50 王城にて
エリウスがセロアの街へ出発した数日後、ラディウスの元にエリウスからの報告書が届いた。それには民衆十字軍がセロアに到着したと言う知らせと、先導者からの情報が書かれてあった。
「やはりそうだったか……」
十万人の民衆十字軍の数は嘘だったのだ。そして先導者であるピエール修道士の詳しい内情は興味深い。
「何がそうだったのですか?」
カミルがお茶をラディウスの前に置いた。
「いや、色々と情報が錯綜しているのだ。その情報の一つが現状と一致した……」
そう言いながら、ラディウスはお茶のカップを口に運ぶ。
カミルがブルーナにした仕打ちのせいか、あれ以降ラディウスがカミルの前でブルーナのことを口にするのはなくなっていた。
カミルはブルーナへの仕打ちから、一度、執務室付きの側近に落とされた。が、彼でなければわからないことが多過ぎて、結局ラディウスの世話へと戻された。
カミルにとっては何より嬉しい出来事で、一層ラディウスの身の周りの事に気を使うようになっていた。痒い所に手が届くだけではなく、その一手前を先に読む。その能力もカミルは持ち合わせている。
後ろに控えているカミルを気にする事なく、ラディウスは考え込んだ。
——ブルーナの読んだ通りだったか……先導者自身が数を多めに言っていたとはな。
セロアの街の報告書に目を落としながら、ラディウスはお茶を飲んだ。しかし、飲んでいるお茶に物足りなさを感じる。カミルのお茶はいつもと変わりないはずなのだが……
「……カミル、木苺の砂糖漬けを持って来てくれぬか?」
「木苺? そのようなものお好きでしたか?」
「いや、ある所でお茶に入れているのを飲んだのだ。それが殊の外美味かった」
「……そうですか……少々お待ちください」
カミルの表情が少しムッとしたように変化したが、ラディウスはそれに気付かなかった。
カミルはその場を離れ、お茶を入れる小部屋には行かず、部屋を出て行った。城の台所へ行かなければ木苺の砂糖漬けなど置いてはいない。ラディウスが甘いものを好まなかったからだ。
廊下を進みながら、あれはきっとルドヴィーグ家のブルーナのせいに違いないと読んでいた。それまで甘いものを口にしなかったラディウスが、突如として木苺の砂糖漬けを好むようになるとは考えにくい。
——どこまでも邪魔な奴……。
苛々とした感情を隠しながらカミルは台所へと向かった。
「カミル殿!」
途中、声をかけられ振り向くと、そこにはエストル卿が立っていた。彼は会議の度に十字軍を出すのは間違いだと進言するため、最近は会議に呼ばれなくなっている。恐らく、今日の会議にも呼ばれてはいないのだろう。
「これはエストル卿、ご機嫌よう」
「あぁ、ご機嫌よう。あのラディウス殿下は執務室におられるのでしょうか?」
「えぇ、朝から仕事で忙しくしておりますよ。私は殿下のお茶の手配で少し外しましたが……あのままでは、殿下はお倒れになるのでないかと心配です」
カミルは先手を打った。ラディウスが忙しいことを強調され、エストル卿はあからさまに肩を落とした。
「……何かございましたか?」
「いいえ……確かに殿下はいつもお忙しい。ですが、私の意見も聞いていただきたいのです。どうにかお時間をいただけないかと……」
「……誠に申し訳ないのですが、私の判断では何とも言えません。ただでさえ殿下には休んでいただきたいですから……」
「そうですか……あ、いや、そうですね……」
エストル卿は力なく佇んでいる。
「では、私はこれで……」
「あぁ、お邪魔致しました」
「いいえ、失礼いたします」
エステル卿をそこに残したまま、カミルは踵を返した。心の中では「誰がお前なんかを殿下に会わせるものか」と思いながら……。
* * *
「デュラン、今日の予定はどうなっている?」
カミルが部屋を出た後、ラディウスはしばらく考えていた。
「はい、今日はこの後、エリウス様の報告書についての会談があります」
「その後は?」
「……各々の方々との話し合いですね」
「抜けられぬな……」
ラディウスは溜息をついた。彼はブルーナに会いに行きたいのだ。この報告書を彼女に知らせたい気持ちと、純粋に彼女に会いたい気持ちが交差する。
今、この状況では前のように、週に一度ルドヴィーグ伯爵家を訪れる事は出来ない。
——ブルーナが傍にいてくれたら……。
会えない時間は愛しい気持ちを募らせる。だが現状は傍に居たとしても愛を囁く訳にはいかないのだが。
「手紙を書く。ルドヴィーグ家に届けてくれ……」
「承知しました」
手紙には自分の気持ちをかける訳もなく、エリウスからの報告書の中で、誰が読んでも良い部分だけを書いた。それから考え、時間ができたらピクニックの計画を実現しようとの提案を書き足した。
これを読んだブルーナは困った顔で笑うだろうか? それとも喜ぶだろうか? 手紙の中にラディウスの隠れた気持ちを読み取る事は、流石のブルーナでも出来ないだろう。愛しい気持ちを抑えつつ、ラディウスは手紙に封をした。
* * *
それから数日後の七月に入ってから、エリウスは王城へ戻ってきた。民衆十字軍はセロアの街には何の被害ももたらす事はなく、長い列の最後尾の者達も全て東へ向けて旅立って行った。
ルガリアードの最悪の状況は、小麦粉が少し手に入りにくくなったことだけで解消された。その小麦も、秋になれば収穫され元に戻るだろう。
一滴の血も流さずに民衆十字軍の出来事にかたを付けたことで、エリウスの評判は一気に上がった。
王都へ戻った日の夜、エリウスは颯爽とラディウスの部屋ってきた。
「兄上、お話があります」
エリウスが部屋を訪れると、ラディウスはまだ仕事中だった。
「エリウス、戻ったか。今回の働き見事だったぞ」
「私の力というより神の力ですよ」
エリウスはニヤリと笑いながらラディウスの側の椅子に座った。
「早速ですが教えていただきたいことがあります。兄上の手紙の中に、確認してもいないのに十字軍の人数が半分位ではないかと書いてありましたが、どうやってその答えに辿り着いたのですか?」
ラディウスは書類から目を離しエリウスを見た。
「流石だな、エリウス。ちゃんとそこに気がついたのか。確かにあれは、私の考えではない。助言をもらったのだ」
「ほう……それはいったい誰に?」
「私の助言者だ。簡単に身を明かすわけはなかろう」
「しかし……もしよろしければその者をお借りできませんか? 出来れば十字軍の遠征へ連れて行きたい。離れた場所で現状を見ていないのにそこに気がつくとは大した者だ。是非とも借り受けたいのですが」
ラディウスの表情から笑みが消えた。
「それは出来ぬ。戦場に連れて行くなど以ての外だ」
「なぜです?」
一瞬躊躇したラディウスは書類に視線を戻した。
「……詳しく話す気はない」
「十字軍の遠征にその者がいてくれたら、きっと利が多いと思うのです。お願いします兄上、その者に合わせてください。直接話がしたい」
顔を上げたラディウスの表情に怒りのようなものが現れた。
「諄い。私は会わせることはできないと言っている」
その変化にエリウスが黙っているとラディウスは少し表情を和らげた。
「私はもう少し執務がある。お前はもう部屋へ戻れ。今回のことは本当によくやってくれた。私はお前を誇りに思う」
これ以上兄の気分を害するわけにはいかないと素直にエリウスは部屋を出た。
部屋の外にはこちらへ来るカミルの姿があった。彼はニコニコと愛想の良い表情を浮かべていた。
「ごきげんよう、エリウス様。無事のお戻り何よりです」
「あぁ、カミル……少し聞きたい事があるのだが。良いか?」
「あ、はい……何でしょうか?」
エリウスは廊下の端へカミルを連れて行くと、彼の瞳を覗き込むように見下ろした。
「兄上の助言者の事だが、お前は誰であるのか知らないか?」
その途端カミルは眉間に皺を寄せ口を引き結んだ。
「よく知っている訳ではありませんが……恐らくあの者だろうという人物はいます」
「誰なのだ?」
「ラディウス殿下に近付こうとする者の一人ですよ。私はあの女が嫌いですね。少し賢いと言っても、それが何だというのか。私が殿下のお側には近寄らせませんよ」
カミルの答えに、エリウスは助言者を戦場へは連れていけない意味を理解した。
「成程……女性だったか……」
カミルの顔は忌々しげに歪んでいる。彼がここまで嫌うという事は、兄は相当その者に入れ込んでいるのだろう。
「婚約者殿とは違うのか?」
「婚約者? 違いますよ。婚約者がいるのを知っているにも関わらず近寄ってくるるような女です」
「住んでいる場所は知らぬか?」
途端にカミルは口を閉じた。
「知りません」
嫉妬深いとしても、カミルは忠実なラディウスの側近である。そう簡単には話すはずもない。だが、エリウスは大きな収穫を得たとも言えた。助言者は女性だったのだ。ラディウスは自身の婚約者の事もいまだに公表はしていない。最近ルドヴィーグ伯爵家に足繁く通っているのは周知の事実だが……。
——兄上はその女性とどこで知り合ったのだろう。
興味は尽きないが、それ以上の情報を得るのは難しいと思うとエリウスはカミルに微笑んで見せた。
「教えてくれて感謝する……」
「いいえ、では、私はこれで。失礼いたします」
去っていくカミルの後ろ姿を見送りながらエリウスは考えた。
エリウスが兄のところを訪れた時、兄は幾度となく留守がちだった。その時に側近の一人がルドヴィーグ伯爵家へ行っていると言っていたのを思い出した。
恐らくその人物はルドヴィーグ伯爵家の誰かなのだろうと推測できる。
会ってみたいが、エリウスにはルドヴィーグ伯爵との接点がない。彼はオルファ王と兄に近い政権を左右する文官だ。突然自分が近付いたとして、彼には警戒心しか湧かないだろう。頭の良い人だと聞く、何もかもを話すとは思えない。
——しばらく様子を見るしかない所だが……私には遠征がある。時間がないな……
エリウスの中には純粋な好奇心があった。あの兄をその女性は夢中にさせているのだ。先程のラディウスの目、あれは覚悟のある目だ。
「女性だったとはな……遠征には連れてはゆけぬか……」
エリウスは思案しながらも溜息を吐くしかなかった。




