6 初めての友
暫くすると薬は徐々に効き始め、ブルーナは呼吸が少し楽になって来た。アリシアはその間黙って窓の外を見ている。
ブルーナは目を閉じてはいたが、寝ている訳ではなかった。全く知らない人なのに膝を貸してくれた彼女に、ブルーナは不思議なほど心を許している。その事実が自分自身驚いていた。
暫く黙っていたアリシアがブルーナの呼吸が落ち着いたのを確認し口を開いた。
「ねぇ……ブルーナ様、貴女の事をブルーナって呼んでもいいかしら」
ブルーナは目を開いた。目の前にはブルーナを覗き込むアリシアがいる。少しその優しげな視線が照れ臭く感じた。
「……えぇ、では私は貴女をアリシアと呼ぶわ、いいかしら?」
「もちろんよ」
アリシアはニッコリ笑った。それを見ながらブルーナは大きく息を吸った後、ユックリと身を起こした。早めに薬を飲んだお陰で体調はすぐに回復できたようだ。エルダが居たらもう少し寝ているように言われる所だが、ここではそうもしていられない。
「本当にありがとう、もう大丈夫だと思うわ」
「無理しなくても良いのよ」
「いいえ、もう大丈夫」
笑うブルーナにアリシアは微笑んで手を伸ばし、ブルーナの髪を少し整えた。
「ブルーナ、貴女は余り見た目に拘らないのね。横になったせいで髪が乱れてしまっているわ」
ブルーナは肩を竦めた。
「面倒よね……私は今日、初めてこんな風に飾り立てたのよ。今日のためだけにね」
「あらまぁ、そうなの? それにしてはとてもよく似合っているわ……今日のためだけと言う事は、王子様達の前に出なくても良かったのかしら?」
アリシアの心配そうな声に、ブルーナは声を押し殺して笑い出した。
「その必要はないわ。父に言われたの、舞踏会を経験して来なさいと……目標は達成出来たんですから、もう十分だわ」
首を振るブルーナをアリシアは楽しそうに笑って見ている。
「私もお城の舞踏会は初めてだったの。十五歳になったからと招待状が届いて……」
「同じだわ。王子様達はそんなに結婚相手を探すのが大変なのかしら。国中の十五歳以上の女性に招待状を送ったのかもしれないわね? 私ならお相手は、ちゃんと自分で探したいけれど」
「まぁブルーナったら、この舞踏会がその場じゃないの」
アリシアは声を上げて笑った。ブルーナは大きな声で笑うアリシアに驚いた。
「……大声で笑うなんて、品がないなんて言わないでね、ブルーナ。私は可笑しい時は大声で笑わなきゃ意味がないと思うの」
「貴女が……声を上げたのには驚いたけど、その考え方は好きよ」
ブルーナはアリシアに向き合った。
「舞踏会のことだけれど……自分の相手をこういう場でしか探せないの? 私は、そんなの可笑しいと思うわ」
「そう? 手っ取り早く一同に介してお相手を探すのが一番合理的でしょう? でも私もゴメンですけどね。中身を知らないと何とも言えないもの。死ぬまで一緒にいる相手よ。ちゃんと知りたいじゃない? そうして好きになった方と結ばれたいわ」
「……私にはどうでもいい事ね。今までのように本を読んで穏やかな時間が過ごせたら、お相手なんていらないもの」
「まぁ、ブルーナったら。貴方はそんなに素敵だし美しいのに、決め付けるのは勿体ないわ」
「……私が美しい? 冗談でも話にならないわ。それより貴女は貴公子との出会いを待っているの?」
「貴公子じゃなくて良いのよ。ただ自分と気が合って穏やかでいられたらそれで良いの。私は田舎娘ですもの。それでも良いという方がいたらの話ね。こんな都会でお相手を探すのは難しいから、田舎で十分なんだけれど……」
気が付けば、ブルーナは気負わずにアリシアにいろんな事を話していた。
——何だろう、とても心地が良い。
お互いに思う事を素直に話しても許せるこの空気は何なのだろう。結構辛辣な事を言われたとしてもアリシアなら許せる気がした。
「ねぇブルーナ……さっき、貴女はブローチは欲しくないけれど、世界最古の書物なら欲しいと言ったわね」
「えぇ……そんな物が手に入るならね」
「貴女は本が好きなの?」
「えぇ、そう。家では殆ど一日中本を読んで過ごしているの」
「まぁそう。その時はどんな物を読まれるの?」
「そうねぇ……何でも読むわ。戦記に伝記に歴史書、科学書に哲学書に物語……様々な物を読んでいるの」
「……そんなに?」
「えぇ、家の書庫には何でも在るの。読みたい放題よ」
「良いわねぇ、私の家なんて書庫は男の物だなんて言う弟がいるのよ。確かにあの家を継ぐのは弟だものね。私は弟に邪魔されて、ちゃんと図書室で本を読んだことなんてないわ。弟が寝てから図書室から少し持ち出すの。あの子、自分が読まないものだからなくなった事には気づかないのよ。可笑しいでしょう?」
思わず二人は笑った。太陽の光が窓から差し込み、陽だまりの中で二人は色々な話をした。
「この間なんて私の靴の中にカエルが入っていたのよ。多分、弟は私を怖がらせようと思ったのね。でも残念な事に、私はカエルが怖くないの。だから手で掴んで庭に出してあげたわ。そうしたら弟は悔しそうに私を見てたの」
話し出したアリシアの言葉に思わずブルーナは顔を顰めた。
「カエルって……アリシアは平気なの?」
「えぇ、あの子達よく見ればキュートな顔付きをしてるわ。こう、口がカパッと開いて虫を食べるの」
カエルの口の真似をして手を開いたアリシアを見て、ブルーナは尚も眉を寄せた。カエルはキュートだと言うアリシアは何と度胸の座った女性なのか。そういえば先程の言いがかりにもどこか飄々としていた。だがブルーナはカエルを想像しブルッと体を震わせた。あの滑る感じの肌が我慢ならない。
「ブルーナは? カエルは駄目なの? でもさっきイボガエルになった方がマシだと言っていなかったかしら?」
「あれはほら、嫌いな物同士を比べたときの話でしょう? 出来るなら一生カエルには逢いたくないわ」
「まぁそうなの? 私はてっきり好きなのかと思ったわ」
アリシアがコロコロと笑った。
その時、誰も居なくなった控え室の扉がそっと開き、誰かが入って来た。そして入ってきた者は長椅子のカーテンを開いた。
「お嬢様、お庭への……」
開けたのはエルダだった。
エルダはカーテンを開けた時、窓辺の長椅子に女性が二人座っているのを見て、慌ててカーテンを閉めた。
「申し訳ありません!」
「待って、エルダ」
ブルーナが急いでエルダに声をかけると、カーテンの向こうでエルダが息を飲むのが聞こえた。
「……ブルーナお嬢様ですか?」
そしてエルダは恐々カーテンを捲るとカーテンの影から顔を出し、ブルーナを確認する。
「お嬢様……あの……」
その時、エルダはブルーナの様子の変化に余りにも驚いて言葉に詰まった。エルダの目にはブルーナが輝いて見えたのだ。
驚くエルダをよそに、ブルーナはアリシアとエルダ両方に紹介し始めた。
「アリシア、こちらはエルダです。私の付き人なの。そしてエルダ、こちらはアリシア・フィリス・ドゥール・パルスト様よ。さっき発作が起きてしまったの、その時に彼女が助けてくださったのよ」
「ご機嫌よう、エルダ」
「あ、はい……あの……」
エルダは発作が起きたと言うブルーナの言葉に目を見張った。
「発作が、起きたのですか? 私が居ない間にでしょうか?」
「えぇ、運悪くね。でもアリシアが手助けしてくださったの。だから今は大丈夫」
ブルーナはエルダに向かっていつもの笑顔を向けたが、エルダはアリシアに丁寧に向き直った。
「ありがとうございました……本当に、お嬢様を助けてくださって感謝いたします。どうお礼を言って良いのか……」
エルダはアリシアに向けて深々と頭を下げたが、肝心のアリシアはそれを見て首を振る。
「いいのよエルダ。あぁ、勝手にエルダとお呼びしているけど構わないかしら?」
「えぇ、それはもう、宜しいです」
「ありがとう、あの場にいたら誰だって助けると思うわ。それに本当に助けられたのは私ですもの。気にする事はないのよ」
アリシアはまた笑う。エルダはその時のブルーナの表情を窺い漸くホッとした顔になった。
「薬は全部飲んだのですか?」
「いいえ、発作は軽かったから包みを一つだけ飲んだわ」
「ではもう一つ残っていますね……でも、心配なので私の持っている物から足しておきましょう」
「エルダ、もう大丈夫なのよ」
「いいえ、お嬢様、もしもの時がありますから……お願いです。入れておいてください」
二人のやり取りを聞いていたアリシアが口を開いた。
「ブルーナ、エルダの心配は最もだと思うわ。もらって置きなさいな」
ブルーナはエルダとアリシアの両方を見た。そして少し笑い素直に頷いた。
「……わかった。入れておくわ、エルダ」
そしてポケットから薬の小さなケースを取ると蓋を開け、エルダの薬入れの中から二つ取り出しブルーナの薬ケースに入れる。エルダのケースには合計五つの薬が入っていた。
「エルダったら……そんなに薬を持っていたの?」
「持っていて損はないですよ。現にこうして一つ使ったのですから……」
「まぁ、そうだけれど……」
アリシアがまた二人を見てくすくすと笑った。
「何だか二人を見ていると姉妹のようだわ。世話好きのお姉さんと意思の強い困った妹」
ブルーナとエルダは顔を見合わせた。
「まぁ、間違いではないわね。エルダは私に取ってお姉さんのような存在ですもの」
「そんな事……」
またアリシアが笑った。
エルダが絡んでも話は尽きる事なく、三人は大広間で繰り広げられている舞踏会の存在を殆ど忘れかけていた。
「そう言えば……お嬢様、窓の外のテラスへ出る場所を見つけたのです。でも、発作を起こされた後なのですから、テラスに行くのは止めておきましょうね」
エルダが念を押すようにそう言い、ブルーナは残念そうに小さな溜息をついた。だがアリシアは不思議そうにしていた。
「あのテラスは遠いのかしら?」
「そうですね……広間を抜けて廊下を進んで行くので、少し遠く感じるかもしれません」
「ゆっくり行けばいかが? それならブルーナも行けるでしょう?」
アリシアはブルーナを見た。青い瞳がブルーナをまっすぐに見ている。
「だって行きたいのでしょう?」
その瞬間、ブルーナはなぜだか一つの扉が開いたような気持ちになった。
今まではエルダから許可が出ないと余程の事がない限り仕方ないと諦めていた。発作の起きた後など特にそうだ。迷惑をかけるとすれば、エルダしか居ない。
ところが、アリシアはブルーナが行くにはどうすれば良いかを考えている。ブルーナの目が輝いた。手段を見つければ諦めなくても良いのだ。
「行きたいわ。私はあの場所へ行きたい」
「そう……では行きましょう」
笑い返すアリシアがブルーナの意を汲んでそう言ったのは明らかだった。
「あ……待って下さい。今し方、発作を起こされたのです。今日はもう無理をしない方が良いと思うのです……」
「大丈夫よ、エルダ。外は寒いでしょうからその対策だけはしっかりとしましょう」
「あ……でも……」
渋るエルダにブルーナは向き合った。
「これも経験よ。お父様に話す機会があれば、この事も十分に面白い出来事として話せるでしょう? 行きましょうよ、エルダ」
心持ち、覗き込んだブルーナの瞳が輝いて見えた。エルダはこの一瞬の間にブルーナが強くなったように感じた。
——ほんの一瞬だったのに……瞬きの間だったのに……。
今までのブルーナは惰性が先に出ていた。何かを諦め、何も感じないように自分を追いやり、そして人の目につかないように書庫へ篭る。
エルダは不思議に思った。今の一瞬の間に何があったのだろう。ブルーナの傍に居たのに、その理由がわからない。でもエルダは少し心の中で苦笑した。出来るだけブルーナの意に沿うようにして来たエルダだが、ここからブルーナお嬢様が変わるかもしれない……。目の前でアリシアと笑い合うブルーナは輝いて見えた。
「……わかりました。コートを用意するので、お待ちください。アリシア様のコートもお持ちいたしますね」
エルダは立ち上がり、振り返った。
「良いですね。これだけは守って下さい。私が戻るまではお二人共外へ出てはいけませんよ」
小さい子に言い聞かせるように言うエルダに二人は笑った。
「大丈夫、心配しなくてもちゃんと大人しくしてるわ」
「私の分まで、ごめんなさいねエルダ」
「では、行ってまいります」
エルダは部屋を出て行った。ブルーナとアリシアはまた顔を見合わせ笑い出す。
「エルダは本当にブルーナの事が心配なのね。それにとても綺麗で女性らしい方だわ」
「そう、エルダは素敵でしょう?……いつも心配かけているから……エルダが居なきゃ、私は本当に何も出来ないの。全てにおいてエルダが必要なのよ。体調的にも感情的にもね」
「そう……それで本当の姉妹のようなのね」
アリシアの答えに、ブルーナはまた不思議な感じに囚われた。全てを説明しなくても分かり合えるこの感じは何なのだろう。
「どうかして?」
「不思議だと思って……アリシアとは今日初めて会ったのに、こんなに色々と話しても、何も苦じゃないの。私に取ってはそれは奇跡に近い程の事よ。わかるかしら?」
アリシアはそれを聞いて大きく頷いた。
「えぇ、わかるわ。私だって同じだもの。他の人の前ではカエルの話なんてしないわ。お茶会でその話をしてご覧なさい。卒倒する人が続出するわよ」
アリシアがどうしようもないように肩を竦め、途端にブルーナは吹き出した。アリシアは満足そうにブルーナの笑顔を見ている。
「貴女にはカエルの話をしても良いの。つまり、何でも話せると言うことよ。私達、親友になれるわね」
「……親友?」
「そう、親友よ。とても大事な友達。貴女は私に取って親友だわ」
アリシアの言葉はブルーナに驚きと高揚感をもたらした。『親友』とは何と言う魅惑的な言葉だろう。今まで自分が親友を得られるなど思った事もない。『親友』という言葉は、幸せな気持ちになる言葉だ。
「えぇ、そうね。私にとっても貴女はただ一人の親友だわ」
そしてブルーナは大きく息を吐いた。
「今日、私は舞踏会へ来た意味があったのね。私に取っては貴女に出会う為にこの舞踏会があったのだわ」
呟くように声にしたブルーナをアリシアは穏やかな笑みで見ながら頷いた。二人して親友になろうと誓い合った時、エルダが戻って来た。
「お二人共、持ってまいりました」
エルダの腕にはブルーナのコートとエルダのコートがあった。
「アリシア様のコートは……」
「あの……それが……」
「良いのよエルダ。私は丈夫ですから」
次の瞬間、そう言ったアリシアにきつい一言が待っていた。
「丈夫かどうかの話ではありませんよ」
エルダの背後から聞こえた声に、目線を向けるともう一人少し歳を召した人物が、こちらも二人分のコートを持ち控えていた。
「あら……ルティア」
アリシアが声を掛けるな否や、ルティアと呼ばれた年配の従者は目を吊り上げた。
「アリシア嬢様、舞踏会を抜け出すとお伺いしたのですが、どう言う事ですか? 王太子様達とはきちんと対面出来たのですか? 舞踏会を途中で放り投げるなど……何の為に田舎より参りましたのかわからないではありませんか」
ルティアは怒っている。ルティアも他の者達と同じだった。あわよくば王子から見初められるかもしれないという機会を逃すなど、言語道断なのだ。
捲し立てるルティアをアリシアはよしよしと宥める。
「だってお友達が出来たんですもの。許して、ルティア、話に花が咲いて舞踏会の事を忘れてしまったのよ。それだけなの」
「それだけではありません! お友達が出来たのは宜しゅうございます。でも、舞踏会は王太子様達と対面するのが目的でしょうに。何故忘れる事が出来るのか、私には謎ですよ」
ブツブツいうルティアにアリシアは肩を竦めて見せた。
「私に取っては王太子様なんて関係ないもの。そんな事より、この王都に居る間にブルーナとお茶会をしたいの。ルティア、時間を見つけてくれるかしら」
「……そんな事って……王太子様の事をそんな事って……しかもお友達だというのに『様』をつけないなど……私はそんな不敬を働くアリシア嬢様に育てた覚えはございませんよ!」
言いながらルティアはワナワナと震え出した。アリシアはそれを見ぬふりでこの場をやり過ごそうとしていた。
「あの……呼び捨てに関しては、アリシアが悪いのではありません。私がそうして欲しいと言ったのです」
ルティアは漸くブルーナの顔を見て懇願した。
「そのように甘やかさないで下さいませ。アリシア嬢様は本当におてんばが過ぎるのですから」
その間アリシアはずっと目線を逸らしている。
「アリシアがおてんばなら、私は偏屈かもしれないですわ……ねぇエルダ」
ブルーナはそう言って笑い、エルダは苦笑した。
「私はルドヴィーグ伯爵の娘です。アリシアとは同い年で、今日初めてお城へ参りました。以後、お見知り置きを願います」
「まぁあ、ご丁寧に……申し訳ありません。アリシア嬢様が舞踏会を抜け出すと聞きましたので、本当に心配していたものですから、このような態度をお見せしてしまい、反省致します」
ルティアはすまさそうにそう言うとアリシアに顔を向けた。
「アリシア嬢様、外へ出るのであればきちんとコートをお召し下さい。ドレス姿のままでは寒うございますから」
一通り叱り付けたら気が済んだのだろう。ルティアはそれからは従順な侍女に戻ってしまった。
「ではテラスに参りましょう」
エルダの声で一同はコートを羽織り控え室から外へ出た。外は相変わらずの人の波だった。音楽が聞こえ、フロアーの中の方では沢山の人が踊っている。ブルーナは一度そちらへ目をやったがすぐに進行方向を見て前へ進んだ。