40 ラディウスの弟
ウルバヌス二世の正式な勅令は、十一月に行われたクレルモンでの教会会議で発せられ、各国はその準備に取り掛かっていた。東に向けての出発は次の年の夏である。移動を考え、外で野宿をしても体力的に問題のない夏に、出兵する事となった。
ルガリアードの街でも、ある者は自分も軍に加わりたいと名乗りを上げ、ある者は十字軍のために物資を提供し、ある者は馬を提供した。
だが、大抵のルガリアードの民は、のほほんと今後の成り行きを噂し合った。
「キリスト教徒が戦いをする事を神はお許しになると思うか?」
「いや……こればかりは分からんが、聖戦ならお許しになるんじゃないか?」
「聖戦って言ったって、人を殺すんだ。それ以上の罪はないだろうよ」
「わからねぇなぁ。何で結構幸せに生きているのに戦いなんぞするのかねぇ?」
「それはお前、聖地の奪還を掲げてるからだろ?」
「聖地っていやぁエルサレムだ。ここを奪還しなきゃ巡礼にも行けない。必要な事だ。元々は我々キリスト教徒のものだぞ」
人々はこのルガリアードからも兵を出すが、所詮、それは騎士達の仕事であり自分たちには関係ない、と遠くの国の出来事として話していた。
実にのどかに、実に実感なく、人々は噂を広げた。
ラディウスのすぐ下の弟エリウス王子が軍を率いる事に決まった。兵の数は少ないが十字軍の遠征を重要視している事を印象付けるためである。
ブルーナとラディウスが出会ってから、二度目の冬が来る。直に冬が訪れるがラディウスはルドヴィーグ伯爵家を訪れる回数が減っていた。十字軍遠征の決定はラディウスをいつも以上に忙しくさせた。
情報の仕入れ、兵士に持たせる盾と矛や剣などの武器の確保、馬の手配、食料の調達、物資の輸送の確保、やらなければならない事は多くあった。
ラディウスはあの驚くべき異教徒の教典を読んだ後から、なかなかルドヴィーグ伯爵家に行けないことを気にしていたが、こればかりはどうしようもなかった。
冬がくる前に遠出を企画したかったのだが、それは叶いそうにない。
「先の話になるな……」
呟いたラディウスの言葉にカミルが反応した。
「何が先なのですか?」
「いや……十字軍の事だ……」
ラディウスは誤魔化した。今この状況でルドヴィーグ伯爵家に行きたいなど口にするわけにはいかない。
「……オルガード侯爵より書状が届いております」
「またか……」
カミルがラディウスの目の前に手紙を置いた。それを見るなりラディウスは溜息をつく。出兵数を五百人と決めてからほとんど毎日オルガード侯爵から書状が届いている。
内容はもっと出兵数を多くして欲しいというものだ。
「内容を確認いたしますか?」
「変わらぬと思うが、開けてみてくれ……」
カミルが内容を確認すると、彼は手紙をそのままゴミとして丸めてしまった。
「同じ文章では芸がないですね。紙の無駄です」
「……紙の無駄だと返事を書いてやれ」
「良いんですか?……本当にそう書いて出しますよ」
目を細めるカミルにラディウスは肩を竦める。
「……冗談だ。彼に関わると色々と面倒だ。決定事項は変えられないと伝えよ」
「はい、承知いたしました」
カミルは執務室を出て行った。ラディウスの執務室の窓から見える風景は葉を落とした広葉樹の樹木が見えていた。遠くには常緑の木も見えるが色合いは寂しいものだ。準備を終えたら、弟のエリウスに状況を話さなければならない。
そう思いつつ、来夏に本当に十字軍の軍隊が遠征に行くのだろうかとも思う。ラディウス自身、実感がまだない。準備は着々と整えつつも、半信半疑であるのも事実だった。
冬が深くなり雪が降り積もると、ルドヴィーグ伯爵家には行けなくなった。
だがその冬のラディウスは忙しくしていた。ブルーナから教わった、はるか東の彼方の国の異教徒の教典、そこに書かれていた事が頭から離れない。同時に、十字軍の準備も着々と進めていた。
ラディウスはその日、エリウスを呼び出した。
夏になり気候が落ち着けば弟のエリウスは出兵する。ブルーナと書庫で話した通り、西ローマと東ローマの問題はオルファ王に進言し、指揮官にのみ知らされる事となった。
ラディウスの執務室に呼び出しても良かったが、ラディウスは自室にエリウスを呼び出した。やはり人の目のある場所より自室の方が都合が良い。
「兄上、お呼びだと聞きました」
ラディウスと同じくらいの背の高さのエリウスは、髪はラディウスより少し長く、纏う雰囲気は少し薄情に見えるが、意思の強さを思わせる瞳の色は、角度によって色が変化して見える不思議なグレーをしていた。
「あぁ、来たか……」
ラディウスは窓辺のテーブルについて外を見ていたが、エリウスが入って来ると椅子を勧め、彼は素直に正面の席についた。
「で? 話とは何です? 戦いに赴く弟へ手向けの言葉ですか?」
エリウスは冗談とも取れる言葉をラディウスに吐き、侍従がテーブルに酒を置いて二人を残し下がるとラディウスは口を開いた。
「今度の十字軍についての西と東の情報を伝えておこうと思ってな……」
「それは兵士らの前で伝えるべきではないですか?」
ラディウスは酒の瓶に手を伸ばし、自分とエリウスの杯に赤く色付いた葡萄酒を注いだ。ほのかな葡萄の香りが立つ。
「いや、情報はお前に伝えておく。お前の判断で指揮官にのみ伝えるかどうかを決めよ」
「何です? 深刻な情報ですか?」
「事によってはな……」
ラディウスは杯を目の高さに持ち上げた。エリウスもそれに倣い二人はそれぞれの杯に口をつけた。濁りのない赤い液体は芳香を立たせながら喉へと落ちてゆく。
「美味いですね……」
「三年前の生育の良かった葡萄で作った酒だ。まだ若いがスッキリとした味わいだな」
「えぇ……私の好みに合わせましたね。兄上はもっと年数の経った深いタイプがお好きでしょう?」
「まぁね」
エリウスの指摘を受けラディウスは笑った。
「それで、伝えておきたい事とは?」
「うむ……お前は東ローマの事をどこまで知っている?」
「入って来る情報から判断すると……あの国は戦いに疲れているようですね。周りの国からのひっきりなしの攻めで疲弊しているのでしょう……」
「あぁ、今のところは、持ち堪えているがな。どう足掻いてもこのままでは押される」
「だから十字軍なのでしょう?」
ラディウスはエリウスを見て微かに笑った。
「そうとも言えるが……恐らく、事態はもっと深刻だろう」
「と言うと?」
「このままでは東ローマは滅びるという事だ」
歴史の中で大国が滅びる様は幾度となく繰り返されている。東ローマ帝国もまた同じなのだ。そう言いたげなラディウスにエリウスは異を唱えた。
「ですが、西ローマが黙ってはおらぬでしょう。東が滅びれば異教徒が雪崩れ込む。それを阻止するため、十字軍遠征もその一環だと思いますが……」
ラディウスはエリウスを見た後、脇にあった台の引き出しから何かを取り出し、テーブルの上においた。
「これは? 貨幣ですか?」
エリウスはそれを手に取った。それは確かにコインだったが、劣化して表面の文字が読めない。これではどこの国の物かも、どのくらいの価値があるのかもわからない。
「これは、いつ頃のものですか?」
「見て分からぬか? これはここ十五年ほどで広まっているノミスマ金貨、東ローマ帝国のものだ」
エリウスは驚いてラディウスを見た。黒く汚れたコインは金貨だと言われても到底信じられるものではなかった。金であれば簡単に劣化はしない。
「まさか……これは金貨ではないでしょう?」
「いいや、金貨として製造されたものだ」
「しかし……この劣化はあり得ない……」
「金に銀や銅や鉄を混ぜている。東ではここ何十年もの間そうしていたが、その含有量がこのノミスマ金貨においては金自体を殆ど使っていないのだ。これが意味するところがわかるか?」
「……つまり、殆ど財がないと?」
「そういう事だ……他国から攻められても、もはや兵を雇う力もないのだろう。だから西ローマに助けを求めた」
エリウスは驚愕して手の中のコインを見つめた。では今、帝国は荒れに荒れている可能性がある。
「まぁ、東ローマ帝国と西ローマの主導権争いは、これからも続くだろう。だが、東ローマを潰す訳にはいかない。さらに東のペルシャの存在がある。このルガリアードや西ローマが保たれているのは、東ローマがあるからだ」
エリウスの表情が引き締まった。
「私は東ローマ帝国の現状が知りたい。お前に状況を見てきて欲しいのだ。コンスタンティノープルの現状を……」
エリウスはようやくニヤリと笑った。
「兄上が私をこの時間帯に呼ぶという事にいささか違和感を覚えていたのですが。やはりそういう事ですか……」
「何もおかしい事はあるまい。ルガリアードは小国だ。今は教会指導でうまく十字軍を制御できているが、これから先もうまく行くとは言い切れぬ。この先のことは状況を読まねば判断はできぬ」
「しかし東ローマがこのような状況であるとはね……」
「先に情報を与えておきたかったのだが……訳ありは東だけではないぞ」
「まさか、西にも?」
ラディウスの言葉にエリウスはまともに顔を上げラディウスを見た。その瞳に苦笑するラディウスが映る。
「西はようやく辺境との戦いが終わり平和が訪れた。しかし、そのために辺境から戻った無法者達が街を荒らしている。その厄介払いとして、手っ取り早く十字軍を編成した可能性が高い。恐らく、兵士は訓練されていない者も多いだろう」
「つまり?」
「つまりは西側の領土を広げ、そこに人員を送り込むための先駆けだ」
エリウスは深い溜息をついた。
「何のための十字軍なのだかわからないな……」
ラディウスは笑った。
「建前重視、国の運営とはそういうものだ。だが我がルガリアードはその轍を踏まぬように生き残るしかない」
「この戦いは我らにとって、意味はあるのですかね?」
エリウスは杯の葡萄酒を飲んだ。ふわりと葡萄酒の芳しい香りが鼻腔を抜ける。舌には程よい甘みとスッキリとした渋みが残った。
「つくづく美味い葡萄酒ですね……兄上」
「ならば、もっと飲め」
ラディウスはエリウスの杯に赤い葡萄酒を注いだ。
「あの鋭いウルバヌス二世のことだ、もっと根深いものがあるかもしれぬ」
「あぁ……神聖ローマ帝国のハインリヒ四世との任免権争いですか?」
「まぁな……彼は前教皇グレゴリウス七世の右腕だった。国の王や皇帝より強い権限を欲している。教皇とは名ばかりの俗物まみれだ」
うんざりしたようなラディウスの言葉にエリウスは大笑いをした。
「エリウス、笑い事ではないぞ。ではここで質問だ。北と東から常に狙われている、あの東ローマ帝国がここまで保っていたのは何故だと思う?」
「……東に張り出した要塞のお陰でしょうか? 堅固な要塞だと聞き及んでいます」
「あぁ……だが、それだけではない」
ラディウスは葡萄酒を一口飲み、笑った。
「確かに堅固な要塞を持ってはいる。だが、それにも勝るもの……それは人材だ。皇帝につく政治を動かす者達の品位と秩序によって、あの国はここまで保っていた。そして自由な市民の特質もそれを後押ししていた。ところが、ここの所の品位は落ちている。貨幣に銀の含有量を増やした時点でもう駄目だ。三年ほど前からまた新たな貨幣が作られた。それは一番ひどい状況のこのノミスマ金貨からは幾分マシだが……西の勢いには遠く及ばない」
「…………」
「今、東ローマより西に勢いがあるのは、人材が揃っているからだと見ている。成熟し切った帝国に、もう力は残っていない」
溜息をつくエリウスの杯にラディウスは酒の瓶を傾けた。きらびやかな赤い液体が杯に注がれる。エリウスはそれを眺めながらボソリと言った。
「必ず……兄上に有効な情報を持ってきますよ」
「だが、無理はするな。お前はルガリアードにとっても私にとっても大切な人材だからな」
そしてラディウスはエリウスの杯に自分の杯をコツンと当てると真剣な表情になった。
「死ぬなよ、エリウス……必ず戻れ」
エリウスはその瞳を見つめ不敵な笑みを浮かべた。
十字軍遠征に賛同している事を示すため、エリウスが戦地へ行くことになります。
エリウスは一つ年下の弟。
ラディウスとライバルのように育ちました。
というより、弟のエリウスが勝手にライバル視していたわけですが……




