57 二人の王子
王城に戻ると直ぐにラディウスは弟を呼び出した。
遠征まじかなこの時に、わざわざ彼がルドヴィーグ伯爵家まで赴く理由は何か、それをハッキリさせたかった。
エリウスは呼び出されるのを分かっていたのかすぐに部屋に現れた。
「今日のあれは何だ?!」
エリウスが部屋に入るなり、ラディウスは掴みかかる勢いで近付いた。エリウスが両手を挙げて降参を示したが、構わずラディウスは襟首に掴みかかる。
「何って……言ったではありませんか? 私は兄上の婚約者に会いたかっただけです」
「それだけではないだろう?」
「だから、遠征前の挨拶です。このまま戦いで死んでしまえば、会う事も叶わないでしょう? その前に会っておきたかった。それだけです」
ラディウスの怒りを含んだ青い瞳が一瞬揺らいだ。
エリウスが戦場に向かえば死ぬかもしれない。それを彼は考えない様にしていた。現実にエリウスが死ぬはずはないといくら思った所で実際はわからないのだ。
目の前のエリウスは掴みどころのない瞳でラディウスを見ている。
「もう二度とあんな真似はするな。良いな」
エリウスの襟元を投げるように手離すと、ラディウスは力が抜けたように近くの椅子に音を立てて座り込んだ。
フツフツと沸いていた怒りが何処かへ消え、エネルギーを使った分、虚脱が起こる。
エリウスはゆっくりと兄の傍の椅子に腰を落とした。
「兄上。聞きたい事があります」
ラディウスはチラリと弟の顔を見たが、直ぐに床に目を落とした。
「兄上に助言を告げているのは、ブルーナ嬢ですね?」
ラディウスは返事をしない。それが答えだとエリウスは理解した。
「何故、城へあげないのですか?」
「……女性を文官として起用するのは難しいのはわかるだろう。お前はできると思うのか?」
「正直にいうと分かりませんね。ですが、兄上付きの文官としてならできるのではないですか? 兄上の執務室でしか仕事をしないのであれば、他の者達からの良からぬ事は受けないでしょう。兄上が彼女を庇護していると伝われば良い」
ラディウスは力なく笑った。
「確かに、初めは文官として彼女が欲しいと思った。彼女の視点は我々のものと少し違う……あの若さで様々な知識を書籍から得て助言をくれる。その知識量は驚くばかりだ。広い視点で見る事、彼女は既にそれができている」
ラディウスは弟にどこまで話せばいいのかと考えあぐねていた。エリウスは黙って話を聞いている。
「私もお前も、様々な事を帝王学の一環として学んでいる。だが、同じような事を彼女はあの書庫の中で、たった一人で行っていた。あらゆる種類の本を読み、蓄積された知識から見事なまでの考察結果を出す」
「……ならば尚の事、城へ呼び寄せるのが良い」
「それはできぬのだ……」
「何故です?」
ラディウスはエリウスを見た。
「私には婚約者が居る。傍らにブルーナを置けば、いらぬ噂が立つだろう。それは……彼女に気の毒だ」
「兄上の側近の文官として起用すれば何の問題もないと思いますが……」
「……いや、恐らく女性というだけで愛人扱いは免れない、それは彼女が望まない」
もし弟が自分の立場なら彼はどうしただろうという考えが浮かぶ。
「兄上は真面目過ぎるのですよ。時にははみ出しても構わぬと思います。それに彼女はそんな事は既に理解しているでしょう。まぁ、側近を承諾すればの話ですが……」
「……私が嫌なのだ。私自身の問題なのかもしれぬ。彼女をそんな噂で汚したくはない」
「なら……彼女を実際に自分のものにしてしまえば良いのでは? 噂ではなく、事実にしてしまえば良い。大体の女はちょっと声をかけて交わえば、こちらのいう事を聞いてくれますしね」
ラディウスはエリウスを睨んだ。
「お前の考えるような軽い女たちと一緒にするな。ブルーナはもっと崇高だ」
「それはつまり……婚約者よりも大事だということですよね?」
ラディウスは黙り込む。
「婚約者の姉君ね……」
「何が言いたい?」
「いえ……そんなに大事に思うのであれば、妹君との婚約は破棄してブルーナ嬢と結び直せばいいだけに思えますが」
「それができるなら既にしている。できないからどうにもならずにいるのだ」
エリウスは大きなため息をついた。
「兄上はどうしたいのですか? 欲しいなら手に入れたらいい。どうにもならない理由とは何なのですか? 言っておきますが、兄上がこのまま何もしないのであれば私が貰い受けますが、それでいいですか? 私なら周りのことは気にせず彼女を手に入れる」
エリウスの言葉をラディウスは笑った。
「……お前には無理だ」
「いいえ、彼女に近づくのを許してくれるなら、絶対に落として見せますよ」
「いいや、ブルーナという人物を知れば知る程、お前は手を出せなくなる。それだけはわかる」
「なぜです?」
「私がそうだったからだ……彼女の魅力は外見や賢さだけではない。知れば知る程、こちらが落ちて行くんだ。あの魅力は他の者では変わりにはならない」
ラディウスの言葉を聞きながら、エリウスは軽い衝撃を受けていた。ブルーナという女性の奥深さが伝わってくる。ラディウスをこれほど夢中にさせているブルーナにエリウス自身も興味はある。だが、目の前の兄の様子を見れば簡単に手を出すことはできないこともわかる。
「私が愚かだったのだ。父上に婚約期限を決められ焦っていた。もっと他にするべきことがあったというのに……」
「婚約を急いだのは、あの三大侯爵家の御令嬢たちが原因ですね。確かに、あの三人から選ぶのは酷な話だ」
それを聞いてラディウスは思い出したように顔を上げた。
「そういえば、私の後、お前にもあの三人との話が来ていただろう? お前は良く逃げきれたな?」
「まぁね、男色の噂を流しておけば向こうが避けますから、意外と楽でしたよ」
ラディウスは愕然とした。
「よくやるな……」
「まぁ……それぐらいしないとあのご令嬢達は引きはしないでしょう」
ラディウスは苦笑したままゆっくりと首を横に振った。自分にはそこまで徹底する事はできない。
「身内にならずに済んでよかったが、私にはできぬ」
「まぁ……人それぞれですからね。兄上に同じようにしろとは言いませんよ。それに、私は好きにやらせて貰っていますから」
エリウスはただ鮮やかに目の前で笑っている。ラディウスはその笑顔を見ながらブルーナと話した民衆十字軍のことを思い出した。
「話は変わるが、お前に気にしていて欲しい事がある」
書庫でブルーナと話した民衆十字軍の内容をラディウスはエリウスに話した。
「成る程、大虐殺の恐れありですか……」
「東ローマへ向かう先々の街や村でも、彼等が起こしている可能性がある。そうなると、彼等の未来は暗雲しかない」
「……難しい問題ですね。既に虐殺を起こしている可能性があるなら、東ローマの首都へは入れないでしょうね」
「回避できないか……そこも見て来て欲しい」
「……わかりました。我が軍が五百とリングレントが同じく五百、この人数で抑えられるかどうかはわかりませんが、努力はしましょう」
「あぁ、頼む」
ラディウスは今更ながらにエリウスの存在の大きさを理解した。目の前の何事にも器用な弟は、ラディウスをよく理解して動いてくれる。彼がこれから向かう場所は、余り気分の良い場所とは言えない。
一瞬、エリウスが戻って来なかったら……という未来を考えた。その途端ゾッとして背筋が冷えた気がした。戦場へ向かう弟に自分がしてやれる事は何か……後方支援を滞りなく行う。今はそれしかなかった。
未来はどうなるのか、自分には一切わからない。不安がラディウスの心に広がり始めた。だが、悟られてはならない。弟はこれから地獄へ向かうのだ。ラディウスの心に聖書の教えが浮かんだ。
『人を殺してはならない』
聖書にはそうある。だが、弟は戦地へ向かわなくてはならない。
何故なら、この戦いがローマ教皇のいう所の『聖戦』だからだ。だが、果たして本当にそうなのか?……
今このルガリアードは西ローマのカトリックの支配下にある。常にローマ教皇の勅令を気にしなくてはならない。今回のような十字軍遠征は、これからも起こるかもしれない。その度に恭しくその名に従わなくてはならないのだ。
弟と語り合いながら、ラディウスは心の中に不安を感じていた。
——もっと何かやるべき事があるのではないか?
ラディウスは弟と話しながら考え続けた。
この日、語り合う二人の声が、深夜まで聞こえていた。
* * * * *
そしてその数日後、良く晴れた日の遅い午前中に、エリウスは五百名の兵士を連れてルガリアードの王都を東へ向けて出発した。
ラディウスは街道を兵達が並び行く様を、城門の上から見ていた。
濃いめの青い地色に一部白が織り込まれ、金の糸で王家の紋章が刺繍されたルガリアードの旗が綺麗に列を成し、東へと進んでいく。先頭を行くエリウスが一度振り返り、ラディウスに向けて手を上げた。彼の表情は晴れやかだ。ラディウスはそれに答えるべく手を上げ、その彼の影が見えなくなるまでずっとその場を離れなかった。




