47 お見舞いの鈴蘭
エリウスは数日後、北部の町セロアへ向かって出発した。
それぞれの街では毎日大量のパンが作られ、セロアへひっきりなしに運ばれている。それでも十万人の信者達の糧にはならないだろう。だが、エリウスには成功させる術があった。彼は神の力を信じている。それは信者たちも同じなのだ。
一方、ブルーナはラディウスの前で倒れてから二日間はベッドの中だった。
窓辺に揺れる木洩れ陽を見つめながら、ブルーナは冴えない表情のまま小さくため息をついた。一昨日の発作から、身体は幾分楽になっていたが、憂鬱な想いが心を支配していた。
ブルーナは自分の心に広がるもどかしさをどうして良いのかわからなかった。ずっと、自分の病の事は、ラディウスに知られてはいけないとひた隠しに隠していたのだ。もし、知られてしまったら……最大の恐れはエレーヌの事だ。姉である自分が病だと知れたら、王家側が婚約を解消する事も考えられる。
それなのに、事もあろうにラディウスの目の前で倒れてしまうとは……。もしもエレーヌの幸せを奪うような事になってしまったら、自分はどうすればいいのだろう。
あの出来事はブルーナの心を足枷となって支配していた。読みかけの本も、今は活字を見る気にならず、サイドテーブルの上に置かれたままだ。
「お嬢様、そろそろお食事の準備を致しましょうか?」
エルダが穏やかな笑みを讃えながら部屋へ入って来た。
「食事……」
恐らく今喉を通るものはスープくらいだろう。
「あまり欲しく無い……」
エルダは少し微笑んだ。
「スープだけでもいかがですか? フィアがとびきり美味しいスープを作ったようですよ」
ブルーナは溜息をついた。
「フィアのスープは好きだけれど……今は、要らないわ」
だが急にエルダは顔を顰めた。
「お嬢様。食べないと元気になりませんよ。元気にならないとエレーヌ様ともお会いできず、書庫にも行けません。それで良いのですか?」
「……」
黙るブルーナにエルダは続けて言った。
「……お嬢様がお倒れになった日……ラディウス殿下が仰られたのです。良い医者を探すと……あの方はお嬢様の病気のことが分かっても、変わりはないのではないでしょうか?」
ブルーナはエルダを見た。
「何をご心配しているのか……想像はつきます。あの方はお嬢様の病気を持ち出し不利になるような事はされないと思います。お嬢様とは友人なのですから……友という存在は困る事はなされないでしょう?」
ブルーナは微かに笑い俯いた。ブルーナが何に怯えているのか、エルダにだって分かっている事だ。開き直るのが一番なのかもしれない。心配をしてもそれは自分の中だけの事。実際にラディウスが言ったわけではないのだ。
「えぇ……そうね……」
ブルーナは力なく笑った。
「では、少しでいいので食べてくださいね。今お持ちしますから」
エルダは部屋を出て行った。考えても仕方がない事は考えない方がいい。時間の無駄なのだから……。今までの自分ならそうして切り替えていただろう。自分のことだけなら今までのように諦めればいい。だが今回はエレーヌの幸せに関わる事である。切り離して考えないようにできるはずもなかった。
しばらくして、エルダが食事を持ってきた。トレーの上には野菜をすりつぶしたオレンジ色のトロリとしたスープと小さなパン、そして果物と茹でた卵を綺麗に切って葉野菜の上に乗せたものがあった。フィアが心ばかりに食欲をそそるよう色合いを考えてくれたのだ。
「実は今、パンを作る小麦が手に入りにくくなっていますので、小さめのパンをご用意いたしました」
ブルーナはエルダを見た。
「……何故、小麦が手に入りにくくなっているの?」
「よくわからないのですが、街のパン屋や料理人は大量のパンを作って城へ届けているそうです」
エルダの答えにはさらに疑問が残った。
——城でパンが必要? どう言う事なのかしら? しかも小麦が手に入らない程とは、何かが起こったのだわ。
瞬時にそう考えながら、ブルーナはスプーンを手に取った。スープを掬い口へ運ぶと美味しそうな香りがしている。一口飲んでブルーナは笑った。
「食べる前は欲しくないと思っていたのに……不思議ね。口にした途端、お腹が空いている事に気づいたわ」
エルダはホッとしたようで微笑んだ。
「スープは沢山あります。おかわりもして良いですよ」
ふふっと笑った後、ブルーナはスープを飲み始め、全て飲んでしまった。それから卵にも手を出し、野菜も綺麗に食べ、最後にゆっくりと小さなパンを食べた。
「街の人たちの食べるパンはあるのかしら?」
「はい、その辺りは府令でちゃんとされているようです」
「そう……」
全てを食べ終え、ブルーナはベッドの上で少し胃の辺りを摩った。
「暫くゆっくりされて下さいね。本はどうしますか? こちらに置いておきましょうか?」
「えぇ、お願い」
サイドテーブルに本を置くとエルダはトレーを持って出て行った。
一人になったブルーナは先ほどの小麦のことを考えた。少しだけ俯き加減に手を軽く握った手の人差し指を唇にあて、じっと考える。
パンを大量にとはどういう事だろう。それだけパンが必要になるとは、人もしくは動物が沢山いる事になるということではないか? この国にはそれ相応に物は流通していたはずだ。国の民の人数はそう変化はないだろう。
——という事は……。
ブルーナは顔を上げた。大量の人、もしくは動物がきたという事だろうか? 十字軍の遠征には後二ヶ月の猶予がある。十字軍ではないとすれば、他に何があるのか……。
ブルーナはそのまま窓の外を見た。ラディウスが来れば、状況を知ることができるのだろうか?
ふとそんなことを思っていると、扉が叩かれた。
「あの……お嬢様、ラディウス様がおいでなのですが……お会いになりますか?」
エルダが神妙な顔でお伺いを立てた。ラディウスが来た。という事はきっと何か知らせがあるはず。だが、会うのは躊躇われる。
「今日はお会い出来ないとお伝えして来ますね」
「……いいえ、会うわ」
ブルーナは知らぬうちに返事をしてしまった。言った後、ハッとしたがエルダは柔らかく笑っている。
「こちらにきていただきますね」
思わずブルーナはベッドから出ようとした。それをエルダに止められ、またベッドに座り直す。
「でもエルダ。ここに来ていただくのは失礼ではないかしら?」
「いいえ、ラディウス様がそう仰ったのです」
「…………」
ラディウスの前で倒れたのだそれは仕方のない事だ。ラディウスは小麦のことか自分のことか、どちらの理由でここへ来たのだろう……。一瞬緊張が走ったが、ブルーナは黙ったまま彼を待った。
ラディウスが部屋に現れた時、ブルーナは何も言えずただ見つめるしかなかった。目の前の彼は代わりのない雰囲気で笑っている。
「元気そうだな……」
ラディウスはそのままテーブルの上に鈴蘭の鉢植えを置いた。花はもう無いが、青々とした涼やかな葉がスッと伸びている。
「見舞いだ」
ラディウスの一言にブルーナは目を瞬いた。
「あ……はい、ありがとうございます」
ラディウスは近くにあった椅子を引き寄せそれに座った。
二人はぎこちない空気の中、視線を合わせた。何を言って良いのかわからなかったが、ラディウスが口を開いた。
「今日の私の裏参謀殿の機嫌は良さそうだな……」
「裏参謀? ですか?」
「あぁ、君は私の裏の参謀だろう?」
「何を勝手なことを言っているのです? 私はそんなものになった覚えはありません」
「そうだったかな?」
「えぇ、そうです」
二人はどちらかともなく笑い出した。
「安心した。本当に元気そうだ」
「……ご心配を、おかけしました」
「いや、あぁ……心配はしたが、大丈夫だろうとも思っていた」
ラディウスはピエール老医師から聞いた事は微塵も出さず、知らぬふりをした。ブルーナはピエール老医師とラディウスが知り合いである事は知らないのだ。それなら最大限にそれを利用しようとラディウスは考えていた。
「この鈴蘭だが……城の一画に咲いていた物だ、私が掘り起こした。枯らすなよ」
ラディウスはテーブルの鈴蘭を指差した。
「……殿下がご自分で掘り起こしたのですか?」
「あぁ、そうだ」
「…………」
ブルーナは目を丸くしたままラディウスを見ている。
「……何だ? 何かおかしいか?」
「いえ、私はそういう事をしたことがないので、少し驚いただけです」
「土いじりは意外と面白いぞ。では今度、鈴蘭を地面に植える時には共にやるか?」
「良いのですか? ではエレーヌも共にやりましょう」
「……あぁ、そうだな」
ラディウスは一瞬返事に間ができてしまったが、ブルーナはそれに気づいてはいないようだった。
「ひとつ、耳に入れておきたい事がある。裏参謀として知っておいて欲しい」
「その裏参謀という表現はやめて下さいませんか? 何か悪いことをする人のようで嫌です」
「では裏は取ろう。参謀で良いか?」
ブルーナは眉間に皺を寄せた。
「それはそれで、嫌ですけれど……」
「眉間の皺はやめておけ……」
すかさずラディウスが言う。
「もう……何でも良いです」
少しブルーナが拗ねたようにラディウスを睨んだ。
ラディウスはこのひと時が心から楽しいと思った。こうしてブルーナと話すのはとても楽しい。そして愛おしいと。
「では参謀殿。実は現在、民衆十字軍が北フランスで発祥し、東へ向けて移動している」
「民衆十字軍? いったいそれはなんですか?」
「十字軍に賛同した市民が起こした運動だ。思い思いに武器を持ちエルサレムを目指しているという」
「ではパンというのは……」
「あぁ、聞いていたか? そう、エリウスの案によりパンを配る事にした。それだけでこの国に入らず素通りするとは思えないのだが、エリウスには何か案があるようだ」
ブルーナは納得したように何度も頷いた。
「はじめ小麦が手に入りにくくなっていると聞いた時は、不作を思ったのですが、去年は豊作でしたから、何か別な理由があるのでは無いかと思っていました」
「うむ……」
「ではエリウス様は北へ行かれたのですか?」
「あぁ、セロアの街の門が一番近いと言うので、今朝、そちらへ向かった所だ」
ブルーナは頷く。
「市民の数はわかっているのですか?」
「大凡ではあるが十万は下らぬだろうと……」
「……それは……どなたが仰られたのですか?」
ブルーナは十万人と聞いて驚きもせず口を開いた。
「……オルガード侯爵だが……何かあるのか?」
「いいえ、憶測ですが……北フランスからこのルガリアードまでの、街道にある国々で集まる者達が十万というのは、多すぎると感じただけです。それぞれの国の者達が集まるとして、十万人にはなっていないと思います。恐らく、多く見積もって半分の五万という所ではないでしょうか?」
ラディウスはジッとブルーナを見つめた。
「なぜそう思う?」
「十万という人数は一つの国で数千人規模の人員が出国するのですよ。それをそれぞれの領主が見過ごすと思いますか? ただでさえ正規の十字軍を募っているというのに、働き手や農夫がいなくなると成り立たなくなるではないですか」
ラディウスは考え込んだ。
「オルガード侯爵は元々十字軍の兵の数を増やすように何度も行ってきていた。少し多く言うことで出兵数を増やそうと考えたのか?」
「それは分かりませんが、多すぎるとは思います。ここからエルサレムまではまだまだ道のりがあるのです。最終的にその人数になるのであれば分かりますが、フランスからここまででその人数は少しおかしいと思います」
いつもながらブルーナは見事だ。ベッドの中にいながら人数が十万人は多すぎると言う。
「では小麦は……」
「パンを焼くのも後数日で十分ではないでしょうか? 何も腐るほど作る必要はないと思います」
ラディウスはブルーナを見つめた。抱きしめたくなる気持ちがその奥にあったが、それはあえて無視をする。
「見事だ、ブルーナ……やはり私の側に来ないか?」
「やめておきます」
「何故だ? 悪いようにはせぬぞ」
「家にいる方が自由ですから……」
言いながらブルーナはほっと胸を撫で下ろしていた。自分の病気のことを知ったとしてもラディウスの態度は変わらない。エレーヌの婚約の取り消しにはならないだろう。今更ながら、ラディウスの人間性を好きだと思う。
——この方は、何があっても動じないのだわ……。
ラディウスの態度はブルーナを安心させた。ブルーナは心から安心した笑顔をラディウスに向けた。
ラディウスはブルーナの笑顔を受け、自分の中に、なお一層の想いが溢れるのを抑えていた。ブルーナをずっと見ていたい。だが、心に芽生えた愛情をブルーナに知られてはいけない。
ラディウスは、自分の言った冗談に卒なく応えるブルーナを笑いながら、彼女とのこの時間を何より大切だと感じていた。お互いに何かと言い合いながら、ラディウスもブルーナもよく笑った。
この日の二人は話が尽きる事は無かった。
病の床でもブルーナの頭は冴えています。




