64 突然の婚約破棄
ラディウスは場内の執務室で重い心に蓋をし、どうにか執務に取り掛かっていた。ともすればぼんやりと考えてしまいそうになる。その度に自分を叱咤し書類に視線を戻す。それを何度となく繰り返している。
彼は今、先日のルドヴィーグ伯爵家での夕食時に聞いた話が心を占めていた。だが、執務中はそれを排除しておかなくてはならない。のろのろとペンを手にし、インク壺に先を浸すと、考えを切り替えるべくペンを握り直した。
目の前の書類には今年の小麦の取れ高が記載されている。大凡ではあるが、今年も十分な量の小麦が取れた。その一部を十字軍遠征の兵へ向けて送る手筈を整えなければならない。
弟への後方支援の体制を取らなければ、弟は十分な働きができなくなる。エリウスに略奪行為をさせるわけには行かないのだ。十分な食料の供給がなければ、エリウス以下リングレントとの合同軍は窮地に陥るだろう。
サインをした後、ラディウスの手が止まった。考える事は山のようにある。
——考える事……。
穏やかな秋の空のもと外はよく晴れている。だが彼の心の中では嵐が吹き荒れ、先日の出来事を思い出していた。
* * * * *
ルドヴィーグ伯爵は、ラディウスを夕食へ招待し、お茶を飲みながら静かに口を開いた。
「殿下……エレーヌとの婚約を破棄して頂きたいのです」
目の前のルドヴィーグ伯爵の表情は至って穏やかだ。だが瞳の奥にある光が、これは冗談などではないのだと示していた。
「な……何を言うのだ、伯爵」
確かにこの申し出には驚いたが、瞬時に嫌だとも思った。でもそれは、エレーヌを失う事に対してではなく、ブルーナに会えなくなるのがはるかに優っている。
「殿下は……エレーヌを本当に望まれていますか?」
ラディウスは伯爵夫人のリリアナの言葉に返事ができなかった。
わかっている。自分が心を寄せているのはブルーナだ。視線を向けると、リリアナが少しぎこちない微笑みでラディウスを見ていた。その気遣いのような微笑みを見た瞬間、ラディウスには伯爵夫妻は本当の自分の気持ちを知っているのだと気付いた。
「もっと早くに私達の方より殿下に申し出るのが筋でした。ですが、殿下が婚約を破棄するとなると、またあの侯爵家のお嬢様方に悩まされるとも限らない。それで……言い出せませんでした」
ルドヴィーグ伯爵は嘘をついた。本当はブルーナの事があったからだ。でも、今それを言って何になると言うのか。隣に座るリリアナは、それでも少しだけ期待を込めた目でラディウスを見ている。
「殿下が望むものは何なのでしょう? 殿下は私達に何をお望みですか?」
「リリアナ……辞めなさい」
リリアナがもう少し話そうとするのを伯爵は制した。そして伯爵はラディウスに先ほどと同じように微笑むと軽く首を振る。
「もう、良いのですよ。ここで婚約破棄をした事は世間に公表しなければ良い。元々婚約者がエレーヌである事は未成年であるために公表されてはいないのですから。殿下が誰かと、本当の愛情を見つけた時に改めて公表すれば良いと思うのです。それまではこのルドヴィーグ家が殿下の隠蓑になりましょう」
ルドヴィーグ伯爵の声は穏やかで、優しげで、ラディウスを責めるような口調ではない。だが次の瞬間伯爵の目がきらりと光ったように思えた。
「ただし、私共の書庫を使うのは……もう、おやめいただきたいのです。城にも書庫はある。今後はそちらをお使い下さい」
「……ルドヴィーグ伯爵、私は……」
言葉を発したラディウスに伯爵は柔らかく微笑み、もう一度首を振った。それ以上何も言わなくても良いという意思表示だ。ラディウスは黙るしかない。
そうだ、ここでブルーナを欲しいと言えるのか? エレーヌの母であるリリアナの瞳の奥に見える期待の光は、きっと自分にエレーヌとの婚姻を望むと言わせたいのだろう。親ならば当然の事だ。だが、自分の心はエレーヌにはない。欲しいのはブルーナだ。もうこれ以上の嘘はつきたくない。ただ……彼らも傷つけたくはない……。
ラディウスは伯爵の目を真っ直ぐに見た。
「正直に言おう。私は今までブルーナに参謀として様々な事を相談していた。せめて、それだけは許して欲しいのだ……ブルーナと会う事だけは……」
「いいえ……殿下、ブルーナは身体が弱い。殿下はそれをよくご存じですね。あの娘の好きにさせてやりたいのは親心ですが……もう、ブルーナと会うのもやめた方が良いでしょう」
「でも、それでは……急にルドヴィーグ家へ行かなくなる事で余計に噂が立つと思うのだ。頼む! もう少し、時間をくれないか? それに説明をしなくては彼女は納得しないだろう。彼女の性格はあなたもご存じのはずだ」
ラディウスも必死だった。ブルーナを愛しているとは言葉に出せないが、ブルーナとの時間を持たなくするなど、自分は耐えられるのだろうか? ブルーナに何と説明をすればいい? だがそれも含めて時間が欲しい。
伯爵は視線を落とした。伯爵の危惧する部分もそこだった。急にラディウスが来なくなると、ブルーナは一体どうするのだろう。けじめを付ける、そういう事が通用するだろうか? あの娘の身体は前よりずっと健康になったと思う。だがそれを、あの娘は維持する事ができるのか?
「ルドヴィーグ伯爵、頼む! この秋だけでも良い。この秋だけ今まで通りにしてもらえないだろうか」
「……尚の事、別れが辛くなると思いますよ」
「いいや、私からブルーナに説明する……彼女を納得させるように尽力する。どうか……頼む……」
目の前でラディウスは頭を垂れた。その姿にルドヴィーグ伯爵は苦しそうに視線を落とした。
「殿下、お辞めください。家臣にそのような事をしてはなりません。良いでしょう。冬に入るまではいつものようになさると良い。説明は……ご自分でされるのが辛いのであれば、私が行いますが……」
「いや、大丈夫だ自分でやる……」
ルドヴィーグ伯爵の横でリリアナが肩を落としているのが見えた。すまないとは思う。ブルーナに会わなければきっと自分はこのままエレーヌの成長を待っただろう。でも、彼女と出会ってしまった……。
「貴公らには、心よりすまないと思っている。いつから気付いていたのだ?」
ラディウスの声にルドヴィーグ伯爵は微笑むだけだった。
「多くを語るのは辞めましょう。何もなかった、それで良いではありませんか? この状況には必要のない事です」
彼の態度は毅然としていた。リリアナは視線を落としているが、伯爵はじっとラディウスを見ている。
自分の気持ちをブルーナに言えたのならどんなに楽だろう。ブルーナ自身が自分の側へ行きたいと言ってくれたら、絶対に幸せにするのに……。最近のくるくると変わるブルーナの表情の変化を自分は楽しんでいた。愛しい気持ちは心に溢れているのに……。
ラディウスの中で、様々な思いが浮かんでは消えた。現実はなんと非情なのか。
* * * * *
——これで本当に彼女とは終わるのか?……。
何とも言えない気持ちがラディウスを覆う。
ルドヴィーグ伯爵に言われた事を受け止めるのが精一杯で、今後の対策を練る事もできず、あの日の食事を終えた。が、ラディウスにはブルーナを諦める事もできそうにはない。
——どうすれば良い?……。
冬は近付いている。ブルーナと持てる時間はもう多くはない。それを思うとどうしようもない気持ちになる。
だが悪足掻きのようにブルーナを諦められない自分にも気づく。
——ブルーナを手に入れるにはどうすれば良い?
自分が納得するだけでは駄目だ。ルドヴィーグ伯爵や自分の親である王夫妻、それから家臣達も納得させなければならない。
そして何よりブルーナだ。たとえ周りのみんながラディウスを支持しても、彼女自身が否定すれば何にもならない。
——どうすればブルーナを納得させる事ができる?
机の上に広がる書類の山に目を向け、心は別の所にある。ラディウスはブルーナを手に入れる方法を考え始めた。
婚約破棄をしてしまったら、もうブルーナとは会えないのか……
ラディウスは諦めきれません。




