33 エレーヌの可愛い我儘
書庫で過ごす時間が多くなると、ブルーナとラディウスの心の距離は更に近いものになっていった。些細な事でも面白がるラディウスの影響はブルーナの鎧を剥がし、硬い感情を崩して行く。
そんなある時、ブルーナはラディウスに言われた。
「所で、提案なのだが、今度、狩りにでも行かないか?」
ラディウスにそう誘われた時、ブルーナは返事に詰まった。狩りなど頭の中に浮かんだ事もない。馬に乗った事も、森へ行った事もない。そもそものブルーナの生活の基準は家の中で過ごす事なのだ。リングレントへ行った事が唯一の遠出で、二度と行くことができるのかもわからない。
そして何よりも、生きているものを射る行為が想像出来ない。あまりにも縁遠いものであるから、ブルーナには射るというその感覚がなかった。
「狩りは……遠慮しておきますわ」
「何故だ? 毎回書庫で過ごすのは不健康だと思わないか? たまには太陽の光を浴び、外へ出るのも良いと思うが……。この季節には森の中には多くの動物がいるし、様々な植物もある。それを見に行くだけでも面白いと思うぞ」
ブルーナの事を知らないラディウスは当たり前のようにそう言った。
「私は本を読んでいる方が良いのです。外へ行きたいのであれば、エレーヌと行かれてはいかがです? あの子も最近は外に出たいと言っていましたもの」
ブルーナは出来るだけ己の躊躇いを見せぬように努力した。
「ほぅ……エレーヌがそのような事を?」
「ご自分の婚約者でしょう? この書庫ではなく、エレーヌとも有意義な時間を過ごされたらいいのです」
別に嫌味でも何でもなかったのだが、ラディウスはブルーナにそう言われると少し黙り込んだ。そうして頬杖をつくと考え込み始める。ブルーナはそれを横目で見ながら素知らぬ顔で目の前の本に視線を戻した。
それから五分も経たぬ内にラディウスは立ち上がった。
「ちょっと行ってくる……」
「え?……」
見上げたブルーナをそのままに、ラディウスは書庫を出て行った。
ブルーナはその後ろ姿を眺めながら小さく溜息をついた。ラディウスに外へ行きたくても行けないのだと説明が出来ればどんなに楽だろう。アリシアとのピクニックの後、ブルーナは更に外へは出なくなっていた。外に出るとすればせいぜい中庭が良い所だ。
だからといって、ラディウスに身体が弱い事を話せない。してはいけない。王太子の婚約者の姉が身体が弱いと分かれば、きっとエレーヌとの婚約に影響するだろう。自分の事でエレーヌの幸せを奪うわけにはいかないのだから。
ブルーナとエレーヌは父で繋がっている歴とした姉妹だが、身体が弱かったのはブルーナの母だ。それを継いでしまったのがブルーナであり、エレーヌにその心配はない。だが、姉妹である事に違いはないのだ。それを知られたら、たとえ母が違うと知っていても世間の容赦ない中傷に晒されるだろう。ブルーナ自身だけならいい、もともと家からはあまり出ないのだから……だが、自分の事でエレーヌが嫌な思いをするのだけは避けたかった。
脳裏に『すずらん祭り』の舞踏会が思い起こされる。そう、彼らは人の噂が好物なのだ。
ブルーナは目の前の活字を追ったが活字が頭に入ってこなかった。自分の心に起こった不安は色々な行動に影響するようだ。こんな事で動揺するとは……ブルーナは人知れず溜息をついた。
それから程なくしてラディウスは書庫へ戻ってきた。隣にはエレーヌが居る。エレーヌは嬉しそうにまるで踊るように歩いていたが、ブルーナの姿を確認するとラディウスの手をほどきブルーナへ向けて駆けて来た。
「お姉様!」
エレーヌは溢れんばかりの笑顔でブルーナの膝に飛び付いた。
「お兄様がね、今日は私も一緒に書庫へ行こうって誘って下さったの! お父様も許可してくださったのよ! だから来たの!」
これ以上に無いくらいの笑顔と親愛の情を込めてエレーヌはブルーナを見上げている。ブルーナの不安はどこかへ消え去り思わず笑顔になった。ブルーナはエレーヌが可愛くて仕方がない。この笑顔が見られるのなら少しくらい無理をしてもいいとすら思う程だ。
フワフワの金の巻き毛が額に少しかかっているが、前髪は後で止め可愛らしい顔が見えている。思わず抱き上げようとしたがエレーヌは成長し、ブルーナの力では、もう抱き上げられなくなっていた。
「エレーヌ、また大きくなったのかしら? あなたを前のように抱き上げられないわ……」
ブルーナがエレーヌを覗き込むと彼女は胸を張って笑った。
「そうよ、お姉様。私、身長も少し伸びたの。きっと体重も増えたわ。私、もっと大きくなるわ。それでね、もっと大きくなったら、私、お姉様とリングレントへ行くの!」
「まぁ……どうして?」
「だってお姉さまは竜に会ったのでしょう? 私、お姉様の話す竜のお話が大好きなんだもの。私も竜に会いに行くの」
「エレーヌったら……」
ブルーナは苦笑してそれ以上何も言えず、エレーヌは瞳を輝かせていた。その様子をラディウスは楽しそうに見ている。
この時ラディウスは初めて、仲睦まじい姉妹の様子を目にしたのだった。今まで二人には個別に接していたが、姉妹の会話を側で見るのも心地いい。エレーヌはいつも通りに可愛らしく、ブルーナは優しい笑みを湛えている。
ラディウスが二人を見ながらブルーナの向かい側に座ると、エレーヌはラディウスに笑顔向けた。
「お兄様もお姉様と一緒にいつもこちらでご本を読むの?」
「あぁ、そうだよ。ここには本が沢山あるだろう? 勉強するにはもってこいの場所だ」
「私もお勉強をしたいです」
そう言うなり、エレーヌはブルーナの横の椅子によじ登ろうと格闘し始めた。硬く大きな椅子に渾身の力を込めて掴みかかり、掛け声と共に足を踏ん張りピョンと座席に飛び乗るが、伏せたままの姿ではどうにも出来ない。
「待ちなさいエレーヌ」
向かい側に座ったラディウスが笑いながら立ち上がり、エレーヌが座ろうとしていた椅子をブルーナのそばにピタリと寄せると、その上にエレーヌを座らせた。
「お兄様、ありがとうございます」
我が意を得たとエレーヌは何とも可愛らしい笑顔をラディウスに向ける。和やかな温かい空気が書庫内を満たしていく。
程なく、エレーヌは大好きなブルーナとラディウスと共に勉強の真似事を始めた。ブルーナは箱から一枚紙を取り出しエレーヌの前に置いた。ブルーナがインクの付いたペンを渡すとエレーヌは紙に何かを書き始めた。見ている間に数字が並び始め、拙い線ではあるが、一から九までのアラビア数字が並んだ。
「ほら見て、私、もう数字が書けるのよ」
「偉いわ、エレーヌ。文字だけじゃなく数字も覚えたのね」
「お姉様、数字だけではないのよ。計算もできるし文章も書けるわ」
エレーヌは数字の下に綴りを書いた。
『今日、私、エレーヌ・フィリア・ド・ルドヴーグは、お兄様とお姉様の三人でお勉強をしました』
エレーヌはそう紙に書いた。
横で見ていたブルーナはエレーヌの自分の名前の綴りが間違えていて「ルドヴーグ」になっているのを訂正しようと思ったが……あまりにも自慢げに見せるエレーヌに、それが言えなかった。
ラディウスもその間違いを見ていた。が、口を挟もうとするのをブルーナが止める。どうせ成長と共に間違いに気づくのだから、今はやる気になっているエレーヌの気持ちを大事にしたかった。ブルーナは悪戯っぽく笑い、ラディウスは肩を竦めた。
そうして少しの時間が過ぎた。ブルーナとラディウスはエレーヌを気にしながら各人の選んだ本を読んでいる。エレーヌは文字を書いて過ごしていたが、それにも飽きてきた。
「ねぇ、お姉様、お話しして」
突然に振られ、ブルーナは自分の本に栞を挟んだ。今読んでいる本は少しエレーヌには難しいだろう。説明してもわからないに違いない。どうしようか……。そう思った時、先にラディウスが口を開いた。
「そう、先程も言ったのだが……今度皆で遠出をしないか?」
穏やかに笑うラディウスにブルーナは怪訝な表情を向けた。先ほど断ったと言うのに、何故またその話題を持ち出すのか。だが直ぐにこれはラディウスの策略である事に気付いた。彼はエレーヌを味方につける気だ。
——全く姑息な手を使うんだから……。
「お兄様、遠出って何ですか?」
エレーヌはワクワクとした表情をラディウスに向けている。
「館から外へ出て、少し違う所へ行く事をいうのだ。そうだな、狩やピクニックは分かるか?」
「はい、狩りはわかりませんが、ピクニックはわかります」
「ピクニックは食事を持ち、離れた場所へ行くだろう? そうやって遠くへ行く事を遠出というのだ。エレーヌはピクニックへ行きたくはないか?」
ラディウスの言葉を聞いた途端、エレーヌは目をキラキラと輝かせた。
「とても行きたいです!」
だが直ぐにハッとして、ブルーナを見ると口を閉じた。
「どうした? エレーヌ。ピクニックに行こうではないか」
だがエレーヌは黙ったまま俯き何かを考えている。そして顔を上げるとニッコリと笑った。
「お兄様、今、お外へ行きませんか? ほら、今日はお天気が良いですもの。中庭のベンチはとても居心地が良いとエルダが言っていました」
ラディウスとブルーナは顔を見合わせた。ピクニックへ行こうと言うラディウスの提案は曖昧のままエレーヌは外へ行こうと言う。ブルーナは彼の表情を見ながら少し緊張していた。ブルーナの病の事を何も知らないラディウスが気付くことはないはずだが。
そしてエレーヌはブルーナに何も言わずただニコッと笑うだけだ。その姿にブルーナはジワリと胸が温かくなるのを感じた。
——……この子が私を庇ってくれているのだわ。
ブルーナは申し訳ない気持ちになりながらエレーヌに微笑み返した。
その後もエレーヌはブルーナの病を口にはしなかった。ルドヴィーグ伯爵が人に話してはならないと言い聞かせているのだろう。それをこの五歳になったばかりの少女は頑なに守っているのだ。ブルーナの胸に愛しさが起こる。
——エレーヌ……私はあなたの邪魔にならないようにするわ……。
心の中でブルーナは神に誓った。
それから三人は書庫を出た。
書庫と母屋を繋ぐ渡り廊下から中庭へは出て行ける。その出入り口をラディウスはエレーヌの手を引いたまま出て行く。ブルーナはゆっくりと二人の後を追った。
庭は太陽の光が降り注いでいる。文字通り降り注ぐその光の束が、植物達を慈しんでいるように見えていた。
太陽の光はブルーナの上にも降ってくる。ブルーナはその光を眩しく感じ目を細めた。太陽の光は強かったもののカツラの木の下は程良い日陰がある。ラディウスはカツラの木の下のベンチにエレーヌを乗せるとブルーナを振り向いた。
「ここなら気持ち良さそうだ」
そうしてラディウスはブルーナを迎えに戻ると手を取った。エレーヌはそんな二人をニコニコと見ている。
「お兄様はもう少しこちらよ。私の横なの」
エレーヌは彼女を中に両サイドに二人が座って欲しいと誘導する。
「仲良しさんだもの。三人で並んで座りたいの。良いでしょう?」
いつもであれば、エレーヌはこんな我儘は言わないのだが……。エレーヌの大好きな二人が初めて揃って自分の傍にいてくれるのが嬉しくて仕方がないのだろう。ブルーナは先ほどさりげなく庇ってくれたエレーヌの気持ちに応えたかった。
「殿下、エレーヌの隣にどうぞ……」
ブルーナはラディウスに声をかけた。ラディウスは少し照れ臭そうにエレーヌの隣に躙り寄る。エレーヌは自分の両隣にいる二人を代わる代わる見やると満足そうに笑った。
「私、お姉様もお兄様も大好きなんですもの。一度で良いから二人の間に座ってみたかったの」
エレーヌは可愛らしく事もな気に言い、それぞれの腕を取ると自分に引き寄せた。必然的にブルーナとラディウスは顔が近くなる。少し緊張しながらブルーナはラディウスを見たが、ラディウスの目は優し気にエレーヌに向いている。
ちくりとした痛みがブルーナの胸に起こった。だがその痛みは一瞬であり続く事はなかった。
日差しは三人に同じように降り注ぐ。
「今日は特別な日なの」
エレーヌはうふふと笑いながら、期待を込めた表情でブルーナを見上げた。そう言えば、エレーヌと共に外へ出るのは初めての事だ。
それに気付きブルーナもエレーヌに微笑んで見せた。
穏やかにすぎる日々。
エレーヌはラディウスとブルーナが大好きです。
初めて二人と共に過ごせる時間を存分に楽しむエレーヌです。




