5 アリシアとの出会い
部屋の中は静まり返った。衛兵を呼ぶとなると簡単には片づけられなくなる。誰もがどうすればいいのかわからず、犯人扱いされても毅然としていた女性までも青くなった。
力でねじ伏せるローズのやり方にブルーナは吐き気を覚えながらゆらりと立ち上がった。
「少し待ってくださいませんか?」
ブルーナの声に今度は部屋中の目が一斉にブルーナに注がれる。
「この方が貴女の物を取ったという根拠は?」
冷静なブルーナの声に少し怒りのトーンが落ちたローズが狼狽た。
「だ……だって、わたくしの近くにはその方しか居ませんでしたわ」
「私は証拠を出してくださいと言っています。状況を言ってくださいとは言っていません」
ローズは更に狼狽た。多分、今まで反論を受けた事がないのだろう。
「彼女は今この部屋に入って来たのです。鏡の前を陣取って動かない貴女を回避するためにこちらへ回って来ました。それはこの部屋にいる数人の者が同時に見ています。その間に取ったと言うのですか?」
ブルーナは静かな目をローズに向けた。ブルーナの物言いは明瞭で反論の余地がない。
「もう一度言います。この方が貴女のブローチを取ったという証拠を出してください」
狼狽たままのローズは少し俯いた。だがすぐに顔を上げた。
「知らないわ……でも、それしか考えられないじゃない! その人が取ったのではないなら誰が取ったの?」
ローズは部屋にいた者達を見回した。
その場に居合わせた者達はお互いの顔を見ながら自分に疑いが掛かるのを避けるように視線を落とす。
「取るという考えしかない貴女って……少し発想が貧弱ね……」
ブルーナの言葉にローズの顔が怒りで高揚した。
「何度でも言うけれど、鏡を見ていた時にはちゃんとあったわ!」
ローズはそう言うと、鏡を叩いた。
「髪と服装を整えて、気が付いたらブローチが無くなっていたのよ! 誰かが取ったのでなければ、なぜブローチが無くなるの?! そして、その時近くに居たのはその方よ! その方以外の誰もブローチに手は届かないわ!」
ローズは捲し立てた。そのせいで言葉が少し乱れている。
「これだけでも根拠としては十分でしょう!」
そして犯人に仕立て上げられ、驚いている女性に向かって半ば叫んだ。
「そこの貴女! いい加減お祖母様から頂いた大切なブローチを返してくださらないかしら!」
自信に満ち、自分の意見が全て正しいと思っている傲慢な人間の姿がそこにあった。きっと彼女は蝶よ花よと育てられ、我儘を通し、他人に対する思いやりや謙虚な心など教わらずに来たのだろう。ブルーナはうんざりした視線をローズに送った。
ブルーナはローズを見つめ静かに口を開いた。
「貴女の話を聞いていると……この方が貴女の胸元からブローチを取ったと聞こえるわ、そんなことが出来る人は居るかしら? 鏡を見ている人物の胸元から盗むなんて……魔法使いや怪盗ではあるまいし、無理に決まっているでしょう? それより貴女の発想が問題だと思うわ。自分以外の全ての人が盗人だと思っているのかしら? 貴女のブローチはさぞかし高貴で美しいものなのでしょうね。でも、それを見た全ての人がそのブローチを欲しがると思うなんて、少し傲慢ではない?」
「何ですって! お祖母様の形見の高価なブローチを!」
「現に私は貴女のブローチなんて目に入っていないわ、そうね……世界最古の書物が目の前にあれば欲しいと思うかもしれないけれど、申し訳ないけれどブローチ程度では私は欲しいとは思わない」
「ブローチ程度ですって?……」
ローズは怒りで酷い形相になっていた。
「酷い顔……そのまま広間に戻れば殿方が近寄るのを止めるでしょうね……確かに貴女の造りは綺麗かもしれないけれど……そのせいで貴女のように傲慢な人間に成るくらいなら、私は池のイボガエルになった方がよっぽどマシだわ」
ついブルーナは言ってしまったが、ブルーナの言葉は聞いている者達を黙らせた。
「イ、イボガエル?……」
ローズの顔がさらに高揚した。
「あなたも許さないわよ!」
「どうぞ……ご勝手に」
ローズは自分が今まで一方的に攻め立てていたブルーナの後ろに立つ女性を指差し、反論しようと口を開いたが、興奮しすぎて言葉が続かなかった。正当な意見の前では思い込みの意見などなんの効果もない。
悔しそうに口籠り、睨みつけるローズに冷ややかな視線を送り、ブルーナは佇んでいた。
しかし、この時ブルーナはただ冷視を浴びせかけていたわけではなかった。ギュッと奥歯を噛み締め、襲い来る苦痛に耐える準備をしていた。極度の興奮のため、胸の痛みが始まりかけていたのだ。
——こんな状態で倒れたりしたら……一生この人に笑われ続けるわ……。
ブルーナは冷静を装いながら冷や汗が首筋を落ちていくのを感じていた。今はこの不毛な時間が早く過ぎてくれる事を願うしかない。
胸の痛みが徐々に強くなっていく。座る事が出来れば少しは楽になるのに……。そっとポケットを触ると薬のケースの硬い感触があった。
具合の悪さを微塵も見せず気迫で耐えながら、握りしめた手が振るえそうになり力が入った。
その時だった。ブルーナが庇った女性が握りしめている手をそっと包んだのだ。ブルーナが横を見ると彼女は青く美しい瞳で真剣にブルーナを見ていた。瞬間的に、この人は自分の味方だと感じた。
「……覚えていらして! 私はあなたを決して許さないわ!」
ローズはそう捨て台詞を吐くと、上手にドレスの裾をさばき踵を返した。実に優雅に、実に颯爽と……。そして踵を返した瞬間、その裾に光るものがあった。
「あらまぁ……」
女性が声を上げた。
「ねぇ、貴女、待ってくださる?」
出て行きかけたローズに声を掛けると、彼女はブルーナの手をギュッと握り一歩前に出た。そして振り返ったローズににっこりと笑いかけると口を開いた。
「貴女は人を疑うより、先ずご自分の足元を確認された方がいいわ」
「何を言っているの?」
怒りで形相の変わったローズは女性の言う意味がわからず、苛々とした様子で睨みつけている。
「ドレスの後ろの裾のあたりに、貴女が探しているものがくっついているみたいですわ。キラキラ光るもの。それが貴女の仰る物ではなくて?」
彼女の言葉にローズは後ろの裾を見ると、そこに探していた美しいブローチが引っかかっていた。
「あ……」
「これで私の疑いは晴れたかしら?」
彼女は優しげに微笑んだ。
「大切な物が見えなくなって不安になる気持ちはとても良くわかるわ……でも、先に自分の間違いを認めなければ成長できませんのよ。貴女は私を泥棒扱いしたでしょう? 謝ってくださる? 素直になるのは大切な事ですわ。ね?」
ローズは彼女の言葉に真っ赤になって、急いでドレスの裾のブローチを外すと、手に持ったまま部屋を出て行った。
「あら……謝りやすいように場を作って差し上げたのに……妹達の時は上手くいったんですけれど、駄目でしたわね……」
ローズが出て行くと、一気にホッとした空気が部屋を覆った。今まで、遠巻きに見ていた者達が 目配せをしながら近寄って来た。
「……大変でしたわね」
「あの方、いつもご自分が一番だと思っていらっしゃるのよ」
「そうそう、性格の悪さは一番ですけれどね」
「あら、貴女そんなこと言わない方が身のためよ」
ローズが消えた途端に、控室のお嬢さん達は彼女の悪口を言い始めた。胸の痛みを我慢していたブルーナは、その状況が腹立たしく思えてく仕方なかった。
「……うんざりだわ……」
ブルーナは小さな声でそう言った。この状況も、舞踏会も何もかもうんざりだ。
「え? なぁに?」
ブルーナの声が聞こえなかった者達は、自分たちの言う悪口にブルーナも乗って来たのだと勘違いし、嬉々とした表情で聞き返した。
その途端、ブルーナの手を握っていた女性が口を開いた。
「ねぇ、皆様、もう直ぐラディウス殿下とディオニシス王子がもう一度広間に出られるらしいの。早く大広間に出た方がよろしくなくて?」
その一言でそこに居た者達は慌てて外へ出て行った。
「もう大丈夫……長椅子まで歩ける?」
彼女はブルーナの手を握り締め肩を貸しながら長椅子まで行くとユックリと腰を下ろさせた。
「ありがとう……もう一つお願いして良いかしら……」
「えぇ良いわ、何?」
「水が欲しいの……」
ブルーナはエルダの作ってくれたポケットから薬ケースを出した。
「待ってて、すぐにお持ちするわ」
彼女は隅に置いていた水差しからコップに水を入れ直ぐに戻ってくると、ブルーナが薬を口に入れるのを確認して水を渡した。
ブルーナは大きく息を吐いた。これでしばらくすれば痛みが引いてくるはずだ。ホッとしたのと同時に彼女を見た。
「貴女も大広間へ戻って……」
しかし彼女はニッコリ笑うだけだった。
「貴女は少し横になった方がいいわ。私の膝を貸してあげるわ」
そうして端に引いていたカーテンを引き直し、長椅子に座ると自分の膝を叩き、ブルーナに横になるよう促した。
「そんな事……ドレスが皺になってしまうわ」
「いいのよ。ほら、横になって……」
彼女はブルーナの肩を倒すと自分の膝に頭を乗せさせた。
「悪いわ……」
「気にしないで。私が好きでやっている事だから……妹達にもよくこうしてあげるのよ。それより、ありがとう……他の人はみんな遠巻きに見ていたけど、貴女だけが味方になってくれたわね……」
「……あれは、一方的に……人の話も聞かず、決めつける、あの、方に、腹が立っただけ……」
痛みに言葉が途切れ途切れになるブルーナの肩に、彼女は暖かな手を置いた。
「本当にありがとう……でももう話さない方が良いわ、少し目を閉じなさいな」
素直な言葉にブルーナの心も暖かみを感じ微笑んだ。
「自己紹介をするわね。私はアリシア・フィリス・ドゥール・パルストです」
「力になれてよかった……私はブルーナ・レティス・ド・ルドヴィーグよ」
アリシアはブルーナに笑いかけた。その微笑みは心地好く暖かで、エレーヌの様な朗らかさを感じる。
「治るまで……少し、ごめんなさい」
ブルーナは素直に目を閉じた。