34 王城からの呼び出し
秋に差し掛かる頃、ルドヴィーグ伯爵家に王城からの使者が訪れた。
それはラディウスの側近の一人であった。彼は翌日、ルドヴィーグ伯爵の娘であるブルーナを連れて、登城して欲しいと願い出てきたのだ。ラディウスからの要請だが、ルドヴィーグ伯爵は渋りながらもそれを受けるしかなかった。
ブルーナは父と共に呼び出されるという意味合いが分からず訝しんだ。王城の呼び出しが何故今であり何故自分と父なのか……。思うとすればラディウスの怒りに何か触れたとしか考えられないが覚えはない。
「ブルーナ、大丈夫か? 行けるかね?」
父の不安は表情にも現れていた。その表情から父も理由は知らないのだとわかる。こればかりはブルーナにもどうしようもない。
「何も問題はございません……」
冷静に答えながらも不安はあった。でも呼び出しである。行くしかないのだ。
部屋に戻るとエルダにも不安が見えていた。だが今回はエルダを伴う事はできないという。父と共に登城とはいえ自分のことは自分でしなければ成らない。ブルーナは薬入れの小箱を握り締めた。
「お嬢様、どうにか私も共に行く事をお願い出来ないでしょうか?」
エルダが不安そうに胸の前で両掌を握りしめている。
「大丈夫よ。何かまずい事をした訳ではないし、ここの所、発作はないもの。もしかすると病が治ったのではないかしら」
ブルーナは笑うが、エルダの表情は不安なままだ。
「約束して下さい。無理はしないと……発作が出る予兆があれば、絶対に先に薬を飲んでください。良いですね、絶対にです」
エルダの目は真剣だ。ブルーナは頷き安心させるように微笑んだ。
「もう私は小さな子供ではないわ。心配しないで、何もなく戻るから」
外は秋の風が吹き始めていた。
次の日、ブルーナはルドヴィーグ伯爵と共に王城へ向かった。いつも父が乗る馬車でブルーナは父の隣に座り窓の外を眺める。
この時ブルーナは思う程緊張をしていなかった。ラディウスとは書庫内で当たり前に会うようになっていたし、リングレントの王城で宿泊した経験が極度の緊張を和らげていた。
そのはずだったのだが、ルガリアードの王城が見えてくると、やはりそうはいかない。目前に迫る巨大な王城は美しくはあるが人を拒絶する何かがある。
「ブルーナ……体調に変化はないか?」
不意にルドヴィーグ伯爵が声をかけてきた。ブルーナは現実に引き戻される思いがした。
「はい……大丈夫です」
「そうか……今日はエルダがおらぬ。私が付いているとはいえ、四六時中、私がお前についてはおれぬだろう……薬はちゃんと持っているか?」
「はい、何度も確認いたしました」
「うむ……発作が起こる前に予兆があれば、直ぐに薬を飲みなさい。良いね」
ルドヴィーグ伯爵は浮かない表情のままだった。
王城内は前に訪れた時の『すずらん祭り』の湧き立つ喜びとは違い、全てに整然とした雰囲気が漂っていた。
秋は郷愁を誘う。だからだろうか? 心細い不安定な気持ちが拭えなかった。
馬車は『すずらん祭り』の時とは違い、正面玄関ではなく奥の方へと進んで行った。奥の方にも大きな出入口がある。そこへ止まると御者が扉を開けルドヴィーグ伯爵がまず馬車を下り、直ぐにブルーナに手を差し出した。ブルーナはその手を取り馬車を下りる。
裏の出入口とはいえ、それでも自宅の正面玄関ほどの大きさがある。それを見上げブルーナは促されるままに城へと入って行った。
ルドヴィーグ伯爵に手を引かれ城内の奥へと進んでいった。その城内は静かだ。歩く二人の足音がやけに響き、広い城内で自分がどの位置にあるのか見当が付かない。
更に奥へ進むと少し人が行き交い始め、ホッとした所で目の前に颯爽と一人の青年が現れた。少し癖のある茶色い髪に茶色い瞳、身体の線は細いが表情は明るく愛嬌がある。
「ルドヴィーグ伯爵、おはようございます」
「あぁ、おはようございます、モンドゥール伯爵」
「今日はご婦人をお連れなのですね。始めまして、私はコンラート・イジー・ド・モンドゥールと申します」
彼は胸に手をやり少し頭を傾け、ブルーナに向かって気取りのない挨拶をした。ブルーナは優雅に王城の挨拶をした。相手が分からない内は丁寧な挨拶をしていた方がいいだろう。
「お初にお目にかかります。私はブルーナ・レティス・ド・ルドヴィーグと申します」
「え? あぁ……では、貴女はルドヴィーグ伯爵のお身内ですか?」
「はい……」
コンラートは驚きに満ちた表情でブルーナを見た。爽やかな青年ではあるが、あからさまな好奇心を見せる視線にブルーナは少し不快になった。ジロジロと見られるのはやはり良い気分ではない。
「モンドゥール伯爵、娘は少し用があってここへ来ているのです。昨日の続きの事ならもう少し後でも良いでしょうか?」
「あ……えぇ、勿論です。そうか、ご息女ですか……それにしても……長年仕事を共にいていたのにも関わらず、私はルドヴィーグ伯爵にこのような美しい御息女がおられたとは知りませんでしたよ」
「まぁ、余り家族の事は話さないのでね。ではまた後で……」
ルドヴィーグ伯爵はやんわりと急いでいる風を装い挨拶を打ち切ると、足早にその場を離れた。
「……父上、今の方は?」
「彼は私と共に文官の仕事をしている。まだ若いが最近家督を継いだのだ。よく仕事をやってくれている一人だ」
ルドヴィーグ伯爵はそう言いつつ大きな扉の奥へ進んだ。そうしてブルーナに視線を向けた。
「良いかねブルーナ、これから城の奥へ更に進む。ここから奥は重鎮と言われる方々と高位の方々が頻繁に出入りしている。いつも以上に気を引き締めなさい」
父のアドバイスを受け、ブルーナは少し背筋を伸ばし大きく息を吸った。
大きな扉を更に進むと回廊に出た。その回廊を歩きながら中庭を臨み見上げると二階部分にいくつかの窓が見えた。上からこちらが見えるようになっているようだ。
ブルーナは父の腕に手を添えながら先を進んだ。広い回廊を過ぎるとそのまま先へ進み、廊下と少し広めの階段がある。ルドヴィーグ伯爵はその階段を上って行った。
そうして幾つかの角を曲がり到着した扉の前に衛兵が二人立っていた。ルドヴィーグ伯爵が声を掛けると一人が扉の奥へ消え、直ぐに入るよう促された。
中に入ると部屋の正面にラディウスがいた。その横に三人の人物が立っている。部屋の横は窓が大きく取られていて外の光が部屋に差し明るい。窓の外は庭なのか木々が見えている。
「ルドヴィーグ伯爵、ブルーナ嬢、二人ともよく来てくれた。少し待っていてくれ……」
ラディウスは机に座り何かを書いている途中だったようで、声を掛けると視線を落としペンを走らせた。ここは執務室なのだろう。書棚と机とテーブルと椅子がいくつかあるだけで重厚な雰囲気だが閑散としている。
「椅子にかけられて下さい」
側近の一人が声をかけた。ルドヴィーグ伯爵とブルーナは少し広めの椅子に座ってラディウスが終わるのを待った。数分後にラディウスはペンを置き書いていた紙を側近に渡すと、渡された者はすぐに部屋を出て行った。
「待たせてすまなかった」
ラディウスは机から離れブルーナの前の椅子に座った。いつもの書庫内でのラディウスとは違い少しよそよそしい雰囲気だ。それを感じながら視線を向けるとブルーナはラディウスと目が合い、彼は少しだけ笑った。その笑顔に少しだけホッとする。
「君にやってほしい事がある」
彼の表情は仕事用の厳しいものだが眼は柔らかだ。
「やって欲しい事とは何でしょうか? 私ではお役に立つ事は少ないと思いますが……」
「大丈夫だ。寧ろ君にしか出来ない事かもしれぬ」
そう言いながらラディウスはルドヴィーグ伯爵を見た。
「ルドヴィーグ伯爵、貴方には別な事をお願いしたい。ブルーナ嬢とは離れる事になるが構わぬか?」
「……それは構いませんが……娘はこのままここに置いておくのでしょうか?」
「それに対しての心配は無用だ。デュラン、私が戻るまで彼女についていてくれ。伯爵の館にも常に共に付く者だから安心だろう」
ルドヴィーグ伯爵はデュランを見ると頷いた。
「えぇ、お心遣いありがとうございます」
デュランは胸に手をやり簡略的な挨拶をした。ルドヴィーグ伯爵も合わせて行うと、ラディウスは立ち上がった。
「ルドヴィーグ伯爵、こちらへ……」
そして部屋を出て行こうとするラディウスの後を追いつつ伯爵はブルーナを見やった。不安な表情を和らげるようにブルーナが笑顔素見せるとルドヴィーグ伯爵は少し安心しラディウスを追って部屋を出て行った。
部屋の中にはデュランと二人が残された。
そのテーブルの上にデュランが本を一冊置いた。ブルーナが顔を上げるとデュランはニコッと笑う。
「ただ待つ事ほど無駄なものはありません。どうぞ、本をお読みになりながら待てば良いと思います」
「……ありがとうございます」
ブルーナは素直に本を手に取った。デュランが置いてくれた本は『イリアス』だった。
言わずと知れたギリシャ神話の中の「トロイ戦争」を題材にしたホメロスの叙事詩だ。何故渡されたのが『イリアス』なのか。ふと疑問に思ったもののブルーナはパラリと本を広げ読み始めた。
第一章を読み始めて間も無くラディウスは戻って来た。その時間は十五分とも掛かっておらず物語に入り込む間も無くブルーナはラディウスと対峙することになった。
「君には重要な事をお願いしたいのだ……」
戻って来たラディウスはブルーナの正面に座り、デュランに合図を送る。デュランは一枚の紙をブルーナの前に置くと、ラディウスの後ろに付いた。
「それを読んで欲しい」
ブルーナはその紙を手に取り読み始めたが、数行読んで息を飲んだ。
「ラディウス殿下……これは……」
その書類には重要な案件が書かれてあった。
それはローマのカトリックの総本山からの密書だった。こんなものを一介の貴族に過ぎず、成人したばかりである自分が目を通して良いものとは到底思えず、ブルーナはラディウスを見つめ密書の紙を持つ手に力が入った。
だがラディウスは静かに頷く。
「今日、この事についての会議がある。それを隠し部屋で聞いて欲しいのだ」
思いもよらぬラディウスの申し出にブルーナは戸惑った。
「お待ちください、殿下。私がその会議を聞いて何になるのですか? この国の重鎮の方々が話せば良い事だと思います。これは、とても……何というか……重要性が書庫内の話とは違うではありませんか」
焦りを含んだブルーナの声は微かに上ずっている。この国の行末に関わる大変な話し合いを、関係のない自分が聞く事など出来るわけがない。
ブルーナはもう一度紙に視線を落とした。
その紙にはローマ教皇であるウルバヌス二世による十字軍の要請内容が書かれていたのである。ウルバヌス二世が近隣諸国へ書いた手紙を、近隣諸国の枢機卿が更に広く広めるために写し書かれたものだった。その一部がここルガリアードへ届いたのだ。
「前にも言ったと思うが……ルドヴィーグ伯爵は派閥に入ってはおらぬ。柵がないという事がどれほど貴重であるか、君には分からぬだろう。意見を言うのに他者を気にせずとも良い、それが重要なのだ」
ラディウスの言う事はわかる。しかし、これは自分に処理できる問題とは思えない。返事を渋るブルーナにラディウスは笑った。
「何も君に全責任を負わせると言っているのではない。意見が聞きたいのだ。この会議は他に数人のものが聞いている。それぞれの意見を聞くつもりだ。君一人に責任を課せるものではない」
ラディウスはそう言うとニコリと笑った。
ブルーナはその笑顔を憎らしいと思う。有無を言わせぬ何かの力が働いている気がするのだ。だが、父は傍にいない。場内では不慣れな事を自分で判断しなければ成らない。
だが同時に心の中に疼きが生じた。この自分が役に立つかもしれない。それが何とも魅惑的に心に響く。
暫く黙った後、ブルーナはラディウスの瞳を真っ直ぐに見た。
「分かりました……引き受けましょう」
「そうか! 良かった……」
ラディウスはホッとした表情を浮かべブルーナの手を取った。
「私は君の意見を聞きたいだけだ。安心して良い。決して君に危害が及ぶ事はない」
ブルーナは静かに頷いた。
不穏な空気が流れます。
十字軍遠征にルガリアードは参加するのかしないのか……




