45 カルロス・アザック老医師
ラディウスは城に戻ってもほとんど誰とも話をせず、ずっと考え込んでいた。頭にはブルーナしかいない。ふとこの事を知ったのが十字軍の遠征準備が全て整った後で良かったとも思う。何も手につかないことはないだろうが、きっと見落としが多く出ただろう。
簡単な仕事を片付けると、ラディウスは自室へ戻りテラスへ出た。夜風は冷たく感じ、頭は冴えていた。
カルロス・アザック老医師にブルーナのことを聞くとなると、ラディウスは彼に謝らなければならないだろう。幼い子どもの頃のでき事とはいえ、ラディウスはカルロス老医師にひどい暴言を吐いている。それは忘れようがない。
「やるしかないか……」
ラディウスは溜息を吐いた。
翌日、早々にラディウスは側近の一人にカルロス・アザック老医師の居所を探すように命じた。恐らく、下町から移動はしていないだろうがもう十数年も前の話だ。居場所は移しているかも知れない。
だが、命じて数時間で彼の居場所は分かった。やはり彼は名医として街の住民に慕われていたようだ。
ラディウスは複雑な思いもあったが、彼に会うことを決めた。
「デュラン、今日午後にカルロス医師に会いにいく」
「わかりました。場所はどちらですか?」
「リゴーの街……下町だ」
「……承知いたしました」
午後になり、ラディウスとデュランは城を出た。
行き先はリゴー、下町である。いつもの格好では目立って仕方がないという事で、彼らは装飾の少ないラフな格好をしていた。
リゴーに入ると、程なくカルロス老医師の治療院の場所はわかった。そこに向かいながら馬上のラディウスはデュランに告げる。
「彼の意見を聞きたいと思ったのだ……知りたいことがある」
「はい」
その知りたい事がブルーナのことであるのはデュランも知っている。
「面会には私も立ち会います」
「……駄目だ」
「殿下?」
「駄目だ! 詫びる姿を誰にも見られたくない……」
「詫びる?……」
ディランは何も言えなくなった。彼はラディウスとカルロス医師との間の出来事は知らない。
ラディウスはゆっくりと息を吐きチラリとディランを見た後、何かを見据える様に真直ぐに前を向いた。こうなると、ラディウスは自分の思うようにしか動かないのをディランは身に染みて知っている。軽くため息をつき、ディランは了承するしかなかった。
「直ぐ近くに控えておりますので……」
「分かった」
カルロス老医師の診療所が近くなると、ディランに戸の外で待つよう言い渡し、ラディウスはひとりカルロス老医師の診療所の建物に向かった。
建物に近づくと中から数人の男達の騒ぐ声がしていた。この中にカルロス・アザックは居るのだ。
ラディウスは扉を叩くのに一瞬躊躇ったが、ブルーナの苦しそうな顔が浮かび、昔の想いを振り払うように扉を叩いた。
「今、取り込み中だ! 勝手に入ってくれ!」
家の奥から怒鳴り声が聞こえ、ラディウスは扉を開けた。その瞬間、男の叫ぶ声が部屋中に響いた。
部屋の中では診察台の上に泣きわめく怪我人が横になっており、二人の男が必死に押さえつけていた。その怪我人にのしかかるようにして少々がたいの良い老医師が治療を行っている。
「だいの大人の男が、ピーピーわめくんじゃない!」
老医師は頻りに男に向かって叱りつけていた。その姿は後ろから見てると猛獣と格闘しているようにしか見えない。
「急ぎでなければ、隣の部屋で待っていてくれ!」
老医師は振り向かずにそう怒鳴ったが、それが自分に向けての言葉だとわかると、ラディウスは素直に隣の続きの部屋へ移動した。
カルロス・アザック老医師の家は煉瓦が剥き出しの粗末な建物だった。移動した部屋は窓辺に机が置かれており、ここで書物をするのだろうか。その上は小さなスペースが確保されているだけで、他は医学書が山と積まれ、床にも同じ様に本が散乱していた。いかにも男の独り住まいといった風情だ。
目線をずらすと、更にもう一つ奥へ続く部屋があった。が、この部屋の状態からしても覗く気にもならない。
(宮廷医師になっていれば、もう少しマシな暮らしが出来ただろうに……)
そうも思うが、彼がこの暮らしを楽しんでいるようにも思える。あの荒い治療も彼のやり方なのだ。
しばらくすると、泣きわめいていた声がおとなしくなった。
「ほれ、塗り薬は一日一回必ず換える事。こっちは煎じ薬で朝晩飲んどきゃ痛みが減る。何かあったらまた連れて来い」
的確な薬の処方を立て続けに説明すると、次の人が待っているからと男達をサッサと部屋から追い出し、老医師は大きな足音を立ててラディウスの待つ部屋へ入ってきた。
「待たせてすまんかった。あんたは何の……」
部屋に入ってきたカルロス老医師は、ラディウスを見て言葉を詰まらせた。
「久し振りだな、カルロス・アザック」
「ラディウス王子……」
カルロス老医師の表情が消えて行くのを見つめ、ラディウスは軽く息を吸い老医師をしっかりと見た。
「貴方のアドバイスが欲しくて、恥を忍んでここへ来た」
「な……何を言われます?」
カルロス老医師は驚いていた。何のアドバイスが欲しくてラディウス王子はここまで足を運んだというのか? そう思った瞬間、自分の中で苦笑した。
(もうラディウス王子は幼い王子ではない……殿下だな……)
それだけ時間が経ち、ラディウスは成長したのだ。目の前の青年はあの頃の少年の面影を残しつつも、もう立派な大人の男だった。
「妹の死は貴方のせいではない……それをわかっていながら、私は貴方に暴言を吐いた……あの時の事を……許して欲しい」
懐かしむ間もないまま詫びるラディウスに度肝を抜かれ、カルロス老医師は慌てて言った。
「お止めください! あれは……あの時は私も後悔したのです……殿下に言われた一言が一番こたえた……私は一体なんの為に医師になったのか……私が間に合ってさえいたら、何とかなったのではないかと何度も後悔しました、ですから殿下が謝る事ではありません」
カルロス老医師は心からそう思っていた。
何年前のことだろうか。腕を買われ宮廷に出入りするようになり、宮廷医師として宮殿内に住まいを移すよう言い渡されたのは……だが、すでにその頃カルロス老医師は、数え切れないほどの患者を抱えていた。宮殿に住まいを移すという事は、あくまで王侯貴族を最優先するということだ。カルロス老医師は自分の抱えている慎ましく暮らしている患者達を見捨てて、宮殿内に入ることは出来なかった。
ラディウスの父であるオルファ王はそれを理解し、許してくれた。何かあれば、必ず駆けつけることを約束し、カルロス老医師は宮廷医師を辞退したのだった。
だが、それから数年経ち、ラディウスの母であるエマ王妃が三人目の子を懐妊した。エマ王妃はラディウスを産んだ一年後にエリウス王子を産み、その三年後にまた懐妊したのであった。
比較的、エマ王妃の今までのお産は軽く、経産婦でもあるため産婆と若い医師でも処置が出来ると思われていた。エマ王妃自身も二度の経験がお産に対しての不安を払拭していた。
だが、実際はそうではなかった。三人目の子は陣痛が始まってもなかなか出て来ようとはせず、丸一日経っても頭が見えている段階から進まなかった。次第にエマ王妃の体力も続かなくなり、カルロス老医師を呼びに行く段階でエマ王妃は気を失ってしまった。
慌てて呼ばれたカルロス老医師が到着した時には、赤子の息はなかった。処置がなされ取り出された赤子は、首にへその緒が巻いており、赤子は必死に出たくても出ることが出来なかったのだと分かった。その時、室内の者達は何に怒りをぶつけて良いのかわからなかった。
赤子は綺麗な顔をした可愛らしい女の子であった。この時、ラディウスはじきに六歳になろうとしていた。
その日の早朝、全ての事を終わらせ部屋を出たカルロス・アザック老医師は、重い足取りで宮廷の出口へ向かっていた。いくら医師だといっても、死に直面すると気持ちは萎えていく。こればかりは慣れるものではなかった。
宮殿の窓から朝日が入って来るのを臨みながら、カルロス老医師は窓辺で立ち止まり、死んでしまった赤子のために祈りを捧げた。
その時だった。パタパタと走ってくる小さな足音が聞こえ、カルロス老医師が振り向くと、そこに怒りでいっぱいのラディウスが立っていた。
「嘘つき!」
ラディウスは涙でくしゃくしゃになった顔でカルロス老医師に向かい、ありったけの大声を張り上げた。
「お前はいつでも直ぐに飛んでくると言ったではないか! 何故来てくれなかったんだ! 妹だったのに! 生まれて来る子は可愛い妹だったのに!」
カルロス老医師は何も言えなかった。
「ラディウス王子……」
「お前は何のために医師になったんだ! 命を助けるためではないのか?! 僕はこれから生涯、絶対にお前の事を許さない! 二度と僕の前には現れるな!」
カルロス老医師は床に視線を落とした。あの日のラディウスの言葉は昨日の様に思い出すことが出来る。信頼を裏切ってしまった負い目は、カルロス老医師の中にもあった。
それまでのラディウスは、宮殿にカルロス・アザック医師が現れる度に待ち構え、簡単な傷の手当ての方法や煎じ薬を作るための植物の知識など、教えを乞うていた。
カルロス・アザック老医師の男気を尊敬し、強く信頼していただけに、その悲しい出来事は、ラディウスの心に憎しみを植え付けてしまった。
それからもずっとラディウスの中には、経験の少ない若い医師ではなく、経験の豊富なカルロス老医師であれば対処出来たのではないかという強い想いがあったのだ。
そして今、カルロス老医師はラディウスの顔を見る事が出来ずにいて、ラディウスもまたその次の言葉が出てこない。
長い沈黙の後、ようやくカルロス老医師が口を開いた。
「ラディウス殿下、私に聞きたい事とは何でしょうか?」
ラディウスはカルロス老医師の足元を見たまま大きく息を吸ったが、言葉を飲み込んだ。その様子を見るとカルロス老医師はわざとゆっくりと言葉をかけた。
「何か一大事な事でもありましたか?」
その言葉にラディウスは顔を上げると決心したような表情で口を開く。
「ブルーナ・レティス・ド・ルドヴィーグ嬢の事だ……貴方が彼女の主治医であると聞いた。彼女の病は何なのか、どうすればいいのか教えて欲しい」
ラディウスの表情は真剣そのもので、大事な物を失うまいという意思がはっきりと見えていた。
「……親しいお知り合いなのですね?」
それを聞いたラディウスは視線を逸らせる。
「……婚約者の姉君だ」
ラディウスの婚約発表は世間を賑わせた。相手が誰なのかは伏せられたままだが、それをこの老医師が知らないはずはないと思える。
しかし、カルロス老医師は目を丸くしてラディウスを見た。
「それはまた……てっきり私はブルーナ嬢が殿下の想い人だと……」
ラディウスが軽くカルロス老医師を睨みつけた。
「失礼……日々患者に向き合い記録を付け、研究の合間に腹拵えをする生活なもので……世間には少々疎いのですよ。お時間は大丈夫ですか?」
「あぁ……」
間をおいて、カルロス老医師は椅子をラディウスに勧め、自分も机の前の椅子を引き寄せ座ると話し出した。
「そうですか、ブルーナ嬢の事ですか……あの方は小さい頃から心臓が悪く、私は五歳まで生きるのは無理だろうと思っていました」
その言葉にラディウスはカルロス老医師をまともに見た。老医師はラディウスに笑いかける。
「知っての通り、それは私の見たて違いでしたがね。ですが、今でも心臓の血の流れが悪くなる時、発作は起こる。彼女の体力が無くなれば無くなるほど頻繁に起こることになり、さらに体力を消耗し、このままではその内、発作で死にいたるでしょう」
カルロス老医師の言葉に、ラディウスの表情が凍りついた。ラディウスはブルーナの病がそれ程悪いと思っていなかったのだ。
「何か……何か、手立ては無いのか?」
「手立てと申しますか……まあ、もう少し体力がついてくれたら、発作の緩和になるかもしれないとは思っています。ですが、ブルーナ嬢は食が細いため中々体力が付きません」
聞きながらラディウスはブルーナの身体の線の細さを思い出していた。カルロス老医師はラディウスの様子を見ながら言葉を続ける。
「今の所、ブルーナ嬢に必要な物は体力と……目標ですな」
カルロス老医師の口から出た『目標』と言う意味を真面にとっていいのかわからず、ラディウスは尋ねた。
「……それはどういう事だ?」
カルロス老医師は曖昧な笑顔をラディウスに向けている。
「意外に思われるかもしれませんが、ブルーナ嬢は目標の無い人生を送っておられる。ただ、死を待つだけの人生です」
「何だと?!」
思わずラディウスは声を荒げた。
(死を待つだけ?……)
「そんな事はあり得ぬ!」
老医師はラディウスに頷いた。
「しかし、そうなのです。あの方は自分を必要のない人間だと思われておる。愛される資格がないと……」
「馬鹿な! 何故そんな事を……」
ラディウスはブルーナのひっそりとした静かな生活を思った。
(必要のない人間だと? 愛される資格がないないだと?)
怒りに似た感情がラディウスを包んだ時、ブルーナがふと見せてくれた笑顔が浮かんだ。あの笑顔を愛さない人間などいるものか。
「彼女を助けたいのであれば、生きる目標を一緒に探してあげる事が一番です。自分は必要とされる人間であると知らせてあげるのです。そうすれば、自ずから生きようという気持ちになり、体力をつけるために事を起こし始める」
ラディウスは考え込んだ。そのラディウスに向かって、カルロス老医師は冗談のように言葉を続ける。
「殿下がブルーナ嬢の想い人であり共に生きるのであれば、それは可能かもしれませんが……今から誰かを引き合わせるにも、あの方自身が拒みますからなぁ……」
ラディウスは黙ったまま唇を噛んだ。
「誰もがそうですが、自分は人に必要とされていると感じれば奇跡を起こす程の力が湧きます。しかし、厄介者だと思っていれば迷惑をかける事を、ことさらしないようにするでしょう……あの方は自分を厄介者だと思っておられる。それが一番たちが悪い」
ラディウスは黙ったまま考え込んだ。本来なら快活な人に違いない、そんなブルーナの本質が垣間見れた時、自分は何を思ったか……。彼女ともっと話がしたい……あの時、確かにそう思った。意見を交わし合うのが面白くて仕方なかった。
ブルーナが何を思い、何を考え、何を欲しているのか、なぜブルーナは己を否定するのか、ラディウスにはわからなかった。そう思った時、ラディウスはブルーナの事を何も知らないのに気付いた。わからないのではなく、分かりようがなかったのだ。
(彼女が死を待っているはずはない!)
唸る寸前でラディウスは自分を止めた。
彼女を守るとは……。彼女の全てを受け入れることだ。自分の気持ちを今更のように確認したラディウスはカルロス老医師を見た。
「体力をつけるにはどうすればいい?」
「まずは食べることです。その後は、無理をせず、段階を得て体を動かす事」
「わかった。他には?……」
「心臓の……発作が起きないように、いかに無理をせずに行うかが重要です」
「知らず知らず、体力が付くようにすれば良いのだな」
ラディウスは自分の唇を軽く握った手の親指でなぞるように触れると、暫く考えていた。
「やってみよう」
そう一言いうとラディウスは立ち上がった。そして、そのまま出て行こうとしたが思い直し振り向いた。
「カルロス・アザック医師……また来ても良いか?」
カルロス老医師は微笑んだ。
「門はいつでも開いていますよ」
「ありがとう……」
ラディウスが出て行く後ろ姿を見ながら、カルロス老医師は表情を曇らせた。
(体力と目標……その事に、どれだけの効果があると言うのか……)
ラディウスの表情を思い出し、カルロス老医師は深く溜息をついた。たまに人間は驚くほどの力を発揮する。だがそれは賭けのようなもので、確実性はどこにもないのだ。
「あの顔を見てしまった後では……効果は期待できるかはかわからん……とは言えん」
かといってうまくいかないと言い切る保証もどこにもない。最初の見立ての五年しか生きないだろうと思われた期間はとうに過ぎている。すでに奇跡だと言っていい状態だ。
老医師はラディウスの気持ちを思った。
(あの様子はどう見ても、ラディウス殿下が慕っておられるのはブルーナ様だと思うのだが……この病では結ばれるのは難しいだろう……)
単純に考えても、子を産めない女性が王家の王子と結ばれるわけはなかった。しかし、ラディウスの戯れだったとしても、ブルーナにとって何かしらの力になるのであれば、それだけでいいようにも思える。
カルロス老医師もブルーナの事を良い娘だと思っていた。ブルーナの人生やその思いを知る者が、少数でも存在するとそれだけでもいいのではないか。それは彼女がこの世を去った時、彼女の思いを知る者たちの力になるように感じる。ブルーナという娘はそれ程に意思の強い女性なのだ。
(容姿も、性格も、レティシア様によく似ていらっしゃる……ただ、殿下が真剣にブルーナ様を恋慕っているなら……)
「辛いな……」
ブルーナの命が後どれ程あるかなど、神のみぞ知るだ。早く手を打たないと取り返しのつかない事になる。
カルロス老医師は窓の外を眺め、また大きく溜息をついた。




