59 書庫の片隅で……
後書きに頂いたFunArtを載せています。
とても素敵なラディウスです。ぜひご覧くださいませ♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
そのまま二人は五階へと上がって行った。階段の軋む音が響く。
一番奥の本棚横の壁のはめ板を外し、禁書の書籍を取り出すとブルーナはラディウスに貴重な本を手渡した。
「一人の方が良いでしょう? 私は下にいます。必要なら声をかけて……」
ブルーナはニッコリと笑いかけ、階下に降りるべく階段へ向かおうとした。その腕を、ラディウスが思わず掴んだ。驚いたブルーナが振り返るとラディウス自身にも動揺が見えていた。
「あ……いや、これは……」
無意識にブルーナを引き留めてしまったのだろう。だがラディウスは手を離そうとしない。そしてブルーナは彼の瞳が少し揺れたのに気付いた。疲れて見えているのは気のせいではないようだ。
「……何か、あったのですか?」
ブルーナはできるだけ優しくそっと口にしてみた。先程まで自信満々に見えていたラディウスの感情が揺れているのは確かだ。
「いや……」
ラディウスは手を離した。
彼自身、自分の行動が信じられなかった。なぜ急にブルーナの手を取ったのか……。行ってほしくないと思った瞬間、腕が勝手にブルーナを引き止めていた。胸の奥に心細い気持ちがあるように思う。
何を心細くなっているのか。ラディウスは自嘲気味に笑った。
——こんな彼を見た事がない……
ブルーナはラディウスの瞳を覗き込むように見上げた。何をそんなに思い詰めているのか……そう、彼は思い詰めているように見えるのだ。
ここへ上がってくるまでは微塵も見えなかった彼の気弱な感情が揺れて見えている。もう何度も読んでいる『異教徒の教典を読む』というのを怖気付く事は今更ないだろう。だとすれば何か?
「殿下?」
「いや、すまない。大丈夫だ……」
彼はブルーナに笑って見せた。
だがブルーナはその笑顔を見て放って置けないと思った。何かわからないが、彼は今不安なのだ。彼の不安が何なのか、できるなら自分が拭い去ってあげたいと思った。
こんな気持ちになったのは初めてだ。胸の奥にある何かの熱がブルーナを覆い尽くすような感覚。心臓の音が聞こえてくる気がする。
どうすれば良いのか分からなかったが、ブルーナはラディウスが外した手をそっと握った。熱を出して寝込んだ時、不安になるブルーナの手をエルダはよくこうして握ってくれる。それを真似たのだ。
少し驚いたラディウスがブルーナの瞳を見ている。ブルーナはできるだけゆっくりと口を開いた。
「何か不安な事があるのなら、ここで吐き出せばいいわ。ここでは私以外、誰もいないもの……何を話しても構わないの……」
「ブルーナ……」
ラディウスはギュッとブルーナの手を握り返した。
心の中の物を全部吐き出せたら楽になるのだろうか? 彼女にその姿を見せても良いのだろうか? ラディウスは大きく息を吸った。
目の前のブルーナの穏やかな表情が聖母のようにも見えている。
不安を口にするなど格好が付かない。でも……許されるのなら、吐き出したい。ゆっくりとラディウスは口を開いた。
「本当は……本当は私は、エリウスを戦場へ行かせたくはなかった。怖いんだ。あいつを死なせたら……こんな自分が情けなくて仕方ない……だが、事実だ。君はきっといい大人が何を考えていると笑うだろう……」
ラディウスは床に視線を落としている。弱音を吐く自分の顔を見られたくないのだろう。
咄嗟にブルーナはラディウスの手を引いて、本の棚の前で腰を下ろした。座った床はひんやりとしていて、火照った身体を沈めてくれる気がする。
ラディウスも素直に引っ張られ腰を下ろす。床に座り込んだ二人は正面を向き互いをジッと見つめ合った。
眠れない日々が続いていたのか、覗き込むラディウスの瞳が少し充血している。
その瞳を見ただけで、彼がどれ程この問題に向き合い、判断をし、責任のある行動で十字軍を送り出したのかがわかるように思った。
ブルーナの心に愛しい気持ちが湧き上がってきた。それは止める事ができない衝動に似ている。
この後どうすればいいのか分からない。でも、ラディウスの心を軽くしてあげたい。どうすれば良いのか……
その時、ラディウスがブルーナを引き寄せた。
「あ……」
そして黙ったままブルーナを抱きしめる。ラディウスの腕がブルーナの腰の辺りから背中へまわり、彼の頭がブルーナの肩へ乗せられた。
彼の息遣いが耳元で聞こえる。ブルーナは気付けばあぐらをかくラディウスの上に乗っていた。身体が密着している。
先日のピクニックの時に抱きしめられたあの時とは違う。この衝動はなんだろう。
鼓動が先ほどとは比べものが無いほど早く打っている。
——このまま発作が起きたらどうしよう……
でも、ラディウスはもう自分の体のことは知っている。瞬時にそれだけの事を考えているうちに、ラディウスが声を出した。
「お願いだ……暫くの間だけで良い、こうさせて欲しい……」
彼の思い詰めた声が耳元で響く。暖かな彼の体温が伝わり、ブルーナは自分の中で起こる熱の正体を知る事となった。
もうこの気持ちはどうしようもない。
——この人が愛おしい……。
気付くと同時に背徳感が胸に起こった。彼は妹の婚約者だ。私が想いを寄せるわけにはいかない。どうすれば良いのだろう。こんなことになる筈ではなかったのに……。
でも湧き上がる想いを止める事はできない。おずおずとブルーナの腕がラディウスの背中に回された。彼の心を軽くしたい。
「……エリウス様は貴方の命で出発したかも知れない、でも、あの方はすでに自分が行く事を決めていたわ。貴方は自分のやるべき事を真摯に受け止め、頑張っている……私はそれを知っています」
「……ブルーナ」
ラディウスの手が躊躇いながらブルーナの細い身体を抱きしめ返した。そしてブルーナの肩越しに大きな息を吐く。自分の心を吐露した事で彼は少しだけ息をつけたのかもしれない。
「私が強くあるのは当たり前なのだと皆思っている……私自身もそう思う。だが、たまにこうして怖くなるのだ。何もかも投げ出してしまいたくなる……」
「……鉄のように強い人なんていないわ」
「今まで……ここへくる事がそれを担っていたんだ……」
「……そう」
「身近な人を失うかもしれないという恐怖は……どうにも嫌なものだ」
ブルーナの腕が少しだけラディウスの背を撫でる。労わるような優しさを感じ、ラディウスは自分の腕に力を込めブルーナの細い肩に顔を埋めた。
「すまない……君にこんな姿を見せるつもりじゃなかったのに……」
「構わないわ……ここでの出来事は外へは漏らさない約束でしょう?」
「……そうだったな」
ブルーナはそのままラディウスの背を優しく撫で続ける。
「私は、初めて貴方と出会った時……正直にいうと、嫌な方だと思っていたの……」
「それは、少し傷付くな……」
「ふふ……ごめんなさい。他人の男性と接する事がなかったし、警戒心しかなかったから」
「……私は、君の瞳が澄んでいて、とても綺麗だったのを覚えている」
「……貴方はそんな風に思っていたの?」
「あぁ、初めは妖精かとね……」
「それは何? そんな事があるわけないじゃない」
「いいや、初め見たのは君が本を読んでいた姿だ……窓から入る陽の光に照らされて、光を纏っているように見えていた」
「……あぁ、そうだったわね。突然書庫に貴方が現れたの」
ラディウスは『かくれんぼをしていて、エレーヌを探していたんだ』という言葉を飲み込んだ。今エレーヌの存在をこの状況で出したくはない。
「貴方が何度も書庫へ通うようになって、いつの間にか友人になっていて、そしていつの間にか私は、貴方がこの国の王太子で良かったと思っていたわ。そう、気づいたらそう思っていたの」
「…………」
「貴方は、私の病の事を知っても避ける事はなかった……嬉しかったわ……」
「ブルーナ……」
「貴方はそういう人よ。心を持って、真心を持ったまま国のことを考えている。だからこうしてたまに行き場のない想いを抱えてしまう……でも……信頼している人には、弱みを見せてもいいじゃない。だからこそ人は貴方の力になりたいと思うの」
ブルーナのその言葉だけで救われるような気がした。
「人が何と言おうと……貴方は立派よ。とてもね……」
ブルーナが少しだけ腕を緩めた。だがラディウスは離したくないと腕に力を込める。こんなに彼女を近くに感じた事はない。婚約者ではない。だけど、自分にはどうしようもなくブルーナが必要だ。
彼女の前では強い自分でいたかった。でも、この気持ちをどうする事もできない。
——君が好きだ……。
「殿下?……」
「すまない……もう少しでいい、このままでいてくれ……」
二人にはそれぞれ、言葉にはできない思いがある。ラディウスの声を聞いたブルーナが、解こうとしていた腕をまたラディウスに背に回した。
わかっている。自分の婚約者はエレーヌだ。将来結婚する相手はこの愛する人ではない。だが離したくない。
その時、ブルーナが身を捩った。耳元で息を吐く音がする。
「……殿下……腕を緩めて、少し痛いの……」
離したくない気持ちの現れか、思わず抱きしめる腕に力を込めてしまったようだ。
「あ……すまない……」
ラディウスは腕を緩めた。大きく息を吐いたブルーナが、ラディウスの腕から身をもたげた。間近にブルーナの顔がある。ブルーナの瞳が揺らいでいる。
——キスを……許してくれるだろうか……。
そして少しだけ顔を近づけた。途端にブルーナは頬を上気させ、ラディウスの視線から逃れるように、コツンと自分の額をラディウスの額にくっ付けた。
「ブルーナ?」
「……ごめんなさい。あの……私……恥知らずの行動をしてしまって……今どうして良いのか分からないの。どうか、今は……私の顔を見ないで……」
ラディウスの心にブルーナへの愛しい気持ちが溢れ出した。
——……ブルーナが、欲しい……心から……
もう一度彼女を抱きしめたい。でももう抱きしめていた彼女の身体は離れてしまった。
それでも恥ずかしそうなブルーナが自分の目の前にいる。ラディウスは額を離すと、ブルーナの額に愛しい気持ちを込めて、優しくキスを落とした。今はこれで精一杯だった。
ブルーナの瑞々しい唇が少し開かれている。額にキスをした瞬間、その唇から小さく「あ……」と声が漏れた。ブルーナの顔がさらに赤くなっている。
「ありがとう……もう、大丈夫だ……情けない部分を見せてしまった、すまない」
「……いいえ」
今になって、自分の起こした行動を後悔しているのだろうか? ラディウスは視線を合わせないブルーナを少し寂しく感じた。でも、彼女はそういう女性だ。
思い直したラディウスはぎこちない空気を払うように明るい声を出した。
「このまま唇にキスをしたい気分なんだがな……君は許さないだろう?」
「当たり前です。それは絶対に駄目よ」
慌てたブルーナがまともにラディウスを見て、それからまた視線を逸らせた。実にブルーナらしい。
思えばこうして抱きしめる事ができただけでも、自分の心の内を晒せただけでも、奇跡のようなものなのだ。これ以上を望んではいけないだろう。
ラディウスは視線を床の上にある本に向けた。美しい模様が描かれている異教徒の教典がある。
「この禁書を読み解くのを手伝って欲しい……それなら良いだろう?」
「……えぇ、それは……構わないわ……」
ブルーナが目の前で微笑んだ。今までに見た事もないような優しく美しい笑顔だった。
それから二人は床に座り込んだまま本を広げた。
そこにはしばらくの間、分厚い本を覗き込む仲睦まじい二人の姿があった。
五階へ上がれば、時折起こる笑い声と共に、何やら真剣に話す姿が遠くからでも見えていた。
一つの影がゆっくりと階段へ向かう。その影はひどく悩んでいる様子で何度も上の階を見上げたが、そのまま降りて行き書庫を出て行った。
ひんやりした書庫の中は静かに時が過ぎていく。
夏の日差しはほんの少しだけ秋の装いを見せ始めていた。




