38 もう一つの禁書
宗教の概念については、ファンタジーの世界観としてお読みください。
特にブルーナの場合、特殊な環境の中で生きたブルーナの思想感でしかないので、誤解のないようお願いいたします。
あの書庫での見解の後、ルガリアードでは二週間を得て十字軍の遠征出兵が決まった。それはもう動かせない決定事項として城下に知らされ、国の上層部も民衆も戦いに備えて走り回った。
この日、ルドヴィーグ伯爵家の書庫では、ラディウスの訪問を受けブルーナとラディウスは話をしていた。言わずと知れた十字軍のことである。
来夏の十字軍の出兵が決まった事で、ラディウスは少しホッとしていた。
「今、私たちに教えられている神とは一体何なのかしら?……」
いつにも増してブルーナは考え込んでいた。十字軍の遠征の真の目的はエルサレム奪還ではないと考えたからであるが、そもそも人を殺すためにキリスト教徒で軍隊を作る、それ自体がおかしいのではないかという議論になっていた。
「信じられていた神々が覆されるという事態はすでに起こっている。『ギリシャ神話』がそうだ。イエス・キリストが出現する以前の世界では、当たり前にギリシャ・ローマ神話の神がいわゆる神だとされていた訳だからな……」
「それよりもローマ教皇は神を説く人であって国の王ではないはずなのに、権限はそうも欲しいものでしょうか?」
それを聞いたラディウスは、突然笑い出した。
「何が可笑しいのです?」
「何がって……君は教皇にすら意見する気なのか?」
眉間に皺を寄せるブルーナに、ラディウスはまた笑い、おもむろに手を伸ばすとブルーナの眉間を指で優しく押さえた。
「ほら、また眉間に皺を寄せている……」
ブルーナは口惜しそうにそのままラディウスを見た。ラディウスはブルーナの額から手を離しまた笑う。
「教皇に意見する意味ではないですわ。失礼な方ね」
ブルーナの少し怒ったような表情を眺めながらラディウスは嬉しかった。たまに見せるブルーナの不意の表情から自分との距離の隔たりが無くなりつつあるのが伝わるのだ。
「わかっている、冗談だ。まぁ……教皇についてはこう考えられないか? いくら神を信じる者の集団の長だとしても、所詮人間に過ぎない。神の思いなど人間ごときが推し量るなど出来ないのだ」
「……つまり?」
「つまり、全ては人間の行動に過ぎないという事だ。戦を行うのも、平和を望むのも、宗教だって人間の作った物だろう? 聖書は正しいと思う人の行いを神の言葉として書き綴ったものだ」
ブルーナは黙ってラディウスを見つめた。
「……殿下、貴方は神を信じていないのですか?」
「いいや。神はいると信じている。ただ、人間の作った物には必ず綻びがあると思っているだけだ。同じ聖書を読んでもそれぞれの思いで如何様にでも解釈出来るなど、都合が良すぎるではないか? 考えても見ろ、神を持ち出した所で人は殺し合いを合法化しているだけだ。十字軍や聖戦はその際たるものだと思うがな。だからこそ、上に立つ者の意思が善良でなければならないのだ……ん? これでは教皇に意見したいのは私の方かも知れんな。まぁ……君以外の者には言えない意見だが」
真剣な表情をしているブルーナにラディウスは微笑んだ。
「とは言え、教皇にも教皇領がある。その中では王と同じだ。善良だけでは国を統治する事は出来ない。全ての物を国の民の幸せを考えつつ選択して進まねばならぬ。その時に必要なのは知識や情報と経験、それから少しの直感だろうか……まぁそうだな、自分の事ばかりは考えていられない。それが王たる者の務めだ」
ブルーナは黙ってラディウスを見ていた。その瞳の奥に何か言いたげなものを感じラディウスは口を開く。
「何だ?」
ブルーナは少し目線を外すと席を立ち、黙ったままテーブルを周り出口の方へ歩き出した。
「ブルーナ?」
それを視線で追いながら、ラディウスは自分の意見がブルーナを怒らせたのかと急いで席を立ち追いかけた。
「考えてみろ。十字軍の遠征が神の望んだ物なら常に勝利し続けるはずだろう? だが私には神がそれを望んでいるとは思えない。今回の遠征は負けることも念頭においている。人間のエゴに対して、神は常に傍観している。人の心を作るものは経験だと言うが、神は決して自ら動く事は無い」
数歩先を行っていたブルーナが不意に立ち止まり、ラディウスを振り返ると神妙な面持ちのまま口を開いた。
「ついて来て下さい……貴方に見せたいものがあるの」
ブルーナは二階への階段を上り始めた。そのまま二階を抜けブルーナは三階へと上がって行く。ラディウスはブルーナについて行きながら、見せたいものの正体を考えた。
先程まで饒舌だったブルーナが何も言わず、ただ見せたいものがあると言うのは相当な物に違いない。ブルーナは三階を抜けさらに四階へ、そして最上階の五階へと上がっていく。五階にも本が並んでいるが、階下の書棚とは少し違い、分類されていない書籍が数多く並んでいた。
ブルーナはその奥の壁側の本棚に近付いた。その本棚には数冊しか書籍が並んでいない。そして本棚の横のはめ板を外すと奥の空間に手を入れた。
「……」
ブルーナの引き出された手の中には麻紐で結わえられた二冊の書籍があった。一冊は薄いが表面に見た事のない模様が描かれてあり、もう一冊は薄い本に比べ三倍も厚みがありズッシリと重そうだ。
ブルーナはそれを両手でしっかりと持ち、ラディウスを見た。
「それは?」
尋ねるラディウスにブルーナはもう一度確認をする。
「前に『ここで話した議論は外へは持ち出さない』と約束しました」
「あぁ……」
「もう一度ここで誓ってくださいますか?」
やはりこれはそれ相当の物だ。ブルーナの真意を理解したラディウスは大きく頷いた。
「わかった、君との議論は決して漏らさないし、自由に論じる事を阻害しない。ここに誓う」
ラディウスの言葉を受け、ブルーナはラディウスを真っ直ぐに見たまま本を差し出した。
「異教徒の経典です」
「な……!」
ラディウスは驚愕してブルーナを見た。
「何故これがここにあるのかわからないのですが……数年前に見つけたものです。本の状態から推察すると、相当古い物だと思います。多分、父はこの存在を知らない。父は敬虔なキリスト教徒ですもの。この存在を知ったら、この本をどうするか分からない。先ずは私には見せないように何か対策をするでしょう。さすがにこれは禁書だと解ったのでここに隠していました」
ブルーナの言葉は淡々としていた。
「……君はこれを読んだのか?」
「えぇ……東ローマの遥か向こうにトルコやペルシャがあります。でも、これは更にその先にある未知の国のもののようなのです」
薄い本の表紙は複雑な絵柄と見た事のない文字が記されていた。ブルーナが薄い本を開いてラディウスに見せた時、ラディウスは声を上げた。
「何という薄い紙だ……このような技術を持つ国があるのか?」
「私も初めはそこに驚いたのです。薄い方が原書で、厚い方はラテン語で訳された物。中には経典の内容以外に、注釈がビッシリとあちらこちらに書かれてある。こちらの方は殆ど羊皮紙よ。だから、こんなに厚くなってしまったのね」
ラディウスはブルーナの瞳をもう一度見た。
「……何故、この事を私に話す?」
「貴方は以前、私がギリシャ神話が禁書である事を知らずにいた時、それを許してくれました。そして先程、全ては人によってもたらされると言ったわ……神は傍観しているのだと」
ブルーナはニコッと笑った。
「前に『ソクラテスの弁明』の事を話したのを覚えていますか?」
「あぁ……」
「あの時貴方は、ソクラテスは善く生きる事に執着したのだと言った。そして先程は善良な意志を持ち知識と情報と経験で国を統治するのだと……これは知識と情報よ。世界の事を知るのは大事だと思うのです」
「…………」
「貴方なら、これを読んでも柔軟に対応すると思ったのも事実。貴方と私の意見は、真面に聞かれてしまえば、ギリシャ時代ならいざ知らず、どちらの意見も異端視扱いされてしまうわ」
ラディウスはブルーナを見つめた。
「でも、真実はこういう所にも在るものでしょう? これを訳した人は原書を城の書庫に置く事が出来なかったのだと思うの。見つかったら即焼かれるでしょうから……理解しようと必死になった形跡が見え隠れしているわ」
「ブルーナ……私は……」
手の中にある異教徒の経典は、先程までの自由に思う事を論じるのとはわけが違った。広く知られるギリシャ神話とももちろん違う。
「古代ギリシャの神々と古代エジプトの神々、自分の神と国境の先に住む異教徒達の神、私が知っているのはそれ位だけれど……ここにはそうではない物が書かれてある……困った事に、私はここに書かれている事が少しわかるような気がしたの。理解したいと思ったの……」
ブルーナは笑った。
「未知の国ではどんな考えの人達が居るのか、国を率いる貴方は知る必要があると思う。貴方はきっと一つの思考としてこれを活かせるのではないかと思うの。十字軍が神の聖戦ではないのかもしれないと思った時、この経典の中身を思い出したの」
ブルーナの言葉はラディウスの心の底に何かを植え付けた。
「私は自分の意見を言いました。読むのも読まないのも、貴方の自由です」
ラディウスは手にした異教徒の経典を見つめた。異教徒の経典を読む行為は、最も罪深き行為だ。教会では燃やされて当然の禁書扱いの書物。異教徒の経典……これを読むのは先に論じた善良である事に反するのでは無いだろうか?
ラディウスはブルーナの大胆さに驚いたが、知りたいと言う己の強烈な好奇心にも驚いていた。未知の国の者は何を言っているのか、他国の思想の根源がここにある。
異物は排除するべきなのか、融合させるべきなのか……内容を知らなければその判断は出来ない。ラディウスは深く息を吸った。
「悪いが……一人にしてもらえるか。少し考えたい」
ラディウスの言葉にブルーナは静かに頷いた。
「えぇ……私は下に居ます」
ブルーナの降りて行く様子を見ながらラディウスは自分の手の中にある書籍を握りしめ、暫く見つめ考えた。ここにある物は何なのか。ラディウスは異国の経典の表紙を撫でた。知識とは何か、情報とは何か。
表紙に書かれた文字らしき物は美しい模様のようにも感じる。薄い紙は柔らかくページ数が多くても本全体は薄く感じる。
ラディウスは部屋の隅に移動すると床に座り込んだ。自分は今、罪を犯そうとしている。そう思うと手が震えた。少しの間心を落ち着けるように目を閉じ、そして深く息を吸うと本を開いた。
気がつくと、陽は大きく傾いていた。
ブルーナは音のない上階を見つめた。今日は、もうこれ以上ここに留まらない方が良いように思える。様子を見に行こうと立ち上がった時、エルダがランプを手にやって来た。
「お嬢様、もうすぐ陽が沈んでしまいます。そろそろ、お部屋の方に移られた方が……」
そして、その場にブルーナしか居ないのを確認し、エルダは心配そうに言った。
「あの……ラディウス殿下はご一緒ではないのですか?」
「あぁ……あの方は少し調べたいものがあると、上の階に居るわ」
そして、エルダからランプを受け取ると二階の階段へと足を向けた。
「声を掛けてくる」
「あ……お嬢様、ルドヴィーグ伯爵様は、ラディウス殿下と夕食をご一緒にと思われていらっしゃるようです。後で侍従長が声を掛けに参るそうです……お嬢様はご一緒されますか?」
ブルーナは立ち止まりエルダを見た。
「……私は部屋で頂くわ」
「わかりました、では、部屋の方に準備しておきます」
「ありがとう」
エルダが書庫から出て行ったのを確認し、ブルーナは階段を上り始めた。外はまだ陽の光があるが窓から射し込む光は少なく、書庫内はだいぶ薄暗くなっている。
最上階まで上がった所で、先程の書棚の前にラディウスの姿はなかった。ブルーナはひとつひとつ本棚の間を確認しながら窓辺の方へ移動した。
ラディウスは一番奥の窓の光が一番入る場所にいた。本を膝において床に座り込み、書棚を背にして夢中で本を読んでいる。その姿はまるで少年の様だ。彼は時折口元に手をやり考えながら読み進んでいる。その姿を見つめながら、ブルーナはそっと近付いた。
ラディウスは視界の端にランプの灯りを感じ顔を上げた。そこに、ランプを掲げこちらへ来るブルーナの姿があった。
「今日はもう、その辺で止めてはいかがです?」
「……あぁ……」
微笑むブルーナを不思議な思いで見上げ、ラディウスは返事をした。
目の前の女性は、この経典の内容を理解したいと言う。立ち上がり元の場所へ本を戻しながら、ラディウスは質問した。
「ひとつどうしてもわからない事がある……ここに書かれている『悟り』とは何だ? 『神の啓示』とは別なものなのか?」
ブルーナは経典を戻した本棚を見つめ首をかしげた。
「……正直に言えば私にも『悟り』が何なのかわかりません。ただ……その境地に至れば、全てを知る事が出来ると書いてあるわ。『悟り』は真実だと……でも、それが何を意味するのかまでは分からない……」
ブルーナは首を振った。
「……」
ラディウスは腕を組み黙り込んだ。ずっと引っかかっているのはそこだった。神に導かれるのでなければ、一体これは何なのだろう。人が神になれる訳はない。だがどうやってその境地に至るのだろう。『悟り』の境地に至ったら人はどうなるのだ?
その時、階下から二人を呼ぶ侍従長の声がした。
「ラディウス殿下! ブルーナお嬢様! どちらにいらっしゃいますか?」
「上の階にいます! 今、降りますから!」
ブルーナは声をかけラディウスを促した。二人が階段を下りると侍従長のハンスが待っていた。
「ラディウス殿下、今日はもう遅いため、夕食をご一緒にいかがでしょうと主人が申しております」
「ありがとう……私が書庫にこもってしまったせいで、悪かった」
「いいえ、主人は殿下と御一緒出来る事を大変喜んでおります。では、こちらへどうぞ」
侍従長は二人の前を歩き始めた。
ラディウスはその後ろを歩きながら、侍従長に聞こえぬようブルーナにそっと耳打ちした。
「近いうちにまた来る」
ブルーナは何も言わずただ頷いた。
居間へと続く廊下に差し掛かった時、ブルーナが立ち止まった。
「では、ラディウス殿下、私はここで失礼致します」
「え?……」
そのままブルーナも食堂へ行くものだと思っていたラディウスはブルーナを見た。そのラディウスに向かって丁寧に礼をすると、ブルーナは今来た廊下を戻って行く。
「……彼女は共に食事をしないのか?」
「はい、今日はお疲れのご様子で……お部屋で頂くとの事でした」
「そうか……」
ラディウスはブルーナの後ろ姿を見つめた。少し寂しさを感じたが、ラディウスは侍従長に付いて食堂へと向かった。




