39 ルドヴィーグ家の夕食で
侍従長が扉を開き中に入ると大きなテーブルに伯爵夫妻が待っていて、もう一人分の食事の準備がされていた。流石に五歳のエレーヌは一緒に食べる事はないのだろう。
テーブルの上には蝋燭の燭台が三つ置かれ、それぞれに蝋燭が立てられている。部屋の四隅と壁の中間にも蝋燭が立てられ、部屋の中は比較的明るく見えた。すでにいつでも食べられるように、果物が盛られた陶器のボウルが置かれている。
「食事の招きに感謝する」
ラディウスが席に着いたと同時に待っていたというように料理が運ばれて来た。ルドヴィーグ伯爵は馬を和ませるように口を開く。
「随分と書庫に籠っておいででしたね」
「あぁ、調べ物をしていてつい夢中になってしまった。城の書庫はここらの小国の中でも一番の書籍数を誇っていると思っていたが……ルドヴィーグ伯爵の書庫の方がさらに多くの書物があるうえ、過ごしやすい。実に有意義に過ごせた」
満足そうなラディウスに対しリリアナは少し不安そうに恐る恐る口を挟んだ。
「それは良うございました……それで、あの……娘はお邪魔ではありませんでしたか? その……失礼な事をしてはいませんか?」
「ブルーナ嬢の事か?」
「えぇ、そうでございます……」
ラディウスは笑った。
「初めて彼女に会った時、伯爵も同じ様な事を言ったが……失礼どころか彼女との話はとても面白い。彼女は思考力、考察力、分析力、いずれの能力も非常に高い。そうだな……彼女が男であれば、私の参謀として即行城へ迎え入れていただろう」
「まぁ……参謀ですか?」
リリアナは意図していない返事が返ってきた事に驚いた。そしてその複雑な心境を隠すように戸惑いながら微笑む。ルドヴィーグ伯爵が安堵するような小さなため息をついた。
「お役に立てているのなら良いのですが……ラディウス殿下は以前、城の文官として勤めさせる気はないかと打診されましたので」
「今も話しながら誘っているのだがな……もう何度も断られている」
ラディウスはルドヴィーグ伯爵に笑いかけた。
「実際の所、彼女を館の中に隠しておくのは勿体無いと思うが……彼女の相手がああさせているのか?」
ラディウスの言葉の意味がわからなかったようで、ルドヴィーグ伯爵とリリアナは戸惑うように顔を見合わせた。
「何だ? 何かあるのか?」
「あぁ、いえ……その……何と申しますか……隠しているわけではなく、本人が出たがらないのです」
ラディウスはナイフの手を止める。
「出たがらない?」
「はい……一昨年、『すずらん祭り』の舞踏会に行かせたのです。そこで友人になった令嬢は嫁いで行かれました。その結婚の儀の参加を最後にブルーナはそれきり外へ出る事を拒んでいます」
「去年の話だな……今年の春の舞踏会には誘ったのだが、行かないと断られた……アリシア妃の結婚の儀以降、外へ出ていないのか……」
ルドヴィーグ伯爵は目を丸くした。
「殿下がブルーナを舞踏会へ誘ったのですか? そしてブルーナが……ラディウス殿下のお誘いを断ったのですか?」
「おかしな事ではあるまい。リングレントでブルーナ嬢には会っている。晩餐会も身内として共に参加した」
ルドヴィーグ伯爵は更に驚いた。
「……何だ? 伯爵。ブルーナ嬢より話は聞いていないのか?」
「あぁ……いいえ、何と申しますか……娘はあまりそういう事を話さないもので……」
ラディウスはふと自分たちの家族を思った。確かに一から十まで家族に全て話す事はしない。だが、大事な事は親子だと話すのではないのか? ルドヴィーグ伯爵家はそれがないのだろうか。
現にアリシアが友人である事は知っているではないか。ならばリングレントで自分と会った事は話していてもおかしくはない筈なのに……。
様々な疑問がラディウスの頭を掠めていった。書庫で過ごしてばかりいるブルーナが、目の前の夫妻とともにいるところを見た事がない。エレーヌとはよく話しているようだが……。
ラディウスは、初めてここへ来た時、ルドヴィーグ伯爵がブルーナを紹介しなかった事を、ブルーナにはもうすでに誰か相手が居るからだろうと考えていた。書庫へ行っても彼女がいない事は今もたまにある。それをラディウスは知らず知らず、ブルーナの婚約者の所へ行っているのだろうと思い込んでいた。だが今の話からすると家からは出ていないと思われる。
ならば彼女の婚約者は誰でどこに居るのか? そして家にいるのであればなぜ自分に会いに来ないのか?
書庫で過ごす時間が有意義すぎて、ラディウスはその部分を考えた事がなかった。
「少し聞いておきたいのだが……」
ラディウスはルドヴィーグ伯爵の顔を見つめた。
「はい、お答えできる事であれば……」
「ブルーナ嬢の相手は誰なのだ?」
ルドヴィーグ伯爵はリリアナと顔を見合わせる。
「相手とは?」
「ブルーナ嬢の婚約相手の事だ。知っておきたいと思うのだが……」
ルドヴィーグ伯爵とリリアナはまたもや顔を見合わせた。
「言えぬような相手なのか?」
「あぁ……いいえ」
ルドヴィーグ伯爵の顔は戸惑いに溢れている。
——何なのだ? この空気は……。
ラディウスが黙って二人を観察していると伯爵が小さく息を吐いた。
「ブルーナには相手はおりません。あの子は……生涯、結婚はしないでしょう」
今度はラディウスが驚いた。
「……結婚はしない? 相手はおらぬのか?」
「はい、ブルーナはそういう事を全て嫌がります。それに私もそれで良いと思っているのです」
「いや、待て。それは駄目だ。あの知性をそのまま置いておくなど……それは駄目だろう……」
「いいえ、あの子が望まないのですから、私たちはそれで良いと思っています……」
ラディウスは眉間に皺を寄せた。
どういう事だ? ブルーナは一人なのか? 何故だ? 美しく知性がありユーモアも持ち合わせている。優しい部分も見え隠れし、表へ出れば結婚相手などすぐに見つかるはずだ。
——現に私は……。
一瞬ラディウスは動きを止めた。ラディウスは少し高揚している自分に気付いた。自分は今何を考えようとしていた? 自分にはエレーヌという婚約者がいる。ブルーナの相手は自分ではない。しかしブルーナに相手はいない、その事に動揺している自分がいる。
「ラディウス殿下?」
ルドヴィーグ伯爵に呼ばれラディウスはハッとして顔をあげた。
「あぁ、何だ?」
「いえ……我々は書庫での二人の交流を邪魔する事は致しません。殿下はもちろん、あの子も有意義に過ごせているようですので……ただ、ブルーナの事はそっとして置いて欲しいのです。あの子の好きにさせておきたい」
ルドヴィーグ伯爵の親としての心情がその瞳に見えた。ラディウスは少し違和感を持った。何故そこまでブルーナを隠そうとするのか。だがルドヴィーグ伯爵の静かな瞳を見るとそれ以上は追求できない。きっと伯爵はそれ以上は話さないだろう。何かがあるのだと思うが、問い質すこともできない。
「殿下、こちらの煮込み料理も美味しゅうございますよ。頂いてみませんか?」
黙り込んだラディウスにリリアナが話しかけた。
「あぁ、貰おうか……」
従者が料理を取り分け、ラディウスの皿に料理が乗せられた。赤茶色のもったりとしたスープに絡んでいる肉は、崩れた野菜と共に食欲をそそる良い匂いがする。
ラディウスは大皿に乗った羊の肉の煮物を頬張った。
「……美味いな」
「それは良かった。我が家の料理人がラディウス殿下に食べてもらうのだと緊張しておりましたので……伝えておきます」
ラディウスはブルーナの事は気になったが、目の前の料理に舌鼓を打った。その料理の横に白いスープが置かれた。彼はスプーンでそれをすくい、口に運ぶ。
「あぁ、このスープも非常に美味い」
それを聞いたルドヴィーグ伯爵は顔を綻ばせた。
「これはブルーナも好きなスープで……」
そこまで言って一度言葉を止めると、伯爵は苦笑した。
「殿下、失礼を承知で申します。あの子は客人との食事を避けるもので……先程までご一緒していたのに、今ここにいない事を悪く思わないでください」
これにはラディウスも苦笑した。
「悪くは思わぬ。彼女も階下で本を読んでいたのだ。疲れたのだと理解している」
ラディウスは気にしていないと笑った。その笑顔は実に晴れやかだった。
食事の後、ラディウスはデュランと共に馬を駆っていた。
夜は更け空には星が瞬いている。西の空には少し欠けた月が見えていた。そして月は夜道を明るく照らしている。
ラディウスは自分の心の中の高揚感を表に出さぬよう苦労をしていた。ブルーナには婚約者はいない。その事実にラディウスは喜びを感じている。
(婚約者が居ないというのなら、心置きなく文官への勧誘が出来るではないか……)
そう思う事で心にある高揚感に理由をつけていた。
思えばブルーナとは不思議な娘だった。ここのところ頻繁に会い、交流を持ったからか今は友人としても相談役としてもなくてはならない人物になりつつある。だからなのか初めのトゲトゲした物言いが懐かしくすら感じる。
「殿下?」
デュランが声をかけてきた。
「何だ?」
「いえ、考え込まれているようにお見受けしたので……大丈夫かと……」
ラディウスは笑った。
「何も心配する事はない」
そう答えながら、ラディウスは隣を行くデュランを見つめた。デュランは訝しげにラディウスの瞳を見た。
「何か?」
「……いや」
ラディウスは朗らかに笑った。信頼できる人間、ブルーナとデュランには共通する空気感がある。ラディウスはそれを今実感して感じていた。
「ブルーナを遠出に連れ出すぞ」
不意にラディウスはそう言い、デュランを横目で見て笑った。デュランは真意が掴めず一瞬悩んだがいうべき事はわかっている。
「左様ですか? 上手くいけば良いですね……」
「あぁ……上手くいかせるさ」
二人は城への道を急いだ。
ブルーナには婚約者はいないことを知ったラディウス。
さて、どうするのか……




