46 目指す場所
城に戻ったラディウスはブルーナの事が頭を離れなかった。
彼女に目標を与え、体力を付けさせる……。それは何よりも無謀な事だと思えた。
自分自身を否定して生きている者に、何を言えば分かってもらえるのか。相手はあのブルーナだ。その方法がまるで見当つかない。
カルロス老医師の言った。『体力を付ける事と目標を持つ事』そのどちらもブルーナに強要するのは困難を極めるだろう。彼女は自立した強い意志を持つ女性だ。他人の言葉に簡単に従うとは到底思えない。
ラディウスは大きな溜息をついた。
エレーヌと婚約する前、自分が想い描いていたのは、心から愛しいと思える人との穏やかな日常だった。宮殿の中では権力がものを言う。そのような権力にも揺るがない、父オルファ王と母エマ王妃の関係性のような愛情が欲しかった。
エレーヌがまだ年端のいかない子供だと知った時、自分の思惑が壊れていった。せめて後五年程成長してくれていたら……。しかし、エレーヌと会った時、あまりの純真さと可愛らしさに、愛情を育てていけばいい、そうすれば自分の理想を現実に出来る、そう思った。
——私は愚かだ……。
ラディウスは自分の想いだけに捉われ、周りが見えていなかった事に気付いた。
ルドヴィーグ伯爵を筆頭に周りの人々を巻き込み、己の願いを押し通そうとした。その結果がこれだ。ラディウスは己の未熟さが産んだ代償を、受け止めるしかなかった。
もしも、エレーヌとの婚約を破棄したとすれば、ブルーナがラディウスの行動を許すはずはない。例えどんな理由だとしても、ブルーナと会う事が出来なくなるようなら、このままでいた方がずっとましだと思えた。
——そうだ、少しでも長く、少しでも心地よくブルーナが生きて行けるように……。
時間をかけて人生の目標を見つけ、時間をかけて体力をつけていけば良い。ラディウスは自身がその為の力になる事が出来れば本望だと思った。それしか、ラディウスのとる道はないのだと。
だが反面、時間をかけ過ぎるのはブルーナにとって良い事なのかがわからない。
肘掛け椅子に深く座り込み考え込みながら溜息をついたその時、後ろから呼ばれ、振り向くと弟のエリウスが立っていた。
「どうした? この時間にお前が現れるとは、珍しいな」
ラディウスはひとつ年下の弟を見上げた。そのエリウスは少し笑っている。
「何度も声をかけたんですがね……今日は、剣の相手をしてもらえませんか?」
「剣?……急にどうした? 遠征準備は終えたのか?」
ラディウスは意に解せない思いで、エリウスを見上げたまま動こうとしなかった。
「そんなもの、とうの昔に済んでいますよ。今は出兵を待つのみです」
エリウスは笑みを深めた。
「たまにはこの可愛い弟にお付き合いください。じきにしばらく会えなくなるのですよ」
そんなラディウスを気にもせず、笑って促すと、エリウスはテラスから外へ出て行った。
ラディウスはそんな弟の姿を眺め、最近剣の稽古をしていない事を思い、軽くため息をつくと立ち上がった。そしてそのまま自分の剣を取ると、エリウスの後を追いテラスから広いベランダへ降りて行く。
夜風は少し肌寒く、体を動かすには適した温度だった。
「来ましたね」
エリウスはラディウスと少し距離を取ると剣を抜き構えた。ラディウスも軽く剣先が触れるかどうかの距離を取り構える。
「行きますよ……」
エリウスが剣を振りかざした。それを受けながらラディウスは後ろへ下がる。
流れる様なエリウスの剣先が容赦なく己に向うのをかわしながら、ラディウスは弟の上達ぶりに驚いていた。始めは優勢だったラディウスは次第に劣勢になり、他の事を考える余裕が無くなって来る。
エリウスはルガリアードの出す十字軍五百人の総指揮を取る。それだけのことが出来るよう、日々精進していたのだろう。その剣捌きは以前の彼とは別人だった。流れるような剣先がラディウスを幾度も窮地に追いやる。だが、ラディウスにも意地がある。負けたくない、という気持ちが強くなり必死に喰らいついた。
身体が熱を帯び、息が上がる。
ラディウスの攻撃を、エリウスはヒョイと避けるとニヤリと笑った。
「兄上、最近、剣の稽古を怠けていますね」
エリウス自身は息も上がっていない。
「怠けているわけではない……」
「腕が鈍っています。そんな事では、守らねばならぬ者を守る事も出来ませんよ!」
その言葉にラディウスが怯んだ一瞬の隙を、エリウスは見逃さなかった。ラディウスの握っていた剣は宙を舞い、乾いた音を立てて石畳の上に落ちた。
「私の勝ちです」
エリウスは額の汗を拭うと朗らかに笑った。ラディウスはなかなか息が整わなかったが大きく息を吐いた。
「……腕を上げたな」
「兄上の座を虎視眈々と狙っているのでね」
「……そういう事を本人に言うのか? 本当に考えている者は口にはせぬ」
ラディウスは汗の滲んだ額を拭った。夜風が上気した頬を撫でる。
「気持ちいいな……」
エリウスはラディウスの落ちた剣を拾い、差し出すとまたニヤッと笑った。
「そうでしょうね、最近の兄上は何かを思いつめている様子だと見えたもので、体でも動かせばいいかと凝らした趣向です」
エリウスの言葉にラディウスは返事が出来なかった。ラディウスの視線を受けたエリウスが肩を竦めた。
「嘘ですよ……実はデュランに剣の稽古に連れ出して欲しいと言われたのですよ」
ラディウスは小さく溜息をつくと剣を受け取り「そんな事だろうと思った……」と言いながらテラスへ上がる階段に座った。エリウスもその後を追い、ラディウスの側に腰を下ろす。
「まぁ……言えない事なら無理にとは言いませんが……私では相談相手に成りませんか?」
ラディウスは黙って弟を見た。
この所、目に見えてエリウスは頼りになる存在になってきていた。打てば響くと言うか、一つを言えばその先を予想し動く、良い指揮官の素質を持っている。が、果たしてエリウスに今の自分の悩みがわかるのだろうか? エリウスは女性にも事欠くことはなく、マメな性格がそんな所にも活かされている。
ラディウスは自分の足元を見た。エリウスならブルーナの状況をなんと答えるのか……。
「……お前は自分の事を、不必要な人間だと思った事はあるか?」
徐に口にした質問に、エリウスは驚いてラディウスを見た。
「……兄上は自分の事を不必要だと思っているのですか?」
ラディウスは苦笑した。
「私の事ではない」
「でしょうね……あまりに突飛な質問だったので度肝を抜かれました」
「真面目な話、そう思いながら生きている者がいたら、お前ならなんと声をかける?」
ラディウスの問いに、エリウスは少し考え込んだ。
「……自分の事を不必要だと思う人は、それ相当の苦しみや悩みを背負っているのだと思います」
「うむ……」
「その苦しみは本人以外にはわかりようが無い……」
「つまり?」
「……つまり、何か言葉をかけるだけで気持ちが浮上するなら、紛らわす事ができる。それだけの苦しみです。だが、不必要だと考える程の苦しみなら、何も言えない……察する事は出来ても、分かち合うのは不可能です」
ラディウスは夜空を見上げた。エリウスの言う『不可能』が酷く残酷な言葉に響き、ブルーナの倒れる寸前の青ざめた顔が、妙なリアリティーを持って脳裏をよぎった。
「そうだな……」
ラディウスは目を閉じ静かに空気を吐いた。その様子を見ていたエリウスが言葉を続ける。
「後はその人物が兄上にとってどのような存在かにも寄りますね」
「と言うと?」
「まぁ、大事な存在であれば寄り添うなり力を尽くすなり、その人物が兄上にとって大事な人である事を、わからせたら良いのではないですか? 兄上にとって必要なのだとね」
「…………」
「自分の事をそれだけ必要だと思ってくれる存在がいるのに気付けば、少しは変わるのではないかと思われますが……その人物はどの様な者なのです?」
エリウスが興味を持った事への情報を得ようと考えているのが、有り有りとわかる笑顔でそう言った。
「お前に言う必要性を感じない……」
エリウスは苦笑した。
「そこまで悩まれているのに、想像するに明らかだと考えられますが……兄上は素直ですからね」
苦虫を噛む様な表情でラディウスはエリウスを睨みつけた。そしてそのまま「もう行け」と手を振った。
「今日は久し振りに体を動かせて気持ちが良かった。礼を言う」
「体が鈍っているから、余計な事を考えるのですよ」
「一丁前に……言っておくが、次は負けんぞ」
「いやいや、今の兄上なら暫くは私の勝利でしょう」
小憎らしい弟を一瞥して、ラディウスはもう一度手を振った。
「私はもう少し夜風にあたっている……お前は行け」
エリウスは何か言いたげにラディウスを見た。そして口を開きかけた時、慌てたようにデュランが室内に入ってきた。
「殿下! ラディウス殿下! エリウス様も至急来られてください!」
ラディウスとエリウスは瞬時に顔を見合わせ立ち上がった。
「どうした?!」
テラスから室内へ入るとデュランが息を荒らしたまま立っていた。
「至急会議室へ! 民衆十字軍が先行し出発したとの知らせを受けました!」
「民衆十字軍だと?!」
二人はまた顔を見合わせた。
「とにかく急いでください! 会議室でオルガード侯爵がお待ちです!」
「分かった!」
ラディウスとエリウスは共に急ぎ足で会議室へ向かった。そこにはオルファ王と数人の貴族たちがすでに来ていた。
「民衆十字軍とは何だ?」
オルファ王がオルガード侯爵に聞いている。
「はい、十字軍のことを聞いた市民が、我も我もと国を飛び出し、一つの軍隊として東に向かっているのです」
「市民が?……バカな……」
「彼らは農具や木の棒など、思い思いの武器を持っているようで……手が付けられぬと……」
「何という事だ……」
十字軍の遠征は、キリスト教徒達を奮い立たせた。その結果、無防備な市民までもが賛同したのだという。
「中には女性や子供もいるとの事です」
会議室の中の者達は絶句した。女性や子供に何が出来るというのか……武器は木の棒や農具であるなど……異教徒に惨死されて終わりだ。
「その情報は何処から来た?」
「はい、我が甥が、現在西ローマに留学しております。今日、夕方に早馬が到着いたしました。それで直ぐにこちらに知らせた次第です。彼によると始まりは北フランスの方より起こったようです」
その場の者達は顔を見合わせた。オルガード侯爵の甥息が西ローマに留学しているのを知る者は多い。北フランスから民衆が集まっているとなれば、その数は膨らみ続けているだろう。
「後数日で先頭の者がこの国の近辺に参ります。対処の程を如何するのか決めませんと……」
オルファ王の側近の一人が声をかけた。
「とりあえず、皆席へ」
オルファ王の一声でその場にいたものは席についた。間に合わなかったものも居るようで、数席空いている。ラディウスはオルファ王の席の段違いの横に座り、エリウスは重臣の席の空いている一つに座った。
「民衆には手出しはできぬ。だが、統率は取れていないだろう……奪略、強奪、剥奪様々な事が起こる可能性がある。いかにしてこの国を守るか、皆の知恵を出し合って欲しい」
オルファ王の表情は厳しい。
「民衆十字軍の総人数はどれくらいだろうか?」
「はっきりとした人数が分かってはおらぬ。ローマを出た者は数百人であったらしいが、賛同する者が次から次へ雪崩れ込んでいる」
「……」
「恐らくではあるが、十万人は下らないかと……」
「十万人……」
誰も口を開けられない。その数が直にルガリアード北部に達するというのだ。如何すれば良いのか、ルガリアードの民衆も影響を受けるかもしれない。事は一刻を争う事態だ。
だが、どうすれば良いのか、誰も口を開かなかった。
「……一つ提案があります」
シンと静まり返った会議室に、凛とした若い声が響いた。エリウスである。
「この案件、私に任せては頂けませんか?」
エリウスは会議室の貴族達と父であるオルファ王と兄ラディウスを見た。
「いや、お前は十字軍出発前の大事な時期だ。任せるわけにはいかぬ」
オルファ王の言葉は息子を案じるものでもある。
「いいえ、一つ案があるのです。国中のパン職人にありったけのパンを焼かせてください。できれば、貴公達の料理人の手も借りたい。そうすれば何も暴動は起こさず、彼らからこのルガリアードを守って見せましょう」
不適に笑うエリウスはまた周りの者達を見回した。
ラディウスがハッとしたようにエリウスに視線を送った。エリウスはそれを受けニヤリと笑う。
「つまりはこういう事です。歩いて進む民衆十字軍の者は疲れ、疲弊しているでしょう。そこにパンと水を与える。彼らは感謝し、過ぎて行きます。ここに入るより目的の場所へ先に進む方が彼らにとっては良いですから」
「エリウス、出来るか?」
オルファ王に応えるようにエリウスは笑った。
「任せてください。やって見せましょう」
その日の内にルガリアードの王都に知らせが回った。早馬は北の地域に近い場所全てに知らされた。




