41 ブルーナの冬
この長い冬の間、ブルーナは幾度も発作に襲われた。
気温が下がると、心臓は体を巡る血液を手足の隅々まで行き渡らせようと無理をする。暖かい時には同じ行動でも気にならないが、冷たい冬の空気の下ではどうしても無理が来る。
冬に入る前、ラディウスの度重なる訪問と、異教徒の教典の存在をラディウスに知らせた事で、ブルーナは少し肩の荷が下りたように感じていた。それと共にあの経典の存在を知るラディウスと意見交換ができるのだ。それをブルーナは心待ちにしていた。だが、本格的な冬がきてしまい、十字軍の準備に忙しいラディウスはここへは来なくなった。
ガッカリする気持ちは体にも影響を及ぼすのか、この冬、ブルーナはベッドで過ごす事が多くなった。そして今は熱を出している。
雪の降る中を、医師は駆け付けてくれた。だがその医師も老体に鞭を打って来てくれている。薬を多めにもらったが、目に見えて飲む薬の量が増えていった。
「この一回の量ではもう効きが悪くなってしまったのかも知れんな……」
老医師ピエール・アザックはエルダにそう呟き、エルダは黙ったままピエール医師を見つめた。
「このまま量を増やした方が良いかもしれん。一回の量を……この冬の間だけ増やして、様子を見るしかないでしょうな……」
ピエール医師の表情は冴えない。ブルーナの容体はあまり思わしくないという事だ。エルダは口を引き結んだ。お嬢様はまだこれからなのに。感情が高ぶり、涙が出そうになるのをエルダは必死で堪えた。
——今までだってお嬢様は、幾度となく危ない状態を乗り越えてきたわ。こんな事では負けはしない……。
「この熱が下がればまだ少し心臓への負担も減ると思うのだがね。熱を下げるにはこの煎じ薬を飲ませなさい。エルダ、あんたが参ってはブルーナお嬢様は治るものも治らんよ」
ピエール・アザック老医師は雪がやむと共に帰って行った。
エルダはブルーナの眠るベッドの脇に簡易ベッドを持ち込んだ。エルダは心配で夜も眠れず、頻繁にブルーナの部屋を訪れていた。それを心配したルドヴィーグ伯爵が用意してくれたものだ。
そのベッドの横に置いてある椅子に座り、エルダはブルーナの寝顔を見つめた。
この冬、ブルーナはいつもの冬以上に発作の回数が増えた。ピエール医師は成長と共に身体のバランスが薬と合わなくなったのだと言っていた。だが、薬を増やせば良いというわけでもなさそうで、ここの所は様々な調合の薬を試してきた。そうして今日、今までの薬の量を増やす事になったのだ。
去年の冬は今までになく調子が良かった。今年はもっと良くなるだろうと思っていた。エルダはツイッと立ち上がるとブルーナの額に乗せている濡れた布を取った。サイドテーブルの上に載せている桶の水に布を浸し、ギュッと絞ると広げてまたブルーナの額に乗せる。
少しだけ苦しそうに息をするブルーナの手を取ると、エルダはその熱い手を握り、祈るように自分の額につけた。
——どうか神様、お嬢様の容体を少しでも早く、良くして下さいませ……。
窓の外には雪が積もっている。中庭の木々の枝の間を風を伴った雪が舞って行く。
ヒュルーという寂しい風の音がして、エルダは薬を煎じるために立ち上がった。窓辺のカーテンを片方だけ引き、暖炉の薪の状態を見て水を汲みに部屋を出る。
冷たい廊下はまだ明るいにもかかわらず静かだ。エルダは台所へ続く廊下へ入ろうとした時、声をかけられた。
「エルダ……ブルーナお嬢様の容体はどうだね?」
それは侍従長のハンスだった。
「はい、まだ熱は下がりませんが……アザック様が煎じ薬を置いていって下さいましたので、そのための水をもらいに行くところです」
「そうか……伯爵様が気になされて、何度も聞かれたのでね……」
ハンスは微かに笑い、心配そうにブルーナの部屋のある廊下の先を見つめた。
「この薬を飲んで熱が下がれば、心臓への負担は減るとアザック様は仰いました。必ず飲ませますので、伯爵様にはそうお伝えください」
「わかった……君は大丈夫かね? ちゃんと眠れているかね?」
「えぇ、私は大丈夫です」
エルダが笑うと、ハンスはホッとした表情をした。
「では、必ず伯爵様には伝えておくよ」
エルダは礼をして台所への廊下を進んだ。台所には汲み上げたたっぷりの水がある。それを鍋にもらい部屋で暖炉の火にかけるのだ。
台所に入るとフィアが居た。
「エルダ……ブルーナお嬢様はどうなの?」
「えぇ、まだ熱が下がらないの。熱さえ下がってくれたら少し楽になると思うんだけど……」
フィアは心配そうに大きな水樽の蓋を開けた。
「ありがとう」
「良いのよ、こんな事。お嬢様が好きなスープの出汁は取ってあるから。飲めそうな時には声をかけてね。直ぐに作れるようにしておくから……」
そう言いつつフィアはエルダの顔を覗き込む。
「エルダ、あなたもちゃんと食べなきゃ。ちょっと待ちなさい。今、良いものをあげるから……」
フィアは背を向け台所に併設している食糧庫の中に入った。そして直ぐに出てきた時には手に小さな瓶と布を持っていた。
「これは生姜湯よ。はちみつ と生姜で作ったものなんだけどね。お湯に溶かせば体が温まるわ。そしてこちらは木の実を砂糖で絡めたもの。少し食べると元気が出るわ」
布を外すと小さな皿にクルミや豆を砂糖で固めたものが入っていた。
「ありがとう、フィア。後でいただくわ」
「えぇ、ご飯の時にまたいらっしゃい。それまではお嬢様を頼むわね」
「はい」
エルダはフィアに笑って見せた。
フィアはエルダより十五歳年上で、料理が好きでこの世界に入ったのだと聞いている。優しくて人懐こく、エルダにはお姉さんのような存在だった。
エルダはフィアにお礼を言い、瓶を大事にポケットに入れ皿と水を入れた鍋を持つと、ブルーナの部屋に急いだ。
部屋に入ると、そのまま暖炉のフックに鍋を掛け、瓶と皿はテーブルに置いた。
ブルーナを見やると額から冷やした布が落ちていた。エルダはブルーナの額の布に手をやる。まだ少し熱い。もう一度、布を桶の水に浸し絞るとブルーナの額に載せた。
エルダは側の椅子に座った。ブルーナの傍にあるもう一つのサイドテーブルの上には水差しがある。煎じた薬は冷たい水で薄めた方が飲みやすいかも知れない。水差しの中を除くと水はまだたっぷりと入っていた。
エルダはホッとしてまた椅子に座った。
もう何度こうして布を水に浸しているだろう。ブルーナの顔は熱で少し上気し、皮肉なことに顔色がよく見えている。頬を赤くして目を覚ましていつものように「エルダ?」と呼んでくれたら、お嬢様はどんなに可愛らしいだろう。
——いいえ……もうお嬢様は大人ですもの。可愛らしいでは駄目ね。美しいと言わなきゃ……。
年齢的に大人になってはいるものの、ブルーナはまだ成熟はしていない。熱が下がれば、また青白い肌に戻るのだろうか?
——このまま頬が赤いまま、元気にならないかしら……。
エルダはそんな事を考えていた。
気が付くと鍋のお湯が沸いていた。
エルダは厚手のミトンを手にし、鍋の持ち手を金具から外すと、暖炉の横に並べてあるレンガの上に鍋を置いた。その鍋のお湯を柄杓ですくい、粉末の薬を入れた碗の中に入れるとしばらく放置する。
冬の空気の中では少し放置すると温度は下がる。その後はスプーンでかき混ぜ、水差しから水を少し混ぜた。飲めるくらいに冷ますと、エルダはブルーナのサイドテーブルに薬の碗を置いた。
「お嬢様? お薬を飲みましょう」
エルダがブルーナに声をかけると、少しブルーナの瞳が動いた。エルダは濡れた布を外し、ブルーナの首の後ろに手を入れ持ち上げる。少しブルーナの肩が上がったところで自分の肩を添わせると、ブルーナはエルダに寄り掛かった状態で上半身が持ち上がった。
「さぁ、お薬です。これを飲めば、熱が下がります。少し楽になりますからね……」
優しく声をかけながら、エルダは碗をブルーナの口元へ持っていく。ブルーナは薄っすらと目を開け、口元にある碗に口を付けるとコクコクと飲んだ。
ようやくエルダの顔に笑みが浮かんだ。
「全部飲めますか? 無理なら半分でも良いのですよ」
「……全部、のむわ……」
ブルーナの声は掠れていた。もう少し頻繁に水をあげた方が良いのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
「早く、良くなりたいもの……」
ブルーナは苦い薬を全部飲むと息を吐いた。
「お嬢様は頑張っていらっしゃいます。明日はきっと良くなりますから……」
ブルーナはコクリと頷いて寝かされるとまた眠りに落ちた。
明日にはきっと熱は下がる。エルダはそう信じてブルーナの傍に付き添っていた。
次の日、ブルーナの熱は下がらなかった。だが、身体は少し楽になっていた。さらに一日寝込んだが、熱が下がると後は回復が早かった。
熱が下がれば食欲が湧く。ブルーナが少し痩せてしまったように見えるのをエルダは心配していた。
「エルダ……お腹が空いたわ。フィアにスープをお願いできないかしら……」
朝目覚めた第一声にエルダは微笑んだ。
「直ぐにお持ちいたしますね。先に水を飲んでお待ちください」
「水ではお腹が満たされないわ……」
「良いのです。後でちゃんとお持ちいたしますから、水を先に飲んでください」
ブルーナは渋い顔をしたが、エルダは許さなかった。カップの水を全部飲んだところで、エルダが「お待ちくださいね」という声を残し部屋を出て行った。
エルダは踊るように台所のフィアの元へ急ぐ。その目尻には薄っすらと涙の跡があった。
後もう少しすれば春が来る。ブルーナが過ごしやすい季節にはまだ数ヶ月ある。それでも季節は変わるのだ。エルダはホッと胸を撫で下ろした。
冬の間のブルーナの容態の変化とエルダの様子です。
中休みのような感覚ですので、サラリと呼んでいただいても大丈夫です。




