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「エリウス?!」


 途端にラディウスは声を上げた。

 そこに佇んでいたのはラディウスの弟王子のエリウスだった。


「気付かれてしまいましたね」


 エリウスは爽やかな笑顔と共に二人の側へ近付いてくる。ブルーナは拡げた地図を畳み本を閉じると目礼をした。


「何故お前がここに?」

「まぁ……一度、兄上の婚約者とお会いしたかったのですよ」


 エリウスはそう言うなりテーブルを回り、笑顔でブルーナの傍に立つと、その手を取った。彼の一連の動きには隙がなく、拒もうとしたブルーナの手をやんわりと包み込み鮮やかな笑顔を向ける。


「ルガリアードの第二王子エリウスと申します。こんなに美しい方だとは……以後お見知り置きください」


 彼は丁寧にそう言うとブルーナの手の甲の第二関節と指の付け根の間にキスを落とした。そして唖然とするラディウスを見やる。


「確認ですが、こんな書庫でお二人だけで何の話をしていたのです? 『君が欲しい』と聞こえたという事は……この方が兄上の婚約者なのでしょう?」

「エリウス……」

「遠征が間近なので、兄上の婚約者にご挨拶をと思いましてね」


 もともと婚約者の公表は隠しているのだ。これは予想できた事だが、エリウスの出現が余りに唐突で、ラディウスは考え込んだ。


——エリウスの目的はそれだけなのか?……


 エリウスはその後の言葉を柔らかく笑いながら続ける。


「兄上。この方が兄上の婚約者なのですか?」

「……いつから聞いていた?」


 ラディウスは静かな怒りを目に潜ませている。


「いつからって……『君が欲しい』と聞いた辺りですかね? いや、驚きましたよ。まさか愛の告白の最中だとは思わなかったもので……ですが、私にも時間がないので、ご容赦いただきたい」

「……愛の告白などしておらぬ。お前はそんな戯言をいうためにここへ来たのか?」


 ラディウスの声は落ち着いている。だが、いつもと様子が違う。


「戯言でも何でもなく、戦場に行けば死ぬかも知れない。その前に兄上の婚約者に会っておきたいと思うのはおかしな事ではないでしょう?」

「ならばもう黙れ……その話は、今夜城でしよう。来てくれたところ悪いが、今日は帰ってくれないか?」

「兄上、それはないのでは? せっかくここまで来たのに? 私だって彼女ともう少し話がしたい……」


 そこまで言ってエリウスは言葉を止め、ブルーナに向きあった。


「これは失礼を致しました。申し訳ないが、私は貴女のお名前を聞いていないのです。お聞かせ願いますか?」

「……私はルドヴィーグ伯爵の娘、ブルーナと申します」

「ではやはり貴女が兄上の婚約者ですか?」

「いいえ……」

「違う? 先ほど兄上から『君が欲しい』と言われていたではありませんか……それでも違うと?」

「えぇ、違います」

「……分からないな。どういう事です? 兄上」


 ラディウスは黙ったままエリウスを見ているだけだ。そしてエリウスもラディウスの視線を受けて黙り込んだ。


 ブルーナは目の前で繰り広げられる静かな争いを冷静にみていた。

 エリウスがここまで来た理由が彼のいう通りであれば、婚約者の名前くらいは調べたのではないか? 自分が名乗れば婚約者ではない事は分かるだろう。そう思っていたのだが、エリウスは婚約者の名前を知らなかった。とすればラディウスはエレーヌを守るために本当に公表していないのかもしれない。


 どう見ても二人は争っているように見えている。これ以上は何もしない方が良い、そう判断したブルーナは名乗る以外は声を出さず、静かに傍観していた。


「それについては、私が説明いたしましょう……」


 突然ルドヴィーグ伯爵の声がし、書棚の影から彼が出てきた。


「エリウス様、私が席を外した途端に居なくなるのはお辞めいただきたいものです。お探しいたしましたよ」


 ルドヴィーグ伯爵は穏やかに笑い、三人の立つテーブルへやってきた。


「それは……済まなかった。初めに言った通り、書庫を見たかったのだ。私はもう直ぐこの国を出るのでね。東ローマに関する情報が欲しかったのと……まぁ、聞いていたなら説明は要らぬだろうが、兄上の婚約者に会いたかったのだよ」


 少し気まずそうにエリウスがいうのを、ルドヴィーグ伯爵は柔らかく笑い受け入れている。


「私の書庫にある物は、今書き写しているもの以外、全て王宮の図書室にも置いてあります。王宮の司書に聞けば直ぐにわかるものを,何故来られたのかと思っておりましたが……成る程、婚約者である娘に会いたかったのですね」

「……では、やはりブルーナ嬢が兄上の婚約者なのか?」

「いいえ、ブルーナではありません。私にはもう一人娘がおりまして……ただ、彼女は今ここにはおりませんので、今日お会いする事はできません。ブルーナはこの書庫の司書の役目をしております。ですので、ラディウス殿下がおいでの際には、本を探してさし上げるために殿下に付いて貰っております。私よりこのブルーナの方が本の場所には詳しいものでね」


 ルドヴィーグ伯爵の答えはどこにも隙がなく、口を挟む事ができない程完璧だった。


「……そうか、だが先程兄の口から『君が欲しい』との言葉を聞いた。これについての説明は? どう答える?」


 ラディウスが口を挟むより先にルドヴィーグ伯爵が笑い出した。


「あぁ……殿下はまだそのようなことを仰られているのですか? 何度もお断りを申しているのですが……。この娘の本の知識が欲しいとの意味ですよ。王宮の司書に来ないかと何度も誘われているのです。ですが、この娘がこの書庫から居なくなると私が困るので、それはご勘弁願いたい……ラディウス殿下、私の居ない所でのお誘いはいけませんな」


 ラディウスはホッとしたような顔つきになった。


「いや、すまぬ。毎回彼女の仕事ぶりが見事なのでな……」

「そのお褒めの言葉は、娘共々嬉しく思いますよ」


 ルドヴィーグ伯爵はまた笑った。


「皆さん、こんな所での立ち話も何ですので、客間へおいで下さいませんか? お茶の準備を整えてあります。ブルーナは本を整理して片付けなさい……」

「はい、父上」

「では、参りましょう」


 ルドヴィーグ伯爵は、エリウスに向けてまた穏やかに微笑んだ。エリウスは俯くブルーナをチラリと見たが、そのまま伯爵と共に歩き出した。エリウスが背を向けるとラディウスがブルーナの側へ来た。


「ブルーナ……済まなかった」

「いいえ、大丈夫です。早く行かれて下さい」


 ぎこちなく笑うラディウスを柔らかに受け入れながら、ブルーナも微笑んで見せた。


「また来る……」

「……えぇ、お待ちしております」


 密かに言葉を交わし、ラディウスも二人を追って書庫を出て行った。

 三人が居なくなると、ブルーナは大きな溜息をついた。


(さすが、父上だわ……)


 父の出現には驚いたが、あの手腕はやはり見事だ。


「この書庫の司書……私が?……」


 父の言葉は少し嬉しかった。ただ本を読んでいただけだが、確かにそう言われて見ると、自分の役割は司書のようだとも言える。ふふっと笑うとブルーナは本を手に取った。

 ルドヴィーグ家の書庫の司書としては、あるべき場所に本を片付けなければならない。足取り軽く、ブルーナは本を手に上の階へと上がって行った。




           * * * * *




 二人の王子を送り出し、静かになった客間でルドヴィーグ伯爵は考え込んでいた。

ラディウスはエレーヌを守ろうと努力してくれているのは、端から見てもよくわかる。だが、今日のように誰がどのような思いで婚約者という立場の娘に会いに来るのかわからない。エレーヌが婚約者であると伏せているにも拘らずだ。


——今日の出来事は偶然な訳が無い……。


 ラディウスが城を留守にしていることを知って追いかけたのかどうかまではわからないが、これからも度々起こる事となるだのろう。



 開いた窓から涼しい風が室内に入ってきた。机の上の書類が揺れる。ルドヴィーグ伯爵は立ち上がると窓を閉めた。ガラスの向こうに夜の空には星が見えている。


 伯爵の脳裏にはラディウスのブルーナへの視線が思い浮かんだ。


——殿下は……本当はブルーナの方を気に入っているようだ。彼は……できるなら、エレーヌではなくブルーナを欲しいと思っているのではないか?


 書庫へ足繁く通う様も、ここへ来る理由もそうなのではないかと思えて仕方がない。


 ラディウスは伯爵と約束した通り、どんなに忙しくても時間があれば必ずここを訪れる。一時期は週に一度通っていた事もある。真面目で、卒がなく、ユーモアも持ち合わせながら、頭も良い。それだけでも十分に良い資質を持っているが、それ以上に仕事もできて、男の自分から見ても、容姿に恵まれ身長が高く、申し分ない。


 格上の貴族の娘を嫁に貰えば良いものを何故中間の位のルドヴィーグ家だったのか……それはいまだに謎だが、彼は間違いなくブルーナに惹かれている。そして今足繁く通う理由もそこにある。


 しかし、ブルーナには病がある。もし病がなければ、自分は間違いなくエレーヌではなくブルーナをラディウスに引き合わせただろう。


「病がなければ……」


 ルドヴィーグ伯爵は溜息をついた。

 ブルーナは美しく賢く機転の利く娘に育った。あの娘と接する機会の多いラディウスが惹かれるのも致し方ないと思う。病さえなければ、自分だって事ある毎に自慢しただろう。

 だが現状は病があり、いつどうなるのか分からないのだ。そんな娘を城へ上げる事も嫁に出す事もできない。

 また溜息がついて出た。


「あなた……」


 間近でリリアナの声がした。見るといつ部屋に入ってきたのか、リリアナが心配そうにルドヴィーグ伯爵を見ていた。


「リリアナ……」

「……私は不安です。今日、何故エリウス様までもがここへいらしたのか……あの子は如何なりますか? このままラディウス殿下の婚約者として過ごすのでしょうか?」


 伯爵にもリリアナの言わんとする事はよく分かっていた。エレーヌを守り切る事は可能なのだろうか? まだ小さいあの娘を世間の荒波の中に置くのは忍びない。


「もう少し様子を見ないか? 今日エリウス様がおいでになったのは、まさに婚約者の娘に会いたかったからだが……そこはブルーナ共々回避できた。今日の事は心配要らぬだろう。だが、これからこのような事が続くなら、何か対策をせねばならない……」

「どうか、あの娘を守ってください。まだ何も分からぬ五歳の少女なのです。今日、婚約者とは仲良しの事を言うのではないのかと尋ねられました。婚約者の意味もまだわからない子供なのですよ。如何すれば良いのか、私にはわかりませんわ」

「あぁ……心配するな、時が来たら尋ねてみようと思う。だが、それは今ではない。わかるね」

「……はい」


 7月末の夏の夜だというのに、外はナリア湖からの涼しい風が吹いてくる。

 ルドヴィーグ夫妻は不安な思いを胸に、更けていく夜の空を眺めていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] やはりエリウスでしたか!?機を見て敏なり!さすが行動が早い!三人の揺れ動く感情が細やかで奥深いです。そしてルドヴィーグ伯爵!理性の声と両親の娘たちへの思いが語られる。この回とても好きです!…
[一言] エリウスだった!やったー!! そしてひさしぶりのリリアナさんだ!やっぱり母親なんだね。心配だよね。5歳の女の子も、身体が弱い女性も守ってほしいよ(;ω;)
[一言] いやあ、エリウス殿下でしたかー、しかもラディウスに知らない間にコッソリとブルーナとラディウスの会話まで盗み聞きして。さすが弟殿下ですね。 そもそも、ルドヴィーク伯爵の目を盗んでこっそりと書…
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