。老人といってもがたいは良く、背筋もしゃんと伸びている。入ってきたのはカルロス・アザック医師だ。
若い時から白髪混じりだったために老人だと思っていたが、背筋の伸びからすると実はまだ若いのかもしれない。
「殿下、ここにおいででしたか。お呼びだと聞きましたが……」
カルロス医師はそう言いながらスッと音もなくラディウスに近寄った。
「何やらつけられているのですよ。この家の従者に……」
小さな声でカルロスはそう言った。
「あぁ、恐らくそれはこの家の者ではない。外から入り込んだ者で、情報を外へ漏らしている」
「何と……そこまで解っていらっしゃるなら、何か対策を取らねばいけないのでは?」
「城絡みの面倒な男だ。ここには大量の書物がある。小さな声で話せば、壁に反響する事はないから聞こえはしない。安心していい、ここで話す方が安全だ」
「エレーヌ嬢と婚約破棄をされたから、こんな事になっているのですか?」
ラディウスは軽く笑った。
「婚約も破棄も関係はないだろう……ここへ通う私の見張りのようなものかもしれぬ」
カルロス医師は「あぁ」と頭を掻いた。
「成る程、そんな所ですか……」
「こんな大事な時に呼び出して、悪かったな」
「いいえ、それで……聞きたいこととはブルーナ嬢の事ですか?」
「あぁ、そうだ」
ラディウスは先ずブルーナの容態を尋ねた。ブルーナの状況いかんでは今日は会えないかもしれない。だが一番大事な事だ。
「状態は……あまり良いとは言えませんな。ブルーナ嬢の不安の原因は婚約破棄でしょうが。その不安を打ち消す何かがあれば、お会いしても良いと思うのですよ……ですが今は、もう少し落ち着くのをお待ちくださいませ。その時の状況によってお会いするかどうかを決めるのが良いでしょうて」
「体調に異変が出たのか?」
「まぁ、そんな所です。極度の緊張や不安は身体に確実に悪影響を及ぼしますからな。今の所は、原因であるその不安を軽くする事が一番でしょうが……」
ラディウスは考え込んだ。ブルーナの一番の不安の原因を取り消す事はできない。だが、軽減する事はできるのではないか?
「時間をおけば彼女に会う事は可能なのか?」
ラディウスの問いにカルロス医師は返事を渋った。
「どう、ですかな……。微妙な所です。ブルーナ嬢の状態を考えれば、会う事を許可するのは、正直に申し上げて考えてしまいます。しかし、その不安がずっと続くのなら、早めに取り除いてあげた方が良いとも思うのですよ。とは言え、元は気丈な方ですからな、心の持ち様は心得ていると思います」
これにはラディウスも返事ができなかった。
婚約破棄が原因ならどうしようもない。自分にできる事はないと言える。深い溜息が出た。どうすれば良いというのか……。どんなに深くブルーナの事を想っていても、何もできない事が恨めしい。
——深い想いだけでは彼女を救えない……。
ラディウスはカルロス医師に声をかけた。
「あなたはブルーナの元へ戻ってくれ、彼女を頼む」
「殿下……」
「私はもう少しここに居る。呼び立てて悪かったな……」
カルロスは口を引き締めた。だがどう声をかけて良いのかわからず、礼をして出て行った。
残されたラディウスは頭を抱えるようにして椅子に腰掛けた。目の前の席は空席のままだ。ここに座っていたブルーナの笑顔を思った。
ブルーナが愛しい。
だがそれだけでは駄目なのだ。
——どうすれば良い?
彼女を想うだけでは何の解決にもならない。このまま自分がルドヴィーグ家に来なくなったとして、それで母が納得するだろうか? 母の思いはどこにあるのか……。今のラディウスにはそれすらわからない。
ブルーナを守らなければいけない。そう強く思う。
——誰も、何も手出しをさせないくらいに強くなければならないとすれば……。
ラディウスは深く考えた。
今足りないのは情報だ。母が何を考え、どうしたいのか……。それは向こうも同じなのではないか? ブルーナという人物の人となりを知らないから排除しようとするのだ。
ブルーナという人物を分かってもらう。そのために何が必要か。父は十字軍の出兵を決めたきっかけの会議のレポートを読んでいる。あれを書いたのがブルーナである事を知れば興味を持つだろう。
では母は? 母が興味を持つとすれば何だ? 彼女の興味は今の所、息子である自分だ。だが、今自分が何を言っても母は聞く耳を持たない。
何故母は聞く耳を持たないのか。
「……そうか」
ラディウスは思わず声をあげた。自分はまだ母には認められていないのだ。これまでやってきた事は、恐らく誰でもできた事だ。
——ではやるべき事は一つだ。
これまでの成果以上の何かを出せば良い。誰もが納得でき、口を挟めないような成果を成し遂げれば、両親も重鎮達も聞く耳を持つだろう。
ずっと解っていた事だった。王太子としてまだ自分は大きな成果をとげる事ができていない。必要なものは結果だ。
長い時間、ラディウスは書庫に座ったまま考えていた。
ずっと手をつけなければと思っていたが、貴族たちの猛反対に遭うだろうと思う税の問題がある。それは遥か昔から手を付けられていないものだった。国の法は時代とともに変化した。だが手を付けられていない税に対する法が一つある。
今まで誰も手をつける事ができなかったあの問題。
——あれを私が成し遂げる。
ラディウスの静かな覚悟が決まった。自分のやるべき事も見えた。後はブルーナの体調と心が心配だ。でも、カルロス医師の判断には従った方がいい。
窓の外を見ると太陽の光が溢れていた。もう午後を回ってしまったようだ。
——城へ戻ろう……。ブルーナに会うのは全てを終えてからだ。
ラディウスは立ち上がると大きく息を吸った。もう迷わない。ブルーナを手に入れるためにも自分のやるべき事をやる。
その時、書庫の入り口から慌てたように転がり込んでくるエルダがいた。
「ラディウス様! お願いです! いらしてください!」
ラディウスは瞬時に厳しい顔になった。
「どうした! 何があった!」
慌ててエルダの元へ駆け寄ると、ラディウスはエルダの肩を掴んだ。
「お嬢様がお呼びです。早く来てください!」
弾かれるようにエルダから離れると、ラディウスはブルーナの部屋へ向かった。
——神よ! 頼む! 私の愛する者を奪わないでくれ!
まさかとは思う。でもあのエルダの急ぎ様は尋常じゃない。祈りを捧げながらラディウスは長い廊下を走った。
ラディウスはブルーナを得るために覚悟を決めました。
でも……




