36 カミルの嫉妬
秘密の部屋の小さな扉が開いた時、ブルーナはまだ紙の上でペンを走らせていた。
「ブルーナ……少し迎えに来るのが遅れて済まなかった……」
「あ……いいえ、却って都合がよかったです」
ギリギリまで走らせたペンを置くと、ブルーナは最後の紙のインクを乾かすべく横に置き、書き終えている紙を束ねた。
「……それは?」
「会議をまとめたものです。名前の出た方々は記しました。誰が賛成者で誰が反対者かわかるように記号で示しておきました」
何でもない事のようにそう言うと、ブルーナは紙の束を木箱の上に乗せ、ラディウスに視線を向けた。
「……お聞きしたい事があります」
「私で答えられる物であれば、何なりと……」
ラディウスは狭い部屋の中でブルーナの横の椅子に座った。
「先ずは、ローマ教皇、ウルバヌス二世の情報が欲しいのです。なぜ今十字軍を編成する事を思いついたのか。小さな情報でもあればありがたいです」
「良かろう。私が持っている情報は後で君に知らせる」
「はい。後は……父にはこの事は話さない方が良いのでしょうか?」
「うむ……彼は既にこの十字軍のことは知っている。ただ……君がここで会議を聞いたことは知らぬ」
「……そうですか。分かりました。では話さないでおきます」
ラディウスは無言でブルーナを見つめた。
「何か?」
「いや……君は確かに物事を理解した上での度胸があると思ってな……」
「何の話ですか?」
「まぁ……こちらの話だ。以前、友と話した事があった」
「ろくでもない事なら許しませんよ」
「私は君を褒めているのだ。怒らずとも良い」
ラディウスは破顔した。それが屈託のない笑顔に見えブルーナは視線を逸らせた。
「長時間の会議だった……疲れたであろう。お茶を用意してある。そちらでルドヴィーグ伯爵を待たないか?」
そう言いつつラディウスは紙の束を取ってペラリと捲る。ものの数秒でラディウスは顔を上げブルーナを見やった。
「君はこれを、会議の後のこの時間で書いたのか?」
「はい。まとめただけですが、お役に立てればと思いましたので……」
ラディウスの目には驚きと感嘆の色が浮かんでいた。ブルーナはいつも彼の期待の上を行く。意見を聞きたいだけだったのだが、ブルーナがまとめ上げた書類は全て一目瞭然になるように今日の会議の内容と考察が記されていた。
デュランもラディウスからそれを受け取り目を通したが、ブルーナとラディウスの顔を交互に見た。
「驚きました……ここまでまとめ上げるとは……これは直ぐにオルファ王へ提出できるのではないでしょうか?」
「あぁ、そうだな」
ラディウスは満面の笑みをブルーナに向けた。
「やはり君に来てもらえて良かった……心より感謝する」
「そんな事……」
自分でもラディウスの役に立つのだ。その事がブルーナは何よりも嬉しかった。
部屋を出る時、ラディウスが先に屈んで出て次にブルーナが出た。ラディウスはブルーナが出るのを助けるべく腕を曲げ、自然にブルーナはその腕に掴まった。ラディウスは優しくブルーナの手を引き、最後小さな扉からデュランが出てくると彼は扉に鍵をかけた。デュランは木箱を持っている。多分、見られないように書類はその中に入れたのだろう。
「私の執務室では人の出入りがあり落ち着かぬと思ってな。別の部屋を用意した。そちらへ行くが良いか?」
ラディウスは優しくブルーナに問いかけた。
「良いも何も……私は王宮を知りませんので……殿下にお任せ致します」
ラディウスは笑った。
「今日はしをらしいではないか」
「当たり前ですわ。ここは書庫ではありませんもの」
またラディウスがブルーナの手に自分の手を添えながら笑う。
「本当に今日は来てくれて良かった。とてもありがたいと思っているのだ、ブルーナ。これを機に城で務める気はないか?」
「それはお断りいたします」
「やはり駄目か……」
ラディウスはまた笑う。その笑顔はブルーナの心を安心させた。誰かの役に立つという事がこれほど嬉しいとは思わなかった。ブルーナはそれを噛み締めた。
「ラディウス殿下、私は急ぎこの資料を執務室へ置いて参ります。よろしいでしょうか?」
ラディウスが振り返るとデュランは歩みを止めていた。
「あぁ、良いだろう。後でシッカリと目を通したいのでよろしく頼む」
「承知いたしました」
デュランは離れて行った。
ラディウスはブルーナの手を取ったままお茶の為に用意した部屋へ向かう。部屋は二階の回廊の奥にあった。こじんまりとした部屋の中は趣味の良い調度品でまとめられている。
「カミル、ブルーナ嬢にお茶を頼む」
カミルと呼ばれた彼は金色のくせ毛を程よくふわりと刈り込んだ、蒼目の美青年だった。彼は少しだけブルーナを見た後、ツイッとその場を離れお茶の準備に奥へと入って行った。
その態度に何か引っかかるものを感じ、ブルーナはカミルを見ていた。だが、ラディウスは気にする様子はなく、向かいの椅子に座ると話し始める。
「今日の会議の事だが、君はどう思った? あぁ、勿論、後で君の纏めた書類には目を通す。だが、記すことができないものもあったのではないか?」
「……」
ブルーナは返事をせず、お茶を準備している部屋の奥を見つめた。ラディウスだけになら話しても問題はないと思えたが、側近とはいえ先程の少し自分を馬鹿にしたような視線は気になった。ここで発言をすると、恐らく彼はブルーナ自身か父かラディウスに都合の悪い事をやらかすのではないか……なぜかそう思えて仕方がない。
「ブルーナ?」
ラディウスが名を呼ぶ。それにニコリと答えブルーナは首を振った。
「私如きの申す事を聞いても仕方がないと思います。それよりも、別なお話をいたしませんか? 先程デュラン様が『イリアス』を貸してくださいました。少し読みましたがなかなか面白かったのです」
突然のブルーナの会話にラディウスは首を傾げた。
「どうしたのだ、ブルーナ?」
怪訝な表情のラディウスにブルーナは一度目線を奥へ向け、小声になった。
「ここで話すのは辞めた方が良いように思います。殿下の側近とはいえ、皆様がデュラン様のように私のことを理解しているとは思えません。また書庫でお話しいたしましょう」
ラディウスは少し振り返ったが、ブルーナを見たまま軽く頷く。
「カミルは信頼してよいのだがな……だが、わかった。明後日、そちらへ行こうと思う。その時に……良いだろうか?」
「分かりました。お待ちしております」
お茶の準備を終えたカミルが二人の前に戻ってきた時、二人の話は『イリアス』談義が始まっていた。カミルは少し眉を顰めたままお茶とお菓子をテーブルに並べていく。ラディウスは素知らぬ顔で、ブルーナは少し恐縮しながらその場にいた。
カミルの物腰は至って優雅に見えていた。しかしお茶がラディウスとは違う色合いをしている。ラディウスのお茶は薄い綺麗なグリーンをしていてハーブの香りが芳しいが、ブルーナのお茶は色が余り出ていなかった。よくよく見れば薄らと色づいているようには見えているが……。
気づいたラディウスがブルーナの顔を見た。ブルーナはただニコリと笑うだけで何も言わなかった。カミルは既に数歩後ろに下がっている。
ラディウスはわざと自分のお茶と見比べる仕草をした。
「ブルーナ、君のお茶は色付いておらぬな。何の葉を使えばこのように色のないお茶になるのだ? カミル」
ラディウスの問いにカミルは首を傾けた。
「そうでしょうか? 同じように入れたつもりですが……」
あくまでカミルは同じであると言い切るつもりなのだろう。不意にラディウスがブルーナのカップと自分のカップを入れ変えた。ブルーナは驚いたが同じようにカミルも驚いた。
「私には色づいてないように見えるのでな。同じお茶なのか興味がある」
ラディウスはそのままカップに口を付けコクリと飲んだ。そして鋭い視線をカミルに向けたまま一言いった。
「まあまあだな……」
カミルはそのラディウスの視線を受ける事ができず、床を見たまま動かなかった。
「ブルーナ、疲れたであろう。君も飲むと良い」
ラディウスはブルーナには笑顔を見せた。ブルーナはチラリとカミルを見たが彼は黙ったまま動こうとしない。仕方なくカップを手に取った。芳しいお茶は柔らかなハーブの香りを放っている。一口飲んでブルーナはラディウスに笑顔を向けた。
「とても美味いです……」
そのままお茶は進んだが、ラディウスはカップの半分も飲まないうちにカミルにお茶の入れ替えを命じた。今度ばかりは彼も素直に応じ、カップを下げまともなお茶を二人の前に置いた。
暫くするとデュランが戻ってきた。側近の中でも格付けがあるのか、デュランが来た時カミルは少し後ろに下がった。ブルーナは漸くホッとした気持ちになった。
王宮内は様々な思惑を持つ人間がいる。ラディウスの側近は選ばれた者達のはずだ。その中にも色々と思う者はいるのだとブルーナは理解した。
二杯目のお茶は実に美味しく入れられていた。
ブルーナとラディウスの『イリアス』議論は思いの外白熱した。
その後、だいぶ時間が経ってからルドヴィーグ伯爵はブルーナの元へ戻ってきた。その頃にはブルーナとラディウスの『イリアス』議論は山場を過ぎていた。
「ラディウス殿下、遅くなり申し訳ありません。娘を迎えに参りました」
ルドヴィーグ伯爵は部屋に通されると直ぐにブルーナに立つよう示す。ブルーナは指示された通りに立ち上がりルドヴィーグ伯爵の隣に立った。
「伯爵、頼んだ事は……」
「勿論、万事うまくいっております」
「そうか、ありがとう」
ルドヴィーグ伯爵はブルーナに向き合った。ブルーナは既に結構疲れを感じていたが、疲れた表情を見せぬ父は大したものだと思う。これが父の仕事だとしても始終緊張を伴うこの文官という仕事はなかなかに大変だと思われた。
——これも慣れなのかしら……。
「ではラディウス殿下、私達はこれで失礼させて頂きます」
ルドヴィーグ伯爵の声と共にブルーナは綺麗な宮廷のお辞儀をした。顔を上げた時、ラディウスと目があった。その目が少し笑っている。何故だろう、それだけで疲れが薄まった気がする。
ブルーナはルドヴィーグ伯爵と共に部屋を出た。ラディウスの従者が一人、馬車の手配の為に足早に立ち去って行く。
「疲れてはいないか?」
ルドヴィーグ伯爵がブルーナに尋ねてきた。
「はい、少しだけです……」
素直にブルーナは答えた。そのブルーナに伯爵は父親らしい労りの表情で腕に乗せたブルーナの手を握った。
「ここで疲れてないと意地を張ることを言われるよりましだな……」
ルドヴィーグ伯爵は微笑んでいる。その表情を見てブルーナは本当の意味でホッとした。あのラディウスの側近であるカミルの表情が思い出され、今更ながらに父に問いたくなった。
「父上、城での女性の立場はやはりあまり高くはないのでしょうか?」
「……そうだな。一部の人を除きそう高いとは言えないだろう。だからお前を文官にと望んだラディウス殿下には申し訳ないが、私は反対だったのだ」
ブルーナは納得した。
「今日、ラディウス殿下の側近の一人に、私によくない感情を持っていると思う方が居ました。女性だからなのか、ラディウス殿下と親しげに会話をしていたからなのかは分かりませんが……女であるというだけでのあの態度は少し頂けませんでした」
「……そのような考えの方々は多くいるのが現状なのだ。もしも今後も呼び出しがある場合は心しておいた方が良いだろう……できるなら、私は呼び出しがない事を望むがね」
父の言い分も尤もな話だと思う。だが、ラディウスの側近であるはずなのに、あからさまにあの態度を行うのはどうかとも思う。ブルーナはラディウスの立場も大変なのだと実感した。ルドヴィーグ伯爵家を訪れるのは息抜きだと笑ったラディウスを思い出し、なんとも切ない思いがブルーナの中に生まれた。
ラディウスはルドヴィーグ伯爵とブルーナが立ち去った後、カミルを呼んだ。
「カミル、先程のあの態度は何だ? なぜブルーナのお茶に出がらしのハーブを使った?」
カミルは唇を一文字に閉じたまま俯いている。ラディウスは反抗的な態度のカミルに厳しい目を向けた。
「お前が私の客人に対し、あのような事をするとはな……今後、お前は私に付かなくとも良い。執務室での勤務を命じる」
ラディウスの言葉にカミルは顔を上げた。
「ラディウス殿下の婚約者はあの方ではないはずです。なのに何故あんなに肩入れをされるのですか? 私には理解できません。殿下の身の回りのことも……我々だけでも十分にやっていけると思います。なのに何故あんな娘に……」
ラディウスは黙ってカミルの言動を聞いていた。デュランが奥から慌てて二人の傍へやって来るのが見えた。
「言いたい事はそれだけか? カミル」
「……私は納得ができないだけです」
それ以上床を見たまま話そうとしないカミルに、ラディウスはため息を吐いた。
「デュラン、済まないが、ブルーナのまとめた紙の束を持って来てくれるか? 上から二枚だけで良い」
「はっ!」
デュランはすぐに反応し部屋をでて行った。ラディウスはそのままカミルには何も話さず、冷めたハーブティーを飲んだ。ちゃんと入れられているハーブティーは冷めても美味しい。ラディウスが喉を潤し少し待ったところでデュランが戻って来た。
「殿下、こちらでよろしいですか?」
差し出された紙を見た後、ラディウスはカミルにその二枚の紙を差し出した。
「読んでみよ。これはブルーナ嬢が会議を聞いて書いたものだ」
カミルは憮然とした表情のままその紙を受け取り読み始めた。その表情が見る見るうちに驚きに変わってゆく。
「これは……」
「あの時間内で、これだけの事をまとめ、別な紙には賛成派と反対派のおおよその人数が書かれてあった。お前にはこれが出来るか?」
カミルは返事をしなかった。端的にまとめられた紙には考察までがきちんと書かれてある。
「お前が何に腹を立てているのか、私には想像が付く。だが、それを別にしても彼女の才能は埋もれさせるには惜しいと思う。お前が私の立場であればどうする?」
「……」
カミルはブルーナの書いた紙に視線を落としたまま何も言葉を発しない。
ラディウスは厳しい目を少し緩めた。
「お前は私に付いて何年になる?」
「……十年です」
「私は人には向き不向きがあると思っている。お前の利点はわかっているつもりだ。だから私に付けている……男の嫉妬など見苦しいぞ、カミル」
それだけを言うとラディウスは立ち上がった。
「二杯目のお茶は美味かった。私は執務に戻る……」
歩き出したラディウスにカミルはお辞儀を返した。デュランはカミルの肩をポンと叩くとラディウスの後を追って行った。
彼らが立ち去った後、カミルはラディウスの飲んだカップを持ちしばらく見つめていた。彼の心には複雑な思いが蠢いている。
——嫉妬……。
そうかも知れない。ここ半年のラディウスは、週一の間隔でルドヴィーグ伯爵家を訪れている。そこに連れていくのはデュランであり、自分を連れていく事はない。デュランは剣の使い手の騎士なのだからそれは当然だと言える。
——でも……殿下の身の回りの事は私の仕事なのだ……。
初めてラディウスの下で働くようになってから、いつでも自分が一番ラディウスの近い場所にいた。でも、最近は違うように感じている。
——これは嫉妬なのか?
カミルにはわからない。こんな気持ちになったのは初めてのことで、今までは誰が来ても余裕があった。だが今度ばかりはあの娘にラディウスが心酔しているようにしか見えないのだ。
ブルーナの書いた報告書を読んだ時、衝撃が走った。自分はこんな風に各貴族の御仁を判別してはいない。
——負けなのか?……私の思いはラディウス殿下には伝わる事はない……。
カミルは恋しい気持ちを持ったまま、ラディウスの残したカップに唇を付けた。思いが溢れそうになるのを必死に抑える。
毎晩ラディウスの顔を思い出し眠りに着く。それだけで良かったはずなのに……。カミルの胸の内は誰も知らない。
歴史の中では日本、海外変わりなく、様々な側近の位置付けがあります。
多くの場合、男女問わず愛妾の場合が多かったのもよくある話です。
ここではラディウスはカミルの事をそう見てはいません。
でもカミルはそのつもりで側近になりました。
ラディウスはただ単にカミルは男として、女性であるブルーナの仕事振りに嫉妬していると思っています。
感情のズレはたまにとんでもない行動を起こしてしまいます。
それを書きたかったのですが……多分、実際の歴史の中ではこんなものではないと思うのです。
もっとドロドロとしているはず、と思いつつの表現でした。




