52 リスの巣穴と青い空
四人が奥へと進むと、その先に大きな樹木があった。
大きな幹から多くの太い枝が四方に広がり、威風堂々とそこにある。その他の樹木は、この樹木に比べると大した太さではない。
「あぁ……間違いない、あの木だ」
ラディウスの探す木はすぐに見つかった。
「あの木の二つ目の枝の上部分に穴が開いている。ここからは分かりにくいが、一番下の枝に登れば見る事ができると思うのだが……」
「木に登るのですか?……」
ブルーナは目を丸くした。木に登るなど、よくまあ簡単に言ってくれるものだ。
「私の腕を伸ばせば下の枝ぐらいには届くぞ」
「でも……危なくはないのですか?」
ラディウスは少年のように笑う。
「まぁ、見ていろ」
そう言うなりラディウスは横に広がった木の枝まで行き、手を伸ばせばもう少しで届きそうな高さの枝にジャンプをし、懸垂の要領で枝に体を引き寄せると、あれよあれよと見ている間に枝の上へ上がってしまった。
「お兄様! 凄いわ!」
隣で見ていたエレーヌが手を叩いて大喜びしている。でもブルーナは気が気ではなかった。落ちないという確証はないのに……。
「落ちたらどうするつもりなのでしょうか?」
「あの程度の枝なら、よほど落ち方が悪くない限り大丈夫でしょう」
側近であるはずのデュランも苦笑しながら見ている。見ている間にラディウスは立ち上がり枝の上を移動すると、屈み込みながら二本目の枝の出ている部分を覗き込んだ。あの辺りにリスの巣穴があるようだ。
「……ここからも中は見えんな」
ラディウスは下を見下ろしデュランを呼んだ。
「デュラン、木の実を……」
そしてバランスよく左の手で枝に掴まりながら右手を枝より低い位置に伸ばす。デュランは持っていた木の実をラディウスに渡した。
「お兄様、どうするのですか?」
「巣穴の傍に窪みがある。そこへ置いておけば中にいる場合出てくるかもしれない」
ラディウスはその窪みに木の実を置くと、視線をこちらに向けた。
「この大きさの枝ならみんなの体重も支えられると思うが、どうだ? 上がるか?」
樹木の幹から離れたその場所の下には柔らかな草が生えている。落ちたとしてもあまり痛くはないかも知れない。そうは思うもののブルーナにはその勇気はなかった。
「私は辞めておきますわ……」
「私は上がりたいです!」
辞退したブルーナに対してエレーヌは嬉しそうに目を輝かせた。
「エレーヌは駄目よ。小さいもの。落ちたらそれこそ大変よ。二度とお父様に、ピクニックを許して貰えなくなるわ」
慌ててブルーナが言うが、エレーヌは気にしていない。
「だって見たいんだもの」
「そんな簡単じゃないわ。殿下が登るのを見ていたでしょう?」
少し焦るブルーナの声に、ラディウスは笑った。
「私が押さえておくから大丈夫だ。デュラン、エレーヌを頼む」
デュランがエレーヌを抱き掲げ上げると、ラディウスが枝の上から手を出した。そのままエレーヌはラディウスの手に渡り、ストンと音がしそうなほど簡単に枝の上に乗っかってしまった。
「…………」
ブルーナはただ見上げるしかなかったが、エレーヌは持ち前の好奇心で枝の上に立ち、リスの巣穴を覗き込んでいる。ラディウスがしっかりと押さえているので、エレーヌは難なく確認を終えた。
「リスは見えませんね。寝ているのかしら……」
「彼らは夜行性ではないと思うが、餌を探しに行っているのかも知れないな」
「ここに木の実が沢山あるのに?」
「今置いたばかりだ、まだ気付いてはいないのだろう」
実に楽しそうに、二人はリスの巣穴を覗いている。ブルーナはハラハラしている自分が馬鹿らしく思えてきた。小さく溜息をついた時、ラディウスがブルーナに視線を向けた。
「どうだ? エレーヌは喜んでいるが……君もここへ上がる気はないか?」
何とも爽やかな笑顔を向けるラディウスを恨めしくも思う。エレーヌと自分は違うのだ。大人の自分を、デュランが同じように掲げてくれるとは到底思えないし、気恥ずかしい。
ブルーナはラディウスに返事をせず、根元に置いてあった『植物誌』を手に取った。ラディウスの言葉は、完全に無視を決め込む。知らぬ振りで樹木にもたれ、パラパラとページをめくっていると、またラディウスが声をかけてきた。
「葉を観察しないのか? ここに上がれば葉の観察ができるぞ」
確かに木の葉はブルーナが手の届く範囲にはない。
「殿下が葉を採取してくださったらできますわ」
「生きている葉をちぎるのは忍びないだろう? ここへ上がれば好きなだけ出来ると思うがな」
ラディウスは葉の採取はをするつもりがないようだ。少しだけ意地が悪いと感じつつ無視をしていると、ラディウスが笑いながらまた声をかけてきた。
「……では、私が葉を観察しよう。本をこちらへ」
ブルーナは少し悔しい思いがした。本当は自分で観察をして樹木を特定したいのだ。でも仕方がない。ブルーナは本を閉じると背伸びをし、ラディウスへ本を差し出した。すると、先程デュランから木の実を受けた時のように、ラディウスが屈み込んで右手を伸ばす。
そして次の瞬間、ラディウスは、その本を持つブルーナの手首の下をガッチリと掴み、渾身の力で持ち上げた。
「きゃああ!」
思わずブルーナは自分でも聞いた事のない声をあげた。強い力で腕が引っ張られ、体が持ち上がり、宙に浮いている。地面が離れるのを恨めしく思う間もなく、気が付けばラディウスの腕の中にいた。
それは抱きしめている訳ではなく、樹木の太い枝にバランスよく座らせるために、ラディウスが己の前にブルーナを設置した、というのが正しい表現なのだが。
「で……殿下?」
ブルーナが恐々と横に視線を送ると、笑うラディウスの顔が間近にあった。
「少し視線が高くなるだけで見える範囲が違うだろう?」
「ね? お姉様、楽しいでしょう?」
いつの間にか、ラディウスの後ろに移動していたエレーヌが、彼の肩越しにブルーナを覗き込んでいる。
こんな事は今まで経験したこ事がない。木の枝の上にいる事で、ブルーナの全神経が昂ぶった。
下を見てしまうと身体が強張り、枝の上でのバランスを崩しかねない。そう思ったブルーナは正面を向いた。確かに視点が高くなるだけで見える範囲が広く感じる。怖い気持ちはまだ消えないが、たかだか一メートルちょっと視点が上がっただけで、視野は思いの外広がるのだ。知らぬうちにブルーナは息を吐いた。
「私はどうすれば良いのですか? このままでは身動きが取れないのですが……」
「君のそういう困った顔を初めて見たな」
その様子をラディウスは笑いながら見ている。ブルーナの右手はラディウスが握っているし、背に当てられた手のひらがしっかりとブルーナを支えている。
「面白がらずにどうにかして下さい」
このままではどうにもしようが無い。
「リスの巣穴を覗いてみるか?」
ラディウスが樹木の幹を指差した。恐々その巣穴の方を見る。そこで初めてブルーナは太い樹木の枝が安定しているのに気付いた。
「殿下、あの……私……大丈夫かもしれません。手を離してみてください」
「……そうか? では手を離すぞ」
ラディウスが手を離すとブルーナは思い切って立ち上がろうとした。だがなぜか上手くいかない。
「私が先に立ち、引っ張り上げようか?」
「…………」
ブルーナは今いる場所が地上ではないだけで、立ち上がるのも難しいとは思わなかった。自分の身体なのに、どこに力を入れて良いのか分からない。そんなブルーナを尻目に、ラディウスはサッサと立ち上がり、彼女の腕をグッと引き上げた。
気が付けばラディウスに支えられ、太い枝の上に立つ自分がいる。
「なぜ殿下はグラつかないのですか?」
「それは……日頃の鍛え方が君とは違うから……」
確かにラディウスの腕は力強く、掴まえていてもらっている間は、ブルーナの身体もグラつく事はない。
「巣穴は? 見ないのか?」
ラディウスに促されるように、ブルーナは首を巣穴の方へ向けた。視線の先には窪みに置かれた木の実が見える。その横に葉が重なり合っている部分があり、観察はできそうだ。視線を下ろせば『植物史』が枝に置かれているのが見える。手を伸ばせば届くだろう。だが、意識がそちらに向くと途端にグラつく。
「葉の観察をしたいけれど……この状況では本が取れません」
ブルーナは溜息をついた。そんな彼女を支えながら、ラディウスは簡単にしゃがみ込むと本を取る。
「どうぞ、ブルーナ。私が君を支えているから好きなだけ観察すれば良い」
何故だろう。その笑顔を見ていると、少し腹が立って来た。自分はこんなにグラ付くのに、彼は何故枝の上で立ったり座ったり出来るのだ? どこを鍛えればそんなことができるのだろう。
「……ありがとうございます」
それでもお礼を言うと、ブルーナは両肩を掴まれながら、葉の観察をし始めた。肩を掴まれているので、手は使える。本を開きながら形の確認をする。
リスの巣穴の木は、葉の様子からマロニエであるのが分かった。長い葉柄の先に、卵形の小葉を、五から七枚ほど掌状につけている。独特の葉の形だ。樹木を見上げると、ブルーナの顔より大きな葉が幾つも見える。
「この木はマロニエだわ。この一つが一枚の葉ではなく、手のひらのようについている、これ全てで一枚の葉なのだわ……」
ブルーナが思わずその葉に手を伸ばそうとした、その時だった。
巣穴からリスが顔を覗かせたのだ。窪みに置いた木の実の匂いがリスにまで届いたのかもしれない。ブルーナの肩を掴むラディウスの手にも力が入った。




