65 秋の風
その日、ブルーナは朝から精力的に動いていた。
朝から書庫に篭り、いつラディウスが現れても対処できるように、聖書と異教徒の教典の違いをもう一度頭に入れておこうと思ったのだ。
書庫へ入ると昨夜まとめていた資料を奥の席の木箱へ片づけ、確保していた本を手に取った。もうこれは片付けても良いだろう。新しい学術書に目を通して夜にまたまとめておこう。
ブルーナが立ち上がったところでエルダの声がした。
「お嬢様? 風邪の症状がないからと言っても、ここの所、寒さと共に昼間の長さも短くなってきましたから、一度体を温めるためにもお茶をいただきませんか?」
顔を上げるとテーブルの前に立つエルダの姿があった。まだそう時間は経っていないはずだが心配するエルダの気持ちも分からなくはない。ブルーナは笑顔を見せた。
「大丈夫よ。熱が下がってから体調はとても良いもの」
「でも油断されるといけませんから……お願いです」
「エルダは心配性なんだから……」
ブルーナはエルダの表情を見ると肩を竦めた。確かに秋の空気は冷たく感じ始めている。でも不思議と体調は良い。心配はいらないと思うのだが、エルダはそれを許してはくれないようだ。それに少しだけお腹が空いたような気もする。
「この本を片付けたら部屋へ戻るわ」
ブルーナは本を片付けるために階段を上って行った。
「お嬢様! お部屋でお茶の準備をしておきますからね。必ずいらしてくださいね!」
階下でエルダの声が響く。
「分かったわ。準備をしておいて」
それに返事をし、ブルーナはそのまま奥へと進んだ。
二階には学術書と哲学書が多く置かれてある。奥には神学者達の研究の一つとして、聖書に関する研究書も同じように置かれていた。過去に教会団体内で研究された聖書の解釈がまとめられてあるのだ。読むのには難解だが、一つの文章でも解釈による違いが示されていて教典の解読にも役に立つだろう。
持っていた本を棚に置き、今度はその横に並んでいる別な本に手を伸ばして抜き出す。それから表紙のタイトルに目を向け確認すると、直ぐに階下に下りるべく歩き出した。エルダがお茶を入れて待っているのだから、早く部屋に戻らなくてはいけない。
ブルーナはとても充実して過ごしていた。やるべき事があるのが嬉しい。
これまでは冬になると部屋にこもり切りになっていたけれど、ここのところ調子も良い。このまま行くと、真冬に風邪をひく事もないのではないだろうか? そうなると寒い冬の期間に書庫に入る事も許してくれるかもしれない。
階段を数段降りた時、書庫に誰かが入ってくる音がした。確認するために顔を向けると、影になって顔は良くわからなかったが、その影は背の高い男性のようだ。ブルーナは緊張し、そのまま立ち止まった。
「ブルーナか?」
その声に緊張感はすぐに解ける。その影はラディウスだった。
「殿下? 今日いらっしゃると聞いていませんでしたけど」
途端に弾むような声になる自分を少し笑いたくなったが、ブルーナは笑顔を見せた。
「あぁ、うん……ほら、冬になると来れなくなるだろう? 少しでもあの書物の見聞を進めたいと思ってね……」
何か含むようなラディウスの物言いに異教徒の教典の事だと察し、それと同時に先触れを出さなかった事が気まずいのかとブルーナは苦笑した。
「殿下も勉強熱心ね」
「君と同様にな」
笑いかけるブルーナの表情をラディウスは眩しそうに見た後、手を差し出した。
「……?」
「その本、二階から取ってきたんだろう?」
「あ、えぇ、そう。これは聖書についての学術書なの。違いをまとめておきたくて……」
「ほう、その手の物もあるのか?」
「書物なら何でも手に入れておくのが我が家の主義ですもの」
「それは違いないな」
二人は笑い出した。ブルーナが渡した本を手に取るとラディウスはパラパラと捲る。それを見ながらブルーナは口を開いた。
「殿下。このまま私の部屋へ行きませんか? エルダに体を温めなさいと言われていて……実は今お茶の準備をしてもらっているの」
「それは悪い時に来たかな……」
「いいえ、一緒にお茶を頂きましょうよ」
ブルーナは柔らかく笑った。
「それはありがたい。ご馳走になるよ」
書庫を出ると秋の涼しい風が中庭から吹いてきた。その風に乗って木の葉が舞い、二人の足下へ落ちてくる。ブルーナがその葉を拾い上げるとそれはカツラの木の葉だった。
——アリシアは元気だろうか?
ふとそう思いながら横にいるラディウスを見上げると、ラディウスも秋色の庭を眺めている。ブルーナは少しだけ瞳で笑い自分も中庭に視線を戻した。そこに広がる光は昼間の太陽の光も夏のように鋭くはない。秋色のオレンジがかった光は全てを包み込むような暖かさを感じる。
「もうすっかり秋ね」
「……あぁ」
二人はその場に立ち止まり、寂しくなりつつある中庭をしばらく眺めた後、ブルーナの部屋へとまた歩き出した。
部屋へ行くとエルダが既にお茶の準備をしていたが、ラディウスの姿を見ると驚いてもう一人分を慌てて用意し始めた。
「申し訳ありません。ラディウス殿下がいらっしゃるとは思わず……」
「いや、突然来た私が悪いのだ。すまないな」
エルダがテーブルの上にお茶の準備をしている最中、ラディウスはサイドテーブルに置いてある鉢植えに気づいた。
「ブルーナ、あの鉢植えは……」
「えぇ、殿下がお見舞いに下さった鈴蘭です」
「ほう……城の庭にある鈴蘭はもう枯れ始ているが……ここではまだ枯れてはいないのだな」
——あれからまだ半年ほどしか経ってはいないのか……。
ラディウスの脳裏に倒れていくブルーナの姿が思い浮かび、一瞬竦むような感覚になる。
「この部屋は暖かいですから、まだ持ちが良いのよ。もう少しするとやっぱり枯れてしまうと思います。枯れてしまったら、庭に植え替えてあげようと思うの。殿下のお見舞いの品ですものね? あの時『枯らすな』と言われましたし」
ブルーナはいたずらに微笑んだ。
「……そうだったな」
「まさか、ご自分で言った事をお忘れなの?」
「……」
ラディウスは返事を返さず鈴蘭の鉢植えを見つめた。この半年、以前にも増してブルーナの存在は大きくなっている。
ラディウスはその時のことは昨日のように覚えていた。あの時ブルーナに対する自分の気持ちを知ったのだ。忘れるはずがない。でも「覚えている」と返事はできなかった。
これからのブルーナとの事を考えなければならないが、この短時間ではまだ答えは出せていない。それにも関わらず、エレーヌとの婚約破棄は進められている。
——私はブルーナと別れなければならないのか?
ブルーナ以上の女性がラディウスの前に現れる事はもうないだろう。それだけはわかる。
彼女がこの事を知るのは、おそらく冬に入ってからになる。でも、それまでにブルーナとの繋がりと時間をもっと持ちたい。
——私はブルーナを諦めることができるのだろうか?
ルドヴィーグ伯爵に言われた後、何度も自分に問いかけた。その度に自分の中では『否』の文字が浮かぶ。ブルーナを手に入れたい。それには何をすれば良いのか……。
ここの所、ラディウスはずっとそれを考えている。
そんなラディウスの目の前でブルーナが笑った。
「それでね、昨日読んだものをまとめてみたの」
「あ……何の話だったかな?」
「あら、聞いてなかったの? 聖書についての教会の研究の話よ」
「あぁ……」と呟きながらカップに口をつけるラディウスをブルーナは少し心配そうに見ている。
「……何だかお疲れのように見えるわ。今日は少し別な事をしましょうか?」
「あぁ、いや。最近色々とあってね。でも大丈夫だ。その資料は今あるのか?」
「えぇ、あ……いいえ、書庫だわ」
ブルーナは温かいお茶を飲みながら昨夜まとめた資料の話をしようと口を開きかけたが、不意に昨夜まとめた資料を書棚の箱の中に入れてしまった事を思い出した。
「昨日まとめたものを書庫の木箱の中に入れてしまったのだわ。殿下に見ていただきたいから取ってきます」
立ち上がったブルーナをラディウスは手で制した。
「いや、どこにあるのか教えてくれたら私が取りに行こう」
「でも……」
ラディウスがまた柔らかく笑う。その優しい微笑みに何故かホッとしながらブルーナは首を振った。
「私が行った方が分かりますから、少し待っていて」
それだけを言うとブルーナは部屋を出た。
ブルーナが部屋を出て行った後、しばらくするとエルダが入ってきた。だが部屋の中にブルーナの姿がないのにすぐに気付くと心配そうな表情になる。
「ラディウス様、お嬢様はどちらへ行かれたのでしょう?」
「昨夜まとめた資料を書庫に置いてきたらくてね。今、取りに行っている」
「そうですか」
ホッとしたようなエルダの様子にラディウスは少し微笑みかけ、ポケットから包みと紙を取り出した。
「身体を温めるハーブのお茶を今日も持ってきたのだ。あれからブルーナの様子はどうだ?」
「ありがとうございます。お嬢様は今の所は調子が良いようです。それもこれもラディウス様に頂いたハーブのお茶の効果が出ているからだと思います」
「そうか……それは良かった。この紙には調合が書いてある。私はもう直ぐ来れなくなるからな……。これをピエール・アザック医師に渡し、今後は彼に調合してもらうと良い」
ラディウスはテーブルの端に包みと紙を置いた。
「本当に何から何まで、ありがとうございます。これからもお嬢様をお守りいたしますので、ご心配なさらないように……」
エルダは涙が溢れそうになり、最後まで言うことができなかった。
エルダはもちろん婚約破棄を知っていた。ラディウスがブルーナの元を訪れるのはこの冬までの短い秋の間だけ。それを思うとブルーナがこのことを知った時の衝撃をどうすれば良いのか分からなくなる。でも、ルドヴィーグ伯爵の決めた事にただの侍女である自分が意を唱えることなどできなかった。
時間をかけてラディウスとの事を思い出にするしかないのだろう。でも、これだけは言いたい。
「ラディウス様、大丈夫です。私が……私がお嬢様を支えますから……」
エルダの言葉にラディウスは力なく微笑んだ。
「……そうか、ブルーナをよろしく頼む」
ラディウスにしてもそれ以上を言えなかった。
自分が今までやってきた事を否定する気はない。自分にはブルーナが必要だった。それはきっとこれからだってそうだろう。それは分かっているのだが、彼女を傍へ置くための手段が見つからないのだ。
ラディウスの表情が苦しそうに歪んだ。テーブルの上の手が強く握り込まれ感情に飲まれそうになるのを必死に堪える。
ラディウスは静かに目を閉じた。ブルーナが戻ってくるまでに心の平静を整えておかなくては、彼女には直ぐ分かってしまうだろう。
エルダはお茶を入れ替えると、静かに部屋を出た。残り少ない時間を二人きりにしておきたい。本当はブルーナに伝えようと何度も思った。でも、ブルーナが受ける衝撃を思うと言い出せなかった。
ラディウスとの出会いでブルーナは確実に変わった。前よりもずっと健康にもなったように思う。でも、その先にこんな別れがあるなど、誰が想像しただろう。一体どこで何を間違えたのか……。
——レティシア様、どうするのが一番良かったのでしょうか……。
エルダは廊下の窓から空を見上げた。秋の空は高く青く光り、薄い雲の波が漂っていた。




