43 ブルーナの秘密とラディウスの心
それから幾日も経たないうちに、ラディウスはやって来た。この日は天気も良く初夏を思わせる暖かな気温だった。
今日は先触れを出していたため、エレーヌは直ぐに客間へやって来た。
「お兄様! 今日はお姉様も一緒にピクニックなのでしょう?」
「あぁ、そうだよ、エレーヌ。昔見つけたリスの巣穴があるのだ。それを見に行こう」
「リス? まだ住んでいるのですか?」
「住んでいると思うのだが……それを確認に行くのだ」
「はい!」
ルドヴィーグ伯爵が二人の様子を見て笑った。
「エレーヌは朝からソワソワと落ち着かない様子でおりましたよ」
「そうか、ではブルーナ嬢は? どうしている?」
「朝の段階ではエルダが張り切っておりましたので。ブルーナも楽しみにしていると思いますよ」
「そうか……」
密かにラディウスはホッと胸を撫で下ろし、今日は大丈夫なようだと客間でブルーナの到着を待った。が、エレーヌがあちらこちらと歩き回りおしゃべりを始めるので、落ち着かせようと彼女を少し外へ連れて行くことにした。
デュランと共に一度外へ出ると、エレーヌは大きな馬を目の前に乗りたいと言い出した。
「お兄様はこのお馬でいらしたのでしょう? 私も乗ってみたいのです」
その目には純粋な好奇心が見え、笑いながらラディウスはデュランを見やる。
「デュラン、エレーヌを馬に乗せてくれないか? 私はブルーナを見てくる」
「はい、了解いたしました。エレーヌ様、殿下が姉上を連れてくるまでの間、私と馬に乗りましょう」
「本当に? 良いのですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
エレーヌがデュランと馬に乗る最中に、ラディウスは館の中へ入って行った。
客間を通らずそのまま廊下へ出ると奥へ足を向ける。途中にいた召使たちが礼をする中、ラディウスは中庭の見える廊下を通りさらに奥へと進んだ。
書庫が見えると扉は開いていた。そちらへ向けて行こうとした時、中庭のベンチにブルーナが座っているのが見えた。
——全く、人を待たせて置いてこんな所にいるとは……。
軽い気持ちでラディウスはブルーナに近寄った。ブルーナは本を手にしたまま膝に置いている。少し覇気がないように見えるのは気のせいだろう。
「ブルーナ、何をしているのだ? 今日は先触れを出していただろう? リスの巣穴を見に行くぞ」
だが、振り向いたブルーナの表情は少し曇って見えた。
「どうしたのだ? 何かあったのか?」
もう一度声をかけた時、ブルーナは首を振った。
「今日は……やっぱり辞めておきますわ……ごめんなさい、殿下」
途端にラディウスは自分の気持ちが萎んでいくのが分かった。
「……何故だ? 君はこの間、嬉しそうにしていたではないか?」
「えぇ、でも、ごめんなさい、今日は辞めておきます」
ラディウスは納得がいかなかった。ブルーナを外へ連れ出すために計画した事だ。みんな準備をしているというのに、何を今更駄目だというのか。
「何を言っている。何か理由があるなら話してみろ」
ラディウスの言葉にブルーナは眉間に皺を寄せた。ラディウスは久しぶりにブルーナの眉間の皺を見た。
「お願いです。婚約者のご機嫌取りに、私を巻き込むのはお辞め下さい……」
「何だと?……」
「もう、行って下さい……」
ラディウスは意味がわからなかった。エレーヌも共に行こうとちゃんと話していたというのに、何が不満なのか。ラディウスはムッとして踵を返すと、その場を離れた。
——いったいあれは何なのだ?
言いようのない虚しさと、怒りに似た感情が湧いていた。ブルーナの放った言葉が、必要以上に自分の心にグサリと刺さっている。
——あの性格が問題なのだ。あれでは誰も嫁には貰うものか!
ツカツカと玄関へ向かいながら、でも、次第にラディウスは冷静になってゆく。外へ出ると、ラディウスは空を見上げた。
六月の空はどこまでも青く、柔らかな陽射しは輝きを増し、なにより晴れやかな天気が気持ちいい。こんな日は外に出るに限る。
館の前の広場ではエレーヌはドレスのまま馬に乗せられ、ディランと共に嬉しそうに馬を撫でていた。
「お兄様!」
屋敷から出てきたラディウスを見つけるとエレーヌは満面の笑みで手を振った。このピクニックが嬉しくて仕方がないのがよくわかる。ラディウスはその笑顔に手を上げて応えた後、今出て来たばかりのルドヴィーグ伯爵の屋敷を振り返った。
元気いっぱいのエレーヌに比べ、本ばかりを読んでいるブルーナの顔色が悪いのは、外に出る事が極力少ないからに違いないのだ。先程のブルーナはいつも以上に顔色が悪く見えた。体を動かせば気持ちもスッキリするだろう……それなのになぜ、ああまでして外へ出ることを拒むのか。
このピクニックに一度は行くと言ったではないか。それなのにラディウスの計画はブルーナ本人によって打ち砕かれた。言い争いになる前に腹立たしさの方が勝ってしまいあの場を離れたが……。
ラディウスはもう一度空を見上げた。空は抜けるように青い。そよぐ風で目の前のカツラの樹の木漏れ日が優しく揺れる。申し分ない天気だ。これなら十分に楽しめるはずなのだ。ラディウスは軽く唇を結んだ。
『婚約者のご機嫌取りに私を巻き込むのはお辞め下さい……』
素っ気ないブルーナの言葉が蘇る。思い出しただけでもムッとするが、あれ程までに拒絶する理由がわからない。
——だが、あの声が少し掠れてはいなかったか?
思えばブルーナの健康のために計画したピクニックだ。エレーヌも楽しみにしている。ブルーナを外へ連れ出す……それが目的なのだ。少し考え込み、ラディウスは小さく舌打ちした。
「もう少し待ってもらえるか?」
準備を終えたディランと侍従達に声をかけ、ラディウスは踵を返し建物の中に戻る。
——私は、二人のためを思っている……。
エレーヌの喜ぶ顔とブルーナの喜ぶ顔、両方を思い出しラディウスは中庭へ向った。屋敷の侍女達は、出て行ったはずのラディウスが勢いよく戻ってきた姿に驚き、顔を見合わせている。
屋敷の中を大股に歩きながら、ラディウスはブルーナを連れ出す事だけに集中しようと思った。この際、言い争いになろうがどうでもいい。とにかくブルーナを外へ連れ出す、館から出てしまえば嫌でも従わざるを得なくなるだろう。
——どんなに否定しようが構うものか!
先程の完全なるブルーナの拒絶も、聴く耳持たずに連れ出してやる。何なら抱き上げて連れ出しても良い。ルドヴィーグ伯爵には後で幾らでも理由を説明すれば良い。
中庭へ続く扉はラディウスが去った時のまま開け放たれており、ブルーナもまたベンチに座ったままそこに居るのが見えた。ラディウスは中庭に出ると大股に近付きながら、ブルーナに声をかけようと口を開きかけた。
その瞬間……何かがおかしいと感じた。
ブルーナは閉じた本をそのまま膝に乗せ表紙を見つめていた。本の上では握りしめた手が震えている。ラディウスは一瞬声をかけられずに立ち止まった。
その姿は泣いているようにも見えた。
——何故泣いている?
「……ブルーナ?」
ラディウスの声を聞いた途端、ブルーナはビクッと身体を震わせこちらを見た。彼女は戻って来たラディウスを見て目を見張っている。彼女は泣いている訳ではなかった。しかし、顔面が蒼白していた。
ブルーナは眉を寄せラディウスから視線を外し俯いた、本の上の握りしめた手にさらに力が入る。唇が微かに動き、ゆっくりと目を閉じた。
そして……見ている間にブルーナの体がゆっくりと傾き始めた。瞬間、ラディウスに戦慄が走った。ブルーナはそのままラディウスの目の前で、ベンチから崩れ落ちたのだ。
「ブルーナ!!!」
慌てて近寄ると、ブルーナは声を押し出した。
「……エルダを……」
ラディウスはすぐさまブルーナを横向きに抱きかかえると、屋敷の中に入り声を張り上げた。
「エルダ!! エルダは居るか!!」
ラディウスの声に台所に居たエルダが飛び出してきた。そして、ラディウスの腕の中のブルーナを見ると驚いて叫ぶ。
「お嬢様!!」
「彼女の部屋はどこだ?!」
「こちらでございます!」
エルダは走るようにブルーナの部屋の前に行くと扉を開け、中に飛び込んだ。ラディウスも後に続き中へ入ると、広い部屋の窓辺に置かれたベッドにブルーナを寝かせ、苦しそうなブルーナの顔を見た。
「……なぜ……戻った、の?……」
苦しそうなブルーナが、非難めいた瞳をラディウスに向けている。それに対してラディウスは何も言えなかった。ラディウスの心臓が音がするくらい早く打っている。ラディウスはベッドの横に立ったまま、今、目の前で起きている出来事を整理するのが精一杯だった。
いつの間にか、エルダが水と薬をトレーに持って来ていた。
「お嬢様、お薬です……」
サイドテーブルにトレーを置くとエルダはテキパキと動き、ブルーナの身体を支えながら起こすと薬を飲ませた。薬を飲んだブルーナはまだ息が荒いが、素直に目を閉じ横になる。一連の様子から、これが日常であるのだと想像出来た。
エルダはブルーナが素直に寝入る様子を確認すると、某然とブルーナを見つめるラディウスに声をかけた。
「ラディウス殿下……お嬢様はしばらくお休みになりますので……」
「あぁ……」
部屋を出て欲しいという事だとすぐに理解出来たが、ラディウスは動けなかった。
「……悪いが……しばらくここに居たい」
ラディウスの言葉にエルダは驚いた。ラディウスの顔を見ながら伺うように尋ねる。
「……今日はピクニックをなさるのでは?」
「あ……」
ラディウスは思い出したようにエルダを見て、大きく息を吐いた。
「行く気が失せてしまった……エレーヌ嬢には後日詫びを入れる」
エルダは少し困ったように微笑んだ。
「お嬢様はこのままお眠りになります、お話は出来ません」
「わかっている……」
ラディウスはエルダを正面から見た。
「頼む……しばらくここにいさせてくれ」
「……ご命令であれば仕方ありませんが、ただ居たいと言うのであれば承知致しかねます」
エルダの顔は静かにラディウスを窺っている。非難めく訳でもない静かな表情にラディウスは躊躇った。家族でも恋人でも無い異性がこの部屋にいる訳にはいかないのだ。
「……そうだな」
ラディウスは一度ブルーナの顔を見た後静かに出て行った。
だがそのまま玄関へ戻る気になれず、中庭のブルーナが座って居たベンチへ向かうとゆっくりと腰をおろした。
何から考えて良いのかわからない。ブルーナの顔は青白く生気がなかった。その顔を思いながら、ラディウスはブルーナは病なのだとようやく理解できた。
外へ出ようとしない訳も、本ばかり読んでいる事も、侍女達の控え室に近い場所に部屋があるのも、すべてはブルーナの冒されている病が原因なのだろう。
初めて出会った時から、先程までのブルーナをラディウスは記憶の限り思い出した。にこりとも笑わぬブルーナに興味を持ったあの時。本を読む姿ばかり見かけていたあの頃。初めて話した時に感じたあの感情。聡明な女性だと気づき、もっと彼女を知りたいと思ったあの想い。初めて笑顔を見せてくれたあの瞬間。初めて近くに感じたあの日。ブルーナを知る度にラディウスは何かを得ていた。
ブルーナが倒れる姿を見た時、ラディウスは自分の心臓が止まるかと思った。今も想像するだけで身体中の臓器が脈打つ思いがする。
ラディウスは悲痛な表情で目を閉じた。
——私は……。
もう気付かない振りは出来ない。
いつ頃からか、ラディウスの感情はブルーナに注がれていた。いつの間にか、ラディウスにとってブルーナは 婚約者であるエレーヌの姉君ではなくなっていたのだ。
たった今、気付いてしまった。ブルーナを失いたくないと思う強い感情。その感情に気付いた今、ラディウスは己の犯した過ちを思い知った。
——私は……ブルーナを愛しているのだ……。
どうすれば良いのかわからなかった。自分の婚約者はエレーヌだ。だが自分はブルーナを愛しているのだ。
とうとう、ブルーナが体が弱い事を知ってしまったラディウス。
そして同時に自分の心を知るラディウス。
二人のこれからはどうなるのか……
楽しんでいただけたら嬉しいです。




