63 心の繋がり
ラディウスが書庫に足を踏み入れると、そこは相変わらず古い革と古い紙の香りがしていた。
ラディウスはその日、ルドヴィーグ伯爵に夕食の招待を受けていた。
前回の訪問時に、次に訪れた時には夕食を共に取りたいと伯爵本人に言われたのだ。その時の伯爵の表情が気にはなったものの、彼は快く承諾し、今日はゆっくりとブルーナとの時間を取ることになった。
書庫の奥へ進むと、一番奥の広い場所にブルーナが居る。
ブルーナは相変わらず本を読んでいた。初めて会った時のように頬杖をつき、本に視線を落としている。ほんの少し癖のある濃い茶色の髪は滑らかに肩から落ちていて、ラディウスは初めての出会いを再現しているような錯覚に陥る。だがそれを楽しむかのようにしばらくその姿を見つめた後、ラディウスは一歩踏み出した。
「ブルーナ……」
ブルーナは顔を上げる。爽やかな笑顔のラディウスが居るのを見つけると、書庫の空気が一変した。
「殿下!」
自然と笑みが溢れるのを自分ではもうどうしようもない。
「今日も少し教典の研究を進めたいと思う。いいか?」
「えぇ、勿論。そのために待っていたのですから」
最近ブルーナは自分の気持ちを素直に表現するようになったと思う。それはラディウスにも伝わっていて、言葉にしなくてもお互いにわかるものがある。
「じゃあ、上へ行きましょうか」
「あぁ、そうだな」
ブルーナは読んでいた本を後ろの書棚に立てかけ、こちらを向くとニコッと笑った。
「何だ?」
「いいえ、このままのペースで行くと、冬になる前に第一章は一通り読み終えると思うの。長い冬の間はお互いにその内容を咀嚼して、理解して、役に立つ部分を取り出しておくのも良いと思って……」
「確かにそうだな……理解できる部分と利用できる部分とをまとめておくのは良いだろうな。春になればまた照らし合わせて利用できる部分を話し合えば良い」
「えぇ、先はまだ長いもの。第一段階としては私達は優秀だと思うわ」
「優秀か?」
楽しそうにラディウスがそう返すと、ブルーナはしたり顔で頷いた。
「えぇ、深い部分はまだわからない所が多いけれど、この一ヶ月半で第一章を終えるのよ。優秀ではないという人が居たら連れてきて欲しいものだわ」
「ははっ! 何を研究しているのかは言えないがな」
ラディウスが声を上げて楽しそうに笑う。その様を見ながらブルーナも笑った。
この時間が今は何よりも楽しいと感じる。今までは本を読む事が楽しかったけれど、今はラディウスとこうして話す時間が楽しくて仕方がない。
人は面白いものだ。どんな状況であったとしても、何かのきっかけがあれば気持ちは浮上するし逆に沈む事もある。そしてそれは体調にも影響するのだ。ブルーナはラディウスの顔を見ながらふとそう思った。
「では、行こうか?」
「えぇ……」
ラディウスの声でブルーナは階段まで行き上階へ上がるための一歩を踏み出した。ところが声をかけたものの、ラディウスは立ったままブルーナを見ている。
「殿下? 行かないの?」
ラディウスは階段を上がる事はせずにブルーナに近付いた。その表情が訝しげに少し歪んだ。そう思った瞬間、ラディウスの手がブルーナの額に伸びた。額に触れたラディウスの手は少し冷たく感じる。
「……やはりな」
「……何ですか?」
「今日、君は少し熱が出ていないか? 高熱ではないが……君の額が熱く感じるんだ。少しだけ瞳が潤んでいるな」
「そんな事はないわ」
ブルーナが慌てて声を上げたが、ラディウスの苦笑はやみそうにない。本当は朝起きた時に少しだけ気怠い感じがしていた。でも、今日はラディウスが来るという先ぶれが来たのだ。ラディウスが来るのなら、やはり会いたいと思う。その一心で、ブルーナは自分の体調の気怠さを無視していた。
「ブルーナ……研究はいつでもできるんだ。今日は休もう」
「いいえ、私は何ともないわ。元気よ。食事だってちゃんととっているし……問題はないの」
「駄目だ、ブルーナ。今日は休もう」
「だって……それではあなたは……」
——帰ってしまう……せっかく一緒に過ごす時間ができたのに……。
ブルーナは軽く口元を引き締めラディウスを見た。ブルーナの表情に不安が見える。ラディウスは安心させる様に表情を少しだけ緩めた。
あの日から……あの心が通ったと思った時から、ラディウスはブルーナの表情から彼女の気持ちを汲み取るのが上手くなっていた。
「今、君は無理をすべきじゃない。私は今日、時間を十分にとってある。何なら君に本を読んであげても良い。書庫で過ごすのも良いが、部屋で過ごすのも良いと思わないか? 今日は書庫を出て君は部屋のベッドに入るんだ。いいね?」
ラディウスの顔は穏やかだが真剣だ。ブルーナは思わず俯いて視線を逸らせた。
自分の身体はこんな風にいつも制御できない。こんな状況だから、城の彼の元では働けないのだ。自分の身体が恨めしい。
「私の言う事が聞けないのなら、このまま君を抱き上げて連れて行く事になるが……それでも良いのか?」
ブルーナは驚いてラディウスを見た。彼はブルーナを見透かしているように片方の口角をあげて笑っている。何という脅し方だ。
「……意地悪ね」
ブルーナは小さく溜息をついた。その抱かれた姿を従者たちに見られるのは絶対に嫌だ。
「……分かりました。戻ります。戻れば良いんでしょう?」
「そう、初めから素直になれ。私は本を選んでから君の部屋へ行く。先に行っていてくれ……」
「はい……」
諦めて戻り始めたブルーナにラディウスは声をかけた。
「あぁ、悪いが、エルダを呼んでくれるか? 少し頼みたい事がある」
「……」
ラディウスの視線はブルーナに向いていたが、ブルーナは顔を見た後、頷いただけで書庫を出て行った。
ラディウスは彼女の様子に少しだけ笑った。思い通りにならない事が余程悔しかったのだろう。少しだけ剥れているブルーナが可愛い。だからと言って、無理はさせたくない。彼女は自分の体調をコントロールする事も覚えた方がいいのだ。
ブルーナが出て行った後、ラディウスは大量の本の中からブルーナに読む本を選んだ。自分のペースで読むのも良いが、人に読んでもらうと違う視点が見えて来る事もある。彼が手にしたのはホメロスの『オデュッセイア』だった。
『オデュッセイア』は『イリアス』の続きとも言える物語でギリシャの詩人であったホメロスの作品だ。『イリアス』はオリンポスの神々の絡んだトロイの戦いを描いているが『オデュッセイア』はトロイの戦に参加したオデュッセウスが主人公だ。
ブルーナはきっとこれを気に入るだろう。ラディウスには自信があった。
前に王城にブルーナを呼んだ時、彼女に手渡した『イリアス』の続きとも言える。あの時は十字軍に参加するかどうかでの迷いがあった。だから『イリアス』を選んだのだが、今は……長い間離れてしまった英雄が無事に妻の元へ戻るこのハッピーエンドの話が良いだろう。
書庫の出口に向かおうとしているとエルダがやって来た。
「ラディウス様、お呼びだと伺いました」
「あぁ、エルダ。これを、今日から彼女の食事に混ぜてくれないか?」
ラディウスはポケットから何かの包みを取り出すとエルダに渡した。エルダはラディウスを窺うように見上げる。
「あの……これは?」
「この時期になるとブルーナは風邪を引く場合が多くなるだろう? 体を温める作用のあるハーブだ。お茶として飲んでも良いが野菜のスープに混ぜるとわからないと思う。城の薬師が調合したものだが、結構効果はあるぞ」
ラディウスが説明をするとエルダは安心したように笑顔を見せた。
「そうですか」
「あぁ、ピエール老医師にも許可は得ているから安心して使うと良い」
「はい……それから、お嬢様を部屋に戻してくださって感謝します。今日はほんの少し熱がありましたので、心配しておりました。熱はありますが具合はあまり悪いようではないので、どうぞお話はされて構わないと思います」
ラディウスはピクリと眉をあげた。
「……成る程、彼女は君の制止を聞かなかったのだな」
「あ……いえ、聞かなかったわけではありません。あの、お嬢様にはちゃんと計画があって……」
慌てて答えるエルダにラディウスは笑った。
「今後、私とブルーナが過ごす時にはその辺りを考慮しよう。その意味では安心してもらっていい。できれば、ここに来た時にはその日の彼女の体調と様子を知らせて欲しいのだが、それは構わないか?」
「はい」
「うむ、ではよろしく頼む」
エルダはラディウスの言葉が何より嬉しかった。ルドヴィーグ伯爵達以外にブルーナの事をここまで考えてくれているとは、感謝しかない。去って行くラディウスの後ろ姿を見ながらエルダは深く礼をした。
ラディウスは書庫を出た。外の空気は確かに冷たくなりつつあるが、日中はそれが少し和らぐ。ブルーナの体調が万全であれば、この位ならそう目くじらを立てる必要はなかっただろう。でも、症状が出ているのなら話は別だ。
ラディウスはブルーナの部屋へ急いだ。
部屋ではベッドに入り、身を起こしたブルーナがおとなしく待っていた。何だかまたそれが可愛く感じる。
「さて、お嬢様。読書のお時間ですよ」
ラディウスは含み笑いを覗かせ、大仰に声をかけた。途端にブルーナが眉間に皺を寄せる。
「殿下、その物言いはあまり好きではないですわ」
「おや? そうですか? ここへ来て君の趣向を知る事になるとはね……」
「今更何をおっしゃるのか……」
二人は視線を合わせると笑い出した。
「すまない。君に何を選ぼうか悩んだんだが『オデュッセイア』にしたよ。冒険活劇でもあり、愛の叙情詩でもあり、神々との信頼の話でもある。いいだろう?」
ブルーナは幸せそうに微笑んだ。
「えぇ、では吟遊詩人様、よろしくお願いいたします」
それから暗くなるまでの間、ラディウスの低く聞き取りやすい声がブルーナの部屋で響いていた。『オデュッセイア』の主人公のように冒険をする彼の姿が思い描かれる。
大事な大事な時間を彼と過ごす喜びは、何にも勝る物なのかもしれない。彼の声を聞きながら、ブルーナは今までに感じた事のない幸せを感じていた。




