35 十字軍遠征の是非
ブルーナはラディウスと共に執務室を出ると、ある小さな部屋に連れて行かれた。扉が小さく屈まなければ入れない。ブルーナですらそうなのだから身長の高いラディウスとデュランは大変だろう。
その部屋は石壁の小さな窓があるだけの部屋だった。そこにはテーブルと椅子が四脚置いてありその椅子に座るように促されるとラディウスは隣の席に座った。
「良いか、ブルーナ。ここは会議室の会話が聞こえる部屋だ。王族でも一部の人間しか知らぬ。このような部屋がいくつかあるのだが……ここで聞いた事は外へは漏らしては成らぬ。それは理解できるな?」
「はい……書庫内と同じと考えて良いのですね?」
ラディウスは目の前でニコッと笑った。
「そういう事だ……」
ブルーナが頷くとラディウスは少し緊張を解きブルーナの手を握った。
「この事を、私は君にしか頼めなかった……すまないと思う」
ラディウスはブルーナの手を取った。ブルーナの意識が一瞬その手に向く。
「どちらにしろ、遠征の是非はこの会議で決められる訳ではない。それに兵を出すも出さないも、いずれ国中が知る事となる。君が気に病む必要はない。わかるな?」
「はい……」
ラディウスの言葉は、責任重大だと思っていたブルーナの肩の荷を少しだけ軽くした。
「では……我々は行く。この部屋では君一人だけとなる。だがこの部屋に他の者が来る事はない。安心して聞いていて欲しい」
そう言い残しラディウスは部屋を出た。デュランが紙とペンの入った箱と先程の『イリアス』をテーブルに置き、ラディウスを追って部屋を出て行く。
改めて部屋を見回すと窓辺には厚手のカーテンがかかっていた。閉めてしまうと真っ暗になるようだ。つまり、夜の会議も蝋燭を持ち込めばここで聞く事ができるのだろう。
ブルーナは椅子にしっかりと座り直し『イリアス』を手にとった。会議はいつ始まるかわからない。それまでの間この本を読んでいれば少しは気晴らしになる。窓辺の明かりを受け、ブルーナは本を読み始めた。
それから暫くの後、密かな会話が聞こえてきた。この部屋がどのような形態で会議の内容が聞こえるのかわからないが、今、各自の席につき始めているようだ。椅子を引く音すらも綺麗に聞こえる。
会議が始まる。ブルーナは『イリアス』を閉じた。
『皆席に着いたかな?』
オルファ王の声が聞こえる。ブルーナは途端に緊張して背筋を伸ばした。
『皆聞いていると思うが……ローマ教皇ウルバヌス二世の要請により、十字軍を構成し東に向けて遠征をする事となるやもしれん。十字軍遠征はエルサレムの奪還を目的としている。それについての皆の意見を聞きたい』
オルファ王の声は静かだが聞き取りやすいものだった。会議室の者達は恐らく辺りの顔色を窺っているのでは無いか? そんな気配すらする。
『なぜ我々のような小国にもその依頼が来るのでしょうか? 我々の力など極々少数に過ぎません。そんな小国にも依頼が来るという事は、兵の集まりが悪いのでは無いかと思うのですが……』
『それは違うと思う……小国とはいえ集まれば大きな力となるのだ。その流れを作るには少数でも兵を出すことが妥当であると考えます』
『一気にかたを付けるには、数の優勢をまず考えるでしょう。数は多いに越した事はないのではありませんか?』
ブルーナは聴きながら紙に番号を打ち、発言の内容によって「×」と「◯」の記号を書いていった。こうすると発言者により賛成か反対かがわかる。発言者の声を聞き取れば同じ人が言った事はわかる。
ブルーナは会議には何人の者が参加しているのか知らないが、賛成か反対かの大凡の数はわかると考えた。
『兵を出さねば教皇の覚えが悪くなると思うのです。ここは一つ、少数で良いので出すべきでは無いでしょうか?』
『教皇によって国の王が覇権争いに敗れた例もあるのです。彼らの力は今や強大です。逆らうことなど出来ましょうか?』
『しかし、兵を出すとなると国の守りはどうなるのです? まだ北の山岳の民の国ガイルスとの小競り合いは続いているのです。それを放ってはならないでしょう』
ブルーナは紙に印を付けながら、今のルガリアードの状況を確認していった。彼らが語る事はブルーナが知らない事も多くあるが、ここで冷静に聞いている限り、それぞれの思惑が交差しているのがよく分かる。
ブルーナは数字の前の開いた場所に線でそれぞれを結んでいった。こうすると誰と誰がどの派閥と大局にあるのかが見えてくる。
しばらくの沈黙の後、オルファ王が口を開いた。
『各々の考えはわかった。ではここからは少し意見を深めてもらいたい。兵を出した場合のこれからの事だ』
『お待ちください! 兵を出す事に決めておられるのですか?』
『出した場合だと申したと思うが……』
オルファ王の言葉に発言者は黙った。
『兵を出した場合、出さぬ場合、両方の事を考えねばならぬ』
『……はい、それはごもっともでございます』
『その両方を考えてどちらがこの国にとって一番有効であるか、それを考えたい』
その声を聞きながら、オルファ王は皆の意見をよく聴き公平な落ち着いた王なのだと初めてブルーナは知った。そしてそれを嬉しく思っている自分に気付く。ラディウスはこの王の血を受け継いでいるのだ。
聞いているうちに会議の話はまた深みに落ちてゆくようだ。
『我がルガリアードが兵を出す場合、多くて五百が精精でしょう』
『いいや、二千は下らぬ方が良いと思います。エルサレム奪還ですぞ! これはなんとしても参加せねばならぬでしょう!』
数人の十字軍遠征支持者が力説する。
『異教徒にかの聖地を奪われてからというもの、かの地の巡礼はされておりません。同じキリスト教徒としてそれは余りに無情ではないでしょうか? 我々の魂は神と共にあるのです。エルサレムは我々の聖地であるのです!』
賛同者達が拍手を送る。熱を帯びた意見は反対者達にも火を着けた。
『それはどうでしょうな、オルガード侯爵……先程も申したがガイルスとの国境は何としても守らねばならぬと思うのです。パルスト辺境伯領の東側は今の所心配ないとしても、十字軍遠征に兵を取られれば好機と見る国もありましょう。ここはゆるぎなきところを見せておかねばならないと、私は考えます』
『その通りです。我らはローマ教皇の兵ではない。自国を守るのが第一なのではないでしょうか』
冷静な判断だとも言えるその意見にも賛同者はいる。しかし、オルガード侯爵はまた捲し立てる。
『ローマ軍の行軍はルガリアードの、この国の近くを通っていくのですぞ! その時に我が国からの兵は出しておらぬなど、考えられません!』
それをうんざりした体で冷静に言葉を挟む者がいた。
『出さぬとは言ってはおりません。出すとすれば多くて五百がせいぜいだと申し上げたのです』
『ぬぅ……リンデルシュ侯爵。貴方は事態が掴めておられぬようだ。神に仕える者達が軍を編制すると言っておるのだ。そこに五百程度の兵で参加しても武功は挙げられぬ。挙げられねば教皇の覚えも得られぬ。それはこの国の未来に必ず影響をする!』
『わかっておらぬのは貴公であろう。我が国には十字軍にかまけている暇などない。今までとて教皇の覚えなどなくともここまでやって来れている。我らのルガリアード国は東と西の狭間にある。東ローマのことも念頭に入れねばならぬのだ』
十字軍遠征に乗り気な者と余り乗り気ではない者との差が激しく、ブルーナはメモを取りながら考えた。
リンデルシュ侯爵はローズ嬢の父親だ。彼が言う事は納得が出来た。ブルーナはリストの中に「△」のマークも付け足した。兵を出すことには賛成だが兵の人数は少なくて良いという考えの者達だ。
十字軍遠征に駆り出される兵の数はローマ教皇の力の及ぶところを考えると、数十万の人数が集まるのではないだろうか? 下手をすれば数百万にも及び兼ねない。それだけ大きな出来事である事だけは誰の目にも明らかだ。その中では五百だろうが二千だろうが同じに感じられる。ここまでくれば、もはや数の問題ではなく参加するかしないかにかかっているのではないか。
——でも、何故今なのかしら?
なぜ、今、ローマ教皇ウルバヌス二世はエルサレムの奪還を言い出したのか……そこには何か理由があるはずだ。異教徒との諍いは国境付近では当たり前にある。東ローマ帝国が異教徒の国と協定を結んでいた筈だが、その協定を無視してまで奪還する程の心の動きがあったとすれば、それは何か……情報が欲しいとブルーナは思った。
ブルーナのその気持ちを他所に会議は続く。
『今我々に必要なものは信仰心ではないでしょうか? 最近のこのルガリアードでは宗教派閥が拮抗しております。これを払拭するためにも、十字軍遠征には参加すべきと考えます』
『それは違う、エドガー伯。我々は神を信じています。しかし、今日のローマと東ローマの対立が甚だしいのだ。東ローマ帝国より小競り合いの終息のためにウルバヌス二世に援軍を依頼したのだ。それを良しとするのかどうかが問題であるのではないのでしょうか』
『どういう意味かな、エストル卿』
『つまり、神は殺し合いを禁じているにも関わらず、殺し合いに参加するという事が問題なのです』
ブルーナは発言者の名前を数字の横に書いた。
ブルーナにはエストル卿の言葉はもっとものように思えていた。殺す事をしてはならないという神の言葉は完全に無視されている。
だが、同時にこの戦いの真意はどこにあるのかとも思う。やはりエルサレムの奪還がとってつけたように思われるのだ。ブルーナは考えながら会議を聞いていた。
『良いですか、皆様。教皇であるウルバヌス二世に逆らう事は決して出来ませぬ。強大な力にどうやって争うのでしょうか? もう一度言います。十字軍はこの国の近くを通って異教徒の国へ向かうのです。その時に敵とみなされたら何としますか? 異教徒へたどり着く前にこの国が荒らされてしまう!』
『何を言っておられるのだ! 十字軍ですぞ! 神の軍隊が他国を荒らす筈がない!』
オルガード侯爵をはじめ数名の貴族が賛成派に回っている。ブルーナは歴史書を思い出していた。兵を進めた時、あのアレキサンドロス大王ですら略奪を抑える事はできなかった。それを考えると複雑だ。
兵を出すとして、この国の治安は保たれるのだろうか? 逆に兵を出さないとすれば十字軍により略奪行為が行われるのだろうか……その結果は未知数でしかない。
ブルーナは意見によって書かれた「○」と「×」それから新たに付け足した「△」の記号を眺めた。若干数、兵を出す方に賛成派が多いように思う。特にオルガード侯爵は乗り気だ。それを制しようとしているのがエストル卿を始めとする貴族達だ。
会議はさらに続き、数時間経った後今日の会議を終えた。
ブルーナは静かになった部屋の中で別の紙に何かを書き出した。それはラディウスとデュランが迎えに来るまでそこで書き続けていた。
十字軍のための兵を出すか出さないか、小国にとっては死活問題です。
彼らの出した答えは……




