58 目の前の幸せ
エリウスが突然訪れてから数週間が過ぎた。その間にエリウスの率いるこの国の十字軍は出発している。
あれ以来ラディウスの訪問も途絶えている。
書庫へ繋がる渡り廊下を歩きながらブルーナは中庭に目をやった。まだ八月半ば過ぎの夏の日差しは、強い光を放っている。
ここのところブルーナの一日のスタートは遅い。あのエリウスの訪問から彼が気になって仕方なく眠れないのだ。エリウスのことを考えるにしても彼との交流がないために情報が足りない。ラディウスの弟である王子がここへきたということ自体に不安を感じ、少ない情報では答えの出しようがなく、自分の思考の中で気がかりな出来事として繰り返し考えてしまっていた。
歩きながらも思いの外大きな溜息が出た。
彼の目的が何であれ、彼は数日前に十字軍を率いて旅立ったと聞いている。不安は残るがラディウスに尋ねない限り、わかりようが無いのは仕方がない。
ゆっくりと夏の風を感じながらブルーナは歩き出した。纏わり付くような暑さは既になく、もう少しすれば秋の気配が漂い始めるだろう。
書庫の中は太陽の光が必要以上に入りにくく相変わらず涼しい。いつもの席には誰も居らず、ブルーナは本を取り出し自分の席に座った。
書籍を読み進めて暫くし、ふと何かの気配を感じて視線を向けると、ラディウスが書庫へ入ってくる姿があった。
「殿下!?」
「元気そうだな」
思わずブルーナの顔が綻んだ。彼は笑いながら少し大きめの本を持ち、笑顔でブルーナの元へやって来た。だが、いつもの颯爽とした風情がない。どこか疲れが見えているのは気のせいだろうか?
「ここへきても大丈夫なのですか? 今は特に忙しいのだと思いましたけれど……」
「忙しいからこそ、自由時間を作り出し満喫したくなるものだろう?」
エリウスの突然の訪問時にあれだけ不機嫌そうに見え苛立っていた彼が、笑顔で自分の目の前にいることが嬉しい。
「その手に持っているものは……」
ブルーナが彼の手にある本に気づくと、ラディウスは悪戯っ子のように笑った。
「君に借りていた本だ。ほら、風刺画ばかりの……」
「あぁ、以前に面白いものを見つけたと言っていたものですね?」
「そう。この本に描かれている絵の中に仕掛けがあったんだ。それを君に教えたくてね」
「仕掛け?」
ブルーナを見るラディウスは、疲れは見えるものの実に楽しそうだ。
確かにおかしな絵が数多く描かれていたが、何か仕掛けがあっただろうか? 思い出してみようとしたがそれらしいものが思い浮かばない。
「先ずはこれを見てくれ……」
ラディウスはそんなブルーナの表情を面白そうに眺めると本を開き、そのままブルーナの前に置いた。そのページには老人の顔の絵が描かれている。
——あぁ、見た事がある……。
何の変哲もないように思えるその顔は、髭を蓄えた優しげな表情の老人に見えていた。
「これが何か?」
ブルーナは絵を見た後にラディウスの顔を見ると彼はニヤリと笑った。
「やはり気づいていなかったのだな……ではそのまま目を閉じてくれ」
「目を? 閉じるのですか?」
「あぁ、頼む」
訳が分からずきょとんとした表情でラディウスを見るが、促されてブルーナは目を瞑った。
「これで良いですか?」
「あぁ、少し待て、今準備をする。まだ目は開けるなよ」
ラディウスは楽しそうに声をかけている。テーブルの上の本を動かしているような音がする。
「よし、開けても良いぞ……」
ブルーナが目を開けると、目の前にあった風刺画の本の中の絵が少年の顔に変わっていた。でも雰囲気は先程のままだ。
「……これ、ですか?」
先ほどの老人の顔は見た事があるが、この少年の顔は見た事がない。訝しんでいるとラディウスが笑いながら口を開いた。
「分からないか? さっきの老人の顔が、反対側から見ると少年の顔になるんだよ」
「……まさか!」
驚くブルーナをラディウスは満足そうに見た。
「どういう事?」
ブルーナは本を手に取ると上下逆さまに回した。途端に少年が老人に変わる。ブルーナは驚愕した。まさに驚くべき仕掛けだ。
「……こんな仕掛けがあったなんて……知らなかったわ……」
ブルーナは何度も反対にし、老人と少年の顔を見ている。
「私も気がついた時に驚いたよ。本を机に広げたまま部屋を出てしまって、戻ると少年の顔が見えたんだ。驚いたが君がこの事を知っているのかわからなかったからな……でも、君はこの事について何も言わなかっただろう? だから知らないと判断した」
ラディウスは楽しそうに口角を上げ、ブルーナを覗き込みながらいたずらに笑う。
「他にもあるぞ」
ラディウスが数ページ捲ると、そこに妖精の絵が描かれていた。ラディウスの瞳が少年のような光を宿している。
「この妖精、何に変化するかわかるか?」
「……何かしら? この羽は変わらなそうですね……蝶かしら? でも模様には見えないわ……」
そう言いつつブルーナは我慢できずに本を上下に回そうとした。
「こら駄目だ! もっと考えろ。この部分、これを反対側から見た場合を想像してみるんだ」
ラディウスの口調までもが少年のように変化していた。それはブルーナも同じだ。目の前で彼は絵とブルーナを交互に見ている。
「……分からないわ、だってこの部分でしょう?」
「あぁ、その部分だ。ほら、よくその辺りの庭で見るものに付いているじゃないか」
「よく見るものに付いてる? 何かしら? でも、ここにもう一つ同じような線があるのね」
「そうそう、そこに注意して、想像するんだ」
ブルーナは暫くそのままじっと絵を見ていたが、ハッとした仕草をした。
「あ……触角だわ! あぁ、これは魔物ね!」
「ご名答! ほら、羽はそのままで、様子が魔物に変わってしまうんだ。これを描いた者は余程の策者か、暇人だな……だがこの発想が相当に面白い」
「こんな事を考えた者がいるなんて思いも寄らなかったわ……」
ブルーナは新たな知識に何度も上下逆さまに回し素で驚いていた。ラディウスは満足げに笑っている。
「いつも君には驚かされているからな。今日は私が驚かせる事ができて満足だ。たかだかこれだけの事だが、結構嬉しいものだな」
「今回は負けましたわ」
二人は笑った。
穏やかな時間が過ぎる。ブルーナの中で、もうエリウスの訪問に対する疑問は隅に追いやられてしまった。彼がきた理由はいつか分かるだろうし、わからないかもしれない。でも今この時間が楽しい。これを壊したくはない。
ひとしきり笑った後に、ラディウスが静かに口を開いた。
「今日はこの後……あの異教徒の教典をまた見せてもらえないかと思ってね」
「えぇ、良いわ……」
返事をしながらブルーナは少しラディウスを案じた。やはり疲れて見えるのだ。
「それで? なぜ今あの本なのです? 忙しい中でも読む価値があると?」
「あぁ、このままでは、何も変わらぬ。同じことの繰り返しになると思った。その時にあの教典に書かれていた事を思い出したんだ。何度も生まれ変わり、自分を高めて行く……国も同じではないかとね」
「…………」
「この十字軍遠征は、一度始まれば何度も繰り返すだろう。エルサレムを奪還できたとしても、異教徒だってそのまま引き下がる訳はないと思う。そうなると、何度も同じ事を繰り返す。不毛な闘いの、これはその始まりに過ぎない……弟を、エリウスを戦場へ送った。この戦いにその価値があるのかどうか……私は正直わからないのだ」
恐らく、最後の部分はラディウスの本心なのだろう。
ブルーナは黙ったままラディウスを見ていた。ブルーナ自身、ローマ教皇の考えた十字軍の遠征が正しいのかどうか疑問だらけだった。その答えを今ラディウスが言ったも同じだ。これから不毛な闘いが始まるのだ。恐らくこれは長く続く。
ラディウスは深いため息をついた。ずっと様々な事を考え続けていたのだろう。
エリウスを戦場へ送った、その責任に彼は耐えなければならない。ふとラディウスの体調は大丈夫なのかと不安が頭をもたげた。毎日グッスリと眠れているのだろうか? 執務で無理をしているのではないだろうか?
「……十字軍の出兵理由は神の領域ではない。人としての行動が正しいのか正しくないのか……この前君が話しただろう? 民衆十字軍の虐殺が起こるかも知れないと……それを考えた時、これは良いはずはないと思った。この国は戦いが起こる度に出兵していれば人は減るばかりだ。国が成り立たなくなれば人はどうなる? 違う視点で見なければこれは打破できない。君は前に言っていたな。考えるための情報は多く持つ方が良いと……それは思想についても同じだと気付いたんだ」
ブルーナはラディウスを見つめた。
「他者からの視点で見る……つまり、自分の思想を覆す気ね」
「まぁ……そういう事だ」
ラディウスは頷いた。
「染み付いた思想を覆すのは、生半可ではないわ。それに思想を覆した所でこの現状を変えるのは難しいかも知れない。それでもやるのですか?」
「この国が生き残り、皆を守るために必要ならね……」
「…………」
ブルーナは軽く溜息をついた後、もう一度真っ直ぐにラディウスを見た。彼の疲労は見えている。本当は少し休んだ方が良いとも思う。でも、彼の瞳の中の熱は誰にも止められる気がしない。それも見えていた。
「わかりました。でもこれだけは覚えていて。それによって国の宗教を変える事は勧めません」
「……大きく出たな。安心しろ。キリスト教を変えようとは思わない。自分の思想を凝り固めたくはないだけだ。一方方向だけの思想では変えられないものがある。だが、他の考え方を学ぶことで打破できることもある」
ラディウスの意見を聞いてブルーナはホッと胸を撫で下ろした。それに気づいたラディウスがブルーナに問いた。
「何故、宗教を変えてはいけないと思ったのか、良ければ教えてくれないだろうか?」
「……昔、エジプトのファラオが国の宗教を変えたのよ」
「ほう……」
「彼は自身の思想を変えた後、それまでの国の宗教に疑問を持ち違うものに変えようとしたの」
ブルーナは真っ直ぐにラディウスを見た。
「……そのファラオは教団によって殺されたの。同じ事をすればこれまでの教団に抵抗を受けるのは間違いないわ。もう既に力を持った教皇という存在がいるんですもの。同じキリスト教内でもカトリックと正教会に分かれてしまって、現在は東ローマと西ローマに分かれてしまっている。信じるものが違うということは、思考を違えるということになり、それまでの積み上げてきた営み自体を葬ることにも繋がるわ」
ブルーナの瞳は真っ直ぐにラディウスを見ていた。
「だから……だから、今の思考に融合させるつもりで考えて欲しいの。新しい知識は貴方の中だけで留めていて。貴方を、失いたくはないから……」
「…………」
そこでブルーナは自分の言葉に気付き視線を落とした。ラディウスは自分の耳を疑った。彼女の口から「失いたくはない」という言葉を聞くとは思わなかった。今のは聞き間違いだろうか?
「貴方を失うのはこの国にとって大きな損失だから……ただ、それだけよ、深い意味はないわ……でもお願い、それだけは約束して」
「……分かった……国の宗教を変えるのは難しい事は私も十分に理解している。私は考えるための材料が欲しいだけだ。大丈夫だ、約束しよう」
ラディウスの心に幸福感が広がっていた。手を伸ばせば触れる距離で、彼女は確かに自分を失いたくないと言ったのだ。
だがそれと同時にエリウスの出兵した姿が思い出された。もし宗教絡みの出兵でなければ、決して行かせはしなかった。
ここの所よく眠れない日が続いている。忙しさとは別に弟が出陣したことが効いているのだと思う。
何度も風刺画の本を開いたが、気を紛らわせる事はできなかった。むしろブルーナの顔を見る方が気は紛れると思った。
いくら聖戦だと豪語した所で殺し合いなのだ。エリウスが死なないとは言えない。怪我もするだろうし、多くのものを失うかも知れない。小憎らしいが、大事な弟だ。失いたくはない。このままではルガリアードはいいように利用されて終わる。
その回避する手段が欲しい。
ラディウスは熱を込めてブルーナの瞳をジッと見つめた。




