51 約束のピクニック
その頃、ブルーナは穏やかな変わらない日々を過ごしていた。ラディウスに病気の事が知られてからも日常は変わる事なく、読書三昧の毎日である。ただ、この頃になると率先して散歩にも出るようになっていた。
きっかけは、ラディウスからの手紙だ。
「お嬢様、ラディウス殿下からお手紙が届きましたよ」
ブルーナが書庫のいつもの場所で本を読んでいるとエルダが手紙を持ってやってきた。ラディウスから届く手紙は、初めてのことだ。封筒を見詰めたまま戸惑っていると……。
「確かにお渡しいたしましたよ。私は少しご用がありますから後で参りますね」
そう言い残しエルダは去って行った。
ブルーナはしばらく手紙を見つけた後手紙の封を外した。開いた紙にはラディウスの整った文字が並んでいる。
——綺麗な文字を書くのね……。
以前見た資料をまとめたものとは違い読み易い文字が並んでいる。丁寧に書いてくれたのだろう。
手紙の内容は民衆十字軍の状況がブルーナの話した通りだった事と、必ずピクニックを実行しようという事が記されている。業務連絡のような文章の中に、ピクニックのことが書いてあるのが何だか可笑しい。
最近は忙しくしているようでラディウスがここに来ない日が増えていた。でも、こうして手紙が届くと細やかな喜びがある。やはり嬉しいものだ。
ラディウスにもアリシアにするように返事を書いても良いのだろうか? そう思うが、不意に側近の青年を思い出した。彼が手紙を受ける場合、ラディウスには届かないような気がする。ブルーナはそっと溜息をついた。
——返事は書かない方がいいわね……。
ラディウスはブルーナの病気の事を知ったからといって、別に態度が変わるわけでもなく、今までのように接してくれる。手紙の中のピクニックをしようという約束の文字、なぜかそれがとても嬉しい。
ブルーナは少し前からピエール医師に相談し、少しづつ体を動かすようになっている。これを続けると何かが変わるはずだ。体力は徐々についてきている。もう前のように倒れたくはない。ブルーナ自身も努力を始めていた。
* * * * *
数日過ぎたある日、ブルーナが朝食の後に散歩へ出ようと準備をしていると、エルダが急ぎ足でやって来た。
「お嬢様! ラディウス様がいらっしゃいました。今日はピクニックを実践しようと仰られています」
「……それはまた、突然ね」
「はい、時間が作れたのだそうで、フィアが食事の準備をして後で届けると言っておりますから、お嬢様も準備なさいますよね?」
エルダは窺いながらも「当然行きますよね」と言いたげな表情をしている。すぐにそれに返事をするのもしゃくな気がして、ブルーナは視線を逸らせた。
ラディウスが来た事がとても嬉しいのに、素直に嬉しいと表情に出すのはいけないと思うのだ。彼はエレーヌに会いに来ているのだから、自分に会うのはついででしかないのだから。
「ピクニックの仕切り直しでしょう? 私は良いけれど、エレーヌはどうなのかしら……」
「大喜びしていらっしゃいますよ。今度こそはお嬢様と行くのだと張り切っているそうでございます」
「そう……じゃあ、行くわ……」
「はい! では色々と準備をして参りますので、お待ち下さいね」
エルダは意気揚々と部屋を出て行った。どうせ散歩をするつもりだったのだ。すでに準備はできているのに……。そうも思うがブルーナは久しぶりのラディウスの訪問が嬉しかった。
民衆十字軍のことも聞きたいし、何より手紙に書いていた通り、ラディウスがピクニックを実現しようとしてくれている事がとても嬉しい。
ブルーナは急いで部屋を出ると書庫へ向かった。前からピクニックの時にはテオプラストスの『植物誌』を持参しようと思っていたのだ。樹木の分類の巻を持っていくか、草の分類にするか迷うところではあったものの、ブルーナは樹木の分類を選んだ。小動物のリスは一体何の木に巣穴を作ったのか知りたい。
ブルーナが『植物誌』を手に取った時、ラディウスが書庫へやってきた。
「久しぶりだな、ブルーナ。君との約束を早く実行したくてね。時間が取れたので来てしまったが、良かったかな?」
「御機嫌よう、殿下。でも、突然だなんて強引過ぎませんか?」
ブルーナはそう言いつつも顔がひとりでに綻ぶのを感じていた。
「まぁね、その自覚はあるが……今日は顔色も良さそうだ」
優しそうに笑うラディウスは心なしかホッとしたように見える。
「最近は体力をつけようと色々と試しているのですよ」
「ほう……一体何を?」
「普通の人からすると大したことではありません。でも……最近は散歩は欠かさず毎日行ってます」
自分の病気を知ってもラディウスは態度を変えなかった事実は、ブルーナに自信を持たせた。そして病気を隠さなくても良いと思うと知らず知らず気持ちが軽くなっている。
「そうか、それは凄いな……だが無理はするな」
ラディウスの優しい眼差しが揺れる。
「大丈夫です。お医者様に許可を得たんですもの。無理はせず、毎日少しづつの積み重ねが大事だと言われました」
ラディウスは深く頷いた。
「昔、私も同じような事を父に言われた事があったな」
「オルファ王にですか?」
「あぁ、私は剣の練習が嫌いでね。よく怠けていたのだ。ある時、庭先で父に『練習は何のためにするのか分かるか?』と言われてね。私は剣の腕が強くなるためにするのだと答えた。だがその時に『剣の腕ではない、剣を扱う心を強くするのだ』と返された。毎日の積み重ねが心と体を強くする……今思えば確かに当たり前のことなのだがな」
幼いラディウスを思ってブルーナは笑いを堪えた。でも、確かにそうなのだ。ブルーナ自身、歩く距離が伸びると同時に、自分の心に変化が生まれていると思う。心と身体は直結している。それは確かだと思えるのだ。
「エリウスがセロアから戻った……」
ブルーナを見ていたラディウスが不意に口を開いた。
「そうですか……」
「彼からの情報を君に少し話したいのだが」
彼は言葉を止めた。今話せば恐らく長くなる。そうなるとピクニックが出来ない。
「後で、時間が欲しい」
「分かりましたわ……私も聞きたかったのです」
二人は頷き合った。そのブルーナの笑顔が実に自然で、ラディウスは見入ってしまいそうになる。話題を変えようと彼はブルーナの手に視線を送った。
「君が手にしている、それは?」
「あぁ、テオプラストスの『植物誌』ですわ。今日は手紙にあったようにリスの巣穴を探すのでしょう? リスは何の木に巣を作ったのか知りたいと思ったのです」
「……見せてくれ」
ブルーナは素直にラディウスへ本を手渡した。ラディウスはパラリと本を開き中を見るとクスッと笑った。
「何ですか?」
「いや、ピクニックにも本を持っていくとは、君らしいと思ってね」
「おかしいでしょうか?」
「いいや。遊びからも学ぶのだな、君は……」
ラディウスが先程よりも優しい表情でブルーナを見ている。ブルーナはその優しい表情に落ち着かない気持ちになり視線を逸らせた。
「ラディウス殿下、ブルーナお嬢様、準備が整いました」
二人が語らう中、エルダが呼びに来た。ブルーナは幾分ホッとした。ラディウスの眼差しの奥に見える優しさが何故か辛いのだ。彼の態度にホッとしているのに、何故か辛い。この辛さが何なのか、自分ではよく分からない。
ブルーナの心を知ることなく、ラディウスがブルーナの手をとった。
「さぁ、行こう」
「……はい」
二人は玄関へ向かった。玄関ではエレーヌが既に待っていた。そして二人を見ると嬉しそうに駆けて来る。
「お兄様! お姉様!」
エレーヌは今日こそブルーナとピクニックが出来るのだと全身で喜びを表し意味もなく跳ね、そのままブルーナの膝に張り付いた。
「エレーヌお嬢様、さぁ、手を繋ぎましょう」
「私はお姉様とお兄様と手を繋ぐわ。ソフィーは後ろからついて来てね」
それからはエレーヌの侍女のソフィーがいくら手を取ろうとしてももう無理だった。
ラディウス、ブルーナ、エレーヌ、それからそれぞれの側近や侍女とルドヴィーグ伯爵家の庭番のコリンの総勢七名が敷地内の小さな森へと入って行った。
森は手入れがされており何も迷うことはない。小道を行くと花の咲き乱れる場所に出る。あたりには花の良い香り漂っているが、一行はそこを過ぎた。
森の道は整地されており、歩くのには何の心配もない。ブルーナとエレーヌに合わせラディウスはユックリと歩いている。
「着いたらまず、リスの巣穴探しだな……エレーヌはリスを見たいのだろう?」
「そうよ、お兄様。今日は木の実もたくさん持ってきたの。リスにあげるの」
「きっとリスは大喜びするわね」
ブルーナも遠くの枝にいるリスは見た事があったが、それまで巣穴を見たことはなかった。少しワクワクしている自分に気付き、何だかおかしくなる。
散歩とはまた違い、こうして話しながら歩くのも良いものだ。アリシアとのナリア湖へ行った事を思い出しながら、ブルーナは目的地へと足を運んだ。
ラディウスは歩きながらも頻繁にブルーナの様子を窺った。もし何か異変があれば、すぐに対応しようと思っていたのだが、この日のブルーナは楽しそうに周りを眺めながら歩いている。
視線を下ろせばエレーヌが無邪気に笑う。その笑顔に後ろめたさを感じるが、今日は全てを忘れ楽しもうと思っていた。
しばらく行くと少し開けた場所に着いた。大きな岩の向こうから穏やかな水の流れる音がする。
「この岩の裏に小さな小川が流れているので、遊んだ後、そちらで手を洗えますよ」
コリンはデュランを連れて裏手の小川の場所を教えた。
「ピクニックをするにはこちらが適当だと思うのです。あの小川の水でお茶を沸かす事もできますし、食器も洗えます」
従者達は納得しそこに敷物を敷くと、食事の準備を始めるようだ。それを横目で見ながらラディウスはブルーナとエレーヌに声をかけた。
「この近くにリスの巣穴の大きな木があったはずなのだ。少し探してみよう」
「はい、お兄様」
ラディウスはそのままブルーナに視線を送った。
「どうだ? ブルーナ。疲れていないのであれば、行ってみないか?」
ラディウスは伺いながら微笑んでいる。その柔らかな表情は今まで見た中でも極上のものだった。ラディウスも、今この時をリラックスしているのだろう。
「そうですね……」
「食事の準備にはまだかかると思うぞ。実際、料理人がまだきていないだろう?」
確かに料理番のフィアはまだ来ない。恐らく家に居る両親や従者達の昼食の準備をしてからこちらへ向かうのだろう。そう思いながらブルーナは小さく笑った。
「えぇ、行きましょう。リスの巣穴は私も見たいですもの」
ブルーナは持ってきていた荷物の中から『植物誌』を取り出しそれを持った。
「本は私が持とう」
テオプラストスの『植物史』はラディウスの手に渡った。後ろを見るとエレーヌは跳ねるように二人について歩き、デュランがその様子に気を使いつつ守るように続いている。
穏やかな昼間近、ラディウスの思い出の樹木を探しブルーナは歩き始めた。




