42 春と共に
ルガリアードの雪で閉ざされた長い冬が過ぎると、春は一気に訪れる。
雪がなくなり、地面から植物が芽吹き、山や湖の草原に色がつき始め、小川の水の量が増える。そして動物達は冬眠から目覚めるのだ。
ブルーナもまるで冬眠をしていたかのように動き始めた。
この冬は立て続けに発作を起こし、ひどい風邪も引いた。風邪はなかなか良くならず、辛い思いをした。だからなのかいつも以上に春の訪れを待ち遠しく思っていた。
春になったことはなったものの、エルダからの書庫へ行く許可はなかなか出なかった。退屈ではあるが、ブルーナは暖炉の側に椅子を引き、本を読んだ。
それに対しラディウスは、春になると更に忙しくなった。
冬に入って直ぐの頃は、相変わらずオルガード侯爵は書状を出して来たが、相手にされることはないと分かると、諦めたのか書状は来なくなっていた。
だがその代わりにエストル卿がラディウスへ面会を求めるようになった。あまりの忙しさに会う時間はなかったが、ある時、城内ですれ違った。
「ラディウス殿下、お話があるのです。どうか私との面会の時間を取っていただきたい! 国の方向性に関わる話です。何卒よろしくお願い致します!」
「あぁ、今は少し忙しいので、十字軍の出発後でも良いだろうか?」
「できればその前に!」
「いや、遠征は決定している。変更はない。出来ないのではなく、しないのだ」
ラディウスはエストル卿の顔を正面から見た。
「あなたの言いたい事もよく分かる。だが、これは東ローマの要請でもある。それはお忘れなきよう……」
それだけを残し、ラディウスはエストル卿から離れた。彼は東ローマ教会と関わりがある。西とは少し違う考え方をしているが……彼らは更なる強硬派との関係が強い。ラディウスはどちらもどちらだと思っている。この国がその境界線上にある限り、国の宗教としてどちらを選ぶ事もできないだろう。
廊下の窓から外を眺めると、新芽に覆われた木々の緑が輝いて見えていた。
——そろそろルドヴィーグ伯爵の家にも行きたいものだな……。
ラディウスは疲れた精神を取り戻したかった。ブルーナと話すと少しだけ現状を忘れる事ができる。そして気になるあの教典。
——同じ宗教でも様々な考えを持つ者がいるのだからな……違う宗教になれば更にだ……。
ラディウスの頭の中にはオルガード侯爵とエステル卿の存在があった。世の中には様々な考えを持つ者達がいる。それは仕方のない事だ。それをまとめていかねばならない。
自分は将来、王としての実績を作る事は出来るのか……ふと過ぎる疑問をラディウスはかき消した。
——今はそれを思う時ではない……。
それからひと月後、ラディウスは漸くルドヴィーグ伯爵家を訪れる事ができた。準備は全て整えた。後は出発の時期を待つのみである。その余裕がルドヴィーグ伯爵家に足を向けさせた。
久しぶりの書庫は変わらずラディウスを静かな空気で迎え入れていた。そして、ブルーナはそこにいる。
「久しぶりだな、ブルーナ」
自然と笑顔が漏れた。少し驚いたブルーナが顔を上げ微笑んだ。
「殿下、もう準備は大丈夫なのですか?」
「あぁ、万全だ」
軽く笑い合い、ラディウスはブルーナの向いの席に座った。
「……少しお疲れですね」
ラディウスの顔を見ていたブルーナが穏やかな声でラディウスに告げると、彼は大きく息を吐き少し上を見た。
「そうかもしれぬ……」
「そういう場合はここへは来ずに、自室で身体を休めた方がよろしいのでは?」
「いや、だから来たのだ。精神の疲れは身体にも影響する」
ラディウス自身、城にいたのでは休む事ができない。彼は常に国の状況を把握する必要があり、余裕を持つためには一度頭を空っぽにしたかったのだ。ブルーナのいるこの書庫には、その場に居る者をソッとしてくれる空気があった。
「そうですか……」
ブルーナはそれ以上聞こうとはせず、ラディウスから視線を外すと本に戻した。ラディウスはそれを心地よく感じていた。城とは違う、誰も何も言わない空間。ラディウスは頬杖をつき、本を読むブルーナの姿をただ眺めていた。こういうのも悪くない……。だが、ふと気づいた事があった。
「……君は、また少し痩せたように見えるが」
ブルーナは顔を上げた。
「そんな事はないと思います。いつもと変わりはありません」
「そうだろうか?……」
ラディウスはブルーナの顔をしげしげと眺めた。
「いや、やはり痩せたであろう……ちゃんと食べているのか? 本に夢中になり食事を抜いたりはしていないのか?」
「……殿下は私の父親ですか? 大丈夫です。ちゃんと食べています。第一、あのエルダがそれを許すと思いますか?」
ブルーナはラディウスの言葉に内心ギクリとしたが、苦笑で返した。
「あぁ……まぁ、そうだな……」
ラディウスは何かと気のつく侍女のエルダを思った。確かにそうだ。彼女はブルーナに注視していて、時にはラディウスにでさえきつい視線を送る時がある。
「ちゃんと食べているなら、それで良い」
そして、ラディウスは身を乗り出し、ブルーナの本を確認した。
「今日は詩集です……」
「詩集か……」
ラディウスは意外な気持ちがしていた。今までブルーナが心の動きを表すものなど、読んでいるのを見た事がなかったからである。
「面白いのか?」
「えぇ、例えば……『春』一つをとっても様々な角度から表現できるのです。殿下は『春』と聞けば何を思いますか?」
「『春』か……私は……雪解けだろうか?」
「えぇ、雪が溶けて植物が芽吹く、動物は冬眠から目覚め、外が華やぎ始める。穏やかなイメージが強いのですが……一方で春の嵐もあるでしょう? その時期になると風と雨が強くなります。不穏なイメージも同時に起こるのです」
「ふむ、言われてみればそうだな……」
「一つのものには一つの表現だけではない事がわかるのよ」
ラディウスは感心してブルーナを見つめた。
「いつも思うのだが、君はなぜこうして本ばかりを読む? 春の訪れを外へ出て楽しもうとは思わないのか?」
ブルーナは曖昧に笑った。
「それはまた別な話です。私は知識を身につけるのが楽しいので……」
「…………」
その時、ラディウスに妙案が生まれた。ただのピクニックではなく、外を散策しながら、色々な表現で自然を表す。そういう機会を持てばどうか……本も持ち出して、外で食事をしながら様々な話をする。エレーヌも共に行けばまた違うのではないだろうか? 要は場所を書庫から外へ移すだけなのだ。
ラディウスは口にしてみた。
「今度、外へ行かないか? 実は、私は少年の頃にこのルドヴィーグ伯爵家に来ているのだ。ナリア湖からの帰り、弟が怪我をした時にここへ駆け込んだのだが……その時に見つけたリスの住む木があった。それを確かめたい」
「……まぁ、ここへは子供の頃に来られていたのですか?」
「すっかり忘れていたがね。初めてだと思っていたのに、前庭が懐かしく感じて、伯爵に聞いてみたのだ。今もリスの巣はあるらしい」
ラディウスは笑顔を向けた。その笑顔は優しく、きっと少年の頃もこんな風に笑っていたのだろうと思わせるものだった。
「そしてそこで言葉遊びをしよう。自然のものを使い、思い付いたものを話すのだ。今君が話した『春』のように……面白いと思わないか?」
ブルーナは少し考えた。遠出でなければ良いのではないか? 馬車に乗るのではなく、敷地内なのだからそんなに身体には負担にはならない筈だ。心の中に嬉しいという感情がある。
——私は、嬉しいと思っている。
自分でも意外だった。確かにアリシアとナリア湖へ行ったときは楽しかったし嬉しかった。だが、湖に落ちた時、やはり自分は外へは出てはいけないのだと思った。アリシアの結婚式でリングレントへ行き、帰路で寝込んでしまった。あの時も、やはり外へは出てはならないのだと思考がそこで止まっていたように思う。
——敷地内なら……。
ブルーナの心に光がさした気がした。中庭ではない場所へ行く。自然と笑顔が浮かんだ。
「えぇ、それなら……。リスの巣穴を見てみたいです」
「あぁ! 教えてやろう! では、次に私がここへ来る時に、必ず行こう」
「はい」
ラディウスは小躍りする勢いだった。頑ななブルーナを外へ連れ出す。それがこうも上手く行くとは……。ラディウスの目の前には嬉しそうに笑うブルーナがいる。その笑顔に少し胸を昂らせながらも、ラディウスの頭の中は計画で一杯だった。
その日、帰る前にラディウスはエルダを呼んだ。敷地内でピクニックのようにしたい事とブルーナの許可を得た事を話すと、エルダは驚いていたが、嬉しそうに了承した。
次にエレーヌにも、次の訪問時にはピクニックができる事を告げるとエレーヌは大喜びで跳ね回る。
「これ、エレーヌ! はしたない真似はよしなさい」
ルドヴィーグ伯爵に叱られてもエレーヌは気にしていない。それだけブルーナとラディウスとのピクニックが嬉しいのだ。
「お父様こそ分かっていらっしゃるの? お姉様がピクニックへ行くと言ったのです! 敷地内でも良いの。私はとっても嬉しいのです。お兄様! ありがとう!」
ルドヴィーグ伯爵は苦笑しながら、実は喜んでいた。ブルーナが外へ行くと言った。それだけで何かが変わるように思う。ルドヴィーグ伯爵の目尻に少し涙が浮かんでいた。
漸く、ブルーナを外へ連れ出す手立てが出来た。この日ラディウスは、満足して城へと帰って行った。
敷地内なら安心だと、ブルーナは外へ出る事を了承します。
ラディウスもエレーヌも大喜びです。




