53 青い空の行方
二人は立ったまま、声も上げられずにリスの様子を見つめていた。きっとリスからは葉に影に隠れて、こちらが見えていないのだろう。動いたり声を出したりすれば、リスは瞬く間に中に引っ込んでしまうはずだ。身動きが取れない。
リスは巣穴を出ると、木の実のある窪みまで行き、辺りを警戒しながらも、木の実を一つ取り口の中に入れ込んだ。そしてもう一つ手にするとまた続けて口へ入れる。
繰り返しその作業をするうちに、口の中が大きく膨れ上がった。だけどリスは口に入れるのを辞めない。
そのリスの顔を見ているうちに、ブルーナは笑いが込み上げてきた。リスの頬はすでにパンパンに膨れ上がっている。それでも木の実を口に入れようと、四苦八苦するリスが何ともおかしいのだ。
「笑うな……気付かれる……」
ラディウスが小さな声でブルーナに伝えたが、もう我慢ならなかった。
「うふふふふ……あはは……」
一度笑い出すともう止まらない。ラディウスもブルーナを支えながら肩を揺らす。リスは声に驚き、慌てて巣の中へと入っていった。
「あはははは!」
「はっはっは!」
ブルーナとラディウスは我慢ならずに大声で笑い出した。
「あのリスの頬を見ましたか?」
「あぁ! はち切れんばかりの頬だった!」
何てラッキーなんだろう。葉を観察した事で、少し静かになったのが功をなしたのだ。それを素直に受け入れていると、エレーヌの声がした。
「お兄様もお姉様もずるいわ! 私も見たかったのに!」
ラディウスの後ろの枝に、ちょこんと座ったエレーヌがいる。口元を膨らませている様子が、今見たリスによく似ていた。二人はそれを見てまた笑い出した。
「もう! 二人とも意地悪です!」
「すまぬ、エレーヌ。君の様子が、まるで今見たリスのようで……」
「ごめんね、あなたがあまりにも可愛らしいから……殿下、ほらエレーヌにも見せてあげなければ……」
二人はまた笑う。エレーヌはそんな二人を睨みながら口を膨らませたままだ。
「もういいです」
プイッと横を向くエレーヌの前にしゃがみ込むと、ラディウスは優しく頭を撫でた。
「突然の出現だったのだ。今、リスは巣穴に入ってしまったが、また木の実を置いておこう。きっとまた取りに現れるぞ」
そう声をかけ、ラディウスはポケットから残りの木の実を出すと、エレーヌの手のひらに置いた。
「だが、先ずブルーナ……君を座らせるのが先だな」
ラディウスは楽しそうに笑うと、ブルーナを少し離れた場所で腰を下させ、エレーヌの側へ戻ると抱き抱えた。それからブルーナの脇を通り、器用に窪みへとエレーヌを押し上げる。
「そこの窪みに木の実を置くんだ。やってごらん」
「はい」
今の今、拗ねていたにも関わらず、エレーヌは嬉しそうに渡された木の実を置く。こうしておけば、きっとまたリスは巣穴から出てくるだろう。
* * *
それから暫くすると、従者が食事の準備ができたと呼びに来た。三人は名残惜しくも枝を降りることにした。
まずはエレーヌ。ラディウスは座り込み、エレーヌの腰を持つとデュランに向けて下ろす。エレーヌはすんなりと下へ移動できた。
次にブルーナだが、本を先にデュランへ渡し……さてどうしよう。ラディウスは、ブルーナの腰に手を当てるのを躊躇った。年頃の娘の腰に手を回して良いものだろうか? ブルーナ自身少し頼りなさげだ。
「あの……私は先程のように腕を使えば……降りられませんか?」
「うむ……重心の移動のバランスが難しいな、腰を中心に支えると楽なのだが……」
「……腰、ですか?」
女性のエルダになら良いのだが、男性に腰を触られるなど躊躇い以外何もない。
「君を下すことを考えていなかったのは謝る。それでもこのままでは埒が明かない。私とデュランが腰に触るのを許して欲しい……」
ブルーナは思わず顔を赤くした。確かにこのままではどうしようもない。いっときの恥なだけだ。
「……はい」
「では先ず、私の前に座って……」
「……はい」
ブルーナは引き上げられた時同様、ラディウスに支えられ指示通りに横向きに座った。
「ここは馬上より少し高い程度だ。少しの間だけ腰に手を添える、良いな?」
「……はい」
ラディウスの手助けを受け降りるしかないのだ。自分では怖くてどうしようもない。こうなった今、背に腹は変えられない。ブルーナは承知した。別に特別な事なのではない。仕方なく降りるまでの間、触れられるだけだ。
ラディウスの手が躊躇いながらも、ブルーナの腰に手を触れた。途端にくすぐったく感じ、ブルーナは身をよじると、眉間に皺を寄せた。
「……ブルーナ、少しの間だけだ」
「分かっています……どうぞ」
半分投げやりになっていたのかもしれない。そう答えつつも体に力が入り、ラディウスのどこに掴まれば良いのかわからない。間近に迫るラディウスの顔を見る事ができず、ブルーナは思わず視線を逸らせた。下では受け取るのを待つデュランの後で、エレーヌがこちらを見上げている。
——エレーヌにできたことよ。私にだって出来るわ。
根拠のない自信は人を大胆にさせる。だが、不意にブルーナはラディウスに持ち上げられ、お尻の下にあったはずの太い枝が消えたと思った時、恐怖の方が先にきてしまった。
「あ! 待て! ブルーナ!」
ラディウスの焦る声がしたと思った瞬間、二人は空間に投げ出された。そして抱きしめられたまま体にズシンとした衝撃が起こる。
「殿下!!」
デュランの声が響き、気が付くとブルーナはラディウスの腕の中でうつ伏せに倒れていた。
「痛た、た……」
下からラディウスの声がする。ブルーナの身体は、ラディウスにしっかりと抱かれたまま、身動きが取れなかったが、少し顔をずらすと、ラディウスの顎の部分が目の前にあった。その状況に驚きすぎて声が出ない。
「ブルーナ……大丈夫か? 怪我はないか?」
耳のそばでラディウスの声がするが、同時に高価な布にピタリとあてている反対の耳には、心臓の音が聞こえている。一体これはどういう状況なのか……この力強い心臓の音は誰のものなのか?
「ブルーナ?!」
少し焦るようなラディウスの声が聞こえ、ブルーナを抱きしめている腕とは別の手が、ブルーナの髪を撫でた。優しい手の感触に我に帰ったブルーナは、慌ててラディウスの胸に手をついて起き上がる。
必然的に寝転がるラディウスを、上半身を起き上げたブルーナが見下ろす形になり、ブルーナの心が固まった。
驚いた表情のままラディウスを見下ろしていると、彼の眼がホッとしたように優しく笑い、抱きしめていた腕を伸ばしブルーナの髪を撫でた。
「大丈夫そうだな……怪我はないか?」
「…………」
ブルーナは頷くしかなかった。感情の起伏がうまく作用しなくて、ただ現状を受け止めるのに精一杯の自分がいる。冷静に見ているようで、空っぽの感覚に戸惑うばかりだ。次の行動をどうすれば良いのかわからない。見下ろすこの角度で、ラディウスを見るのも珍しく、思わずしげしげとブルーナは彼を見つめた。
「まさかとは思うが……腰を抜かしたのか?」
ラディウスがブルーナを見上げている。
「あ……いえ」
慌ててラディウスの上から移動しようとしたが、力が入らずに彼の横にコロンと仰向けに寝転んでしまった。
人間とはあまりに驚き過ぎると、行動の全てに鍵がかかってしまうようだ。ブルーナはこの寝転んでしまった行動で頭の中は冷静になった。
「ブルーナ!」
隣でラディウスが慌てて身を起こし覗き込んできた。ブルーナの視界には、さっきまで居た太い枝と、ラディウスの心配する顔が見えている。ブルーナは笑った。
「私達、あそこから落ちたのですね……」
目線の先にある太い枝は、緑の葉を背に大きく湾曲して見えている。横で安心したラディウスが、もう一度寝転んだのがわかった。同じ風景を見上げながら、また笑いがこみ上げてくる。
「ふふふ……今日の木登りは怖かったけれど、木から落ちるなんて最高の経験です」
「私は焦ったがな……」
楽しげな二人の笑い声が辺りに響いた。ラディウスがクッションになってくれて、怪我がないから笑えるのだ。ラディウス自身にも怪我はないようで良かった。デュランは近くに寄りホッと胸を撫で下ろし、エレーヌも二人の頭の上の方で笑い出した。
そのエレーヌが二人の顔を覗き込むと……衝撃的な言葉を発した。
「お兄様とお姉様も婚約者ね」
エレーヌはそのままニコニコと二人を見ている。ブルーナは慌てて起き上がったが、彼女はニコニコとしたままだ。
「そ……それは違うわ、エレーヌ。殿下の婚約者は貴女。私は違うの」
「どうして? だってお兄様とお姉さまも仲良しでしょう? 仲良しを婚約者というのではないの?」
「あ……」
ブルーナは思い出した。幼いエレーヌが婚約者とは何かと問われた時、両親のようになる事と教えたのだ。それをエレーヌは仲良しのことを言うのだと勘違いしていた。
「エレーヌ、あのね……」
もうそろそろ本当のことを教えた方が良いのだろう。ブルーナが意を決した時、起き上がったラディウスが柔らかく笑い、エレーヌの頭を撫でた。
「もう少し時間が経てば、君にも分かるようになる。疑問はその時まで取っておけば良い」
「今じゃ駄目なのですか?」
「ふむ……お昼ご飯を食べ損ねても良いなら構わないが……どうする?」
ラディウスの問いにエレーヌはハッとした。
「あ……今はピクニックでした!」
「あぁ、美味しい物がたくさん待っていると思うぞ」
途端にエレーヌの顔は先ほどよりも深い笑顔になる。
「お姉様、お外でのご飯に行きましょう!」
エレーヌは駆け出す勢いだ。
ブルーナは立ち上がろうと手をついた。そのブルーナに、先に立ち上がったラディウスの手が差し出された。ブルーナは少し困った表情のままその手を取った。立ち上がりドレスについた埃を払い、神妙な顔になる。心持ち、前に立つラディウスの表情が憂いを帯びて見えた。
「殿下……ちゃんとした説明ができておらず、失礼しました。今度ちゃんと説明しておきますから、許してください」
そのブルーナをラディウスは少し真剣な瞳で見ていた。そして不意に笑う。
「気にするな。両手に花で、私は得した気分だ……」
その笑顔の中に彼の心は見えない。そして、その笑顔に少しホッとする自分がいる。
彼の婚約者である妹は、元気にデュランと駆けて行く。ブルーナは気を逸らせるように、エレーヌの後ろ姿を見ていた。
この時、ラディウスはエレーヌに、自分の心を見透かされているように感じていた。ブルーナの手を取りながら、ギュッと抱き締めたくなる想いを堪える。
木から落ちる瞬間、必死に彼女を引き寄せ抱きしめた。
怪我をさせたくない、守りたい、そんな気持ちが一瞬で彼を支配した。そのブルーナの身体の感触が自分の腕の中に残っている。
そのブルーナはエレーヌの後ろ姿を見つめ、彼の横で佇んでいる。その凛とした姿に、彼女を抱きしめることが出来れば、何も要らないとすら思えた。
だが現実は無情だ。ブルーナが愛しい……そう思いつつラディウスは自分の手を強く握りしめた。




