32 ふたりの距離
ラディウスとの言い争いから二日が過ぎた。ブルーナは何故かラディウスを酷く傷つけてしまった様な気がして、事あるごとに思い出していた。
敬語は辞めて欲しいというラディウスのリクエスト通り、ブルーナがラディウスに対して敬語で話す事は余程の事が無い限り無くなっていたが、彼はルガリアードの王子なのだ。ブルーナはよく話すようになってからそれを少し忘れていた。思えば、辛辣な物言いも失礼極まりない。
彼がどういう想いで『羨ましい』と口にしたのか聞くべきだった。彼の意見が気に入らないからと反論するのは間違っていたと思う。ブルーナは次にラディウスに会った時、反省の気持ちをどの様に表現すれば良いのか、書庫の棚を順繰りと巡りながら途方に暮れていた。
その時、プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』に目が止まった。以前読んだ本ではあったが、その表題の一言が目に飛び込んでくる。
「……弁明」
まさに、ラディウスに対して自分は弁明をしなくては成らない。気が重い作業だ。ブルーナは溜息を吐くとそのまま本を手に取り、いつもの自分の席へ座った。本を読み進みながら、ソクラテスの様に言葉巧みに話が出来たら楽なのに……と思う。逃げ出したい心境の中では良い案も浮かばず、本の内容も頭に入らず、次第にパラパラと捲るだけになってゆく。
——謝るのって、こんなに難しいことなのかしら……。
謝罪の方法を模索していた所で、書庫に誰かが入って来る気配がした。絨毯を踏む微かな足音は真っ直ぐにブルーナの元へやって来て、ブルーナが顔を上げるより先に名前を呼ばれた。
「ブルーナ……この前の事だが……」
入って来たのはラディウスだった。驚いたブルーナは顔を上げることが出来ず、『ソクラテスの弁明』に視線を落としたまま眉間にシワを寄せた。何故、今ラディウスが訪れるのか、たった今、彼のことを考えていたばかりなのに……。
「私が大人気なかったと思う……」
ラディウスは話し始めた。
——まさか、謝るつもりなの?
「ブルーナ……こちらを見てくれないか?」
そう言われてもブルーナは素直に応じることが出来なかった。
ラディウスがルドヴィーグ家を訪れる時、少なくとも一週間空けて来るのが普通になっていた。それなのに、言い争いをして二日しか経っていない。心の準備がまだ出来ていなかったのだ。
「その……なんだ……無論、君は十分にわかっていると思うが……私はアントニウスではない……だいいち、冷静に考えてくれ、知人でもない歴史上の人物が起こした行動で、なぜ私と君が言い争わなければならない?」
ブルーナは顔を上げなかった。
「ブルーナ……君は私が言った『羨ましい』の意味を誤解している……国を背負っている筈の彼が、自分の考えに従い自由に生きた事を『羨ましい』と言ったのだ。彼は元老院さえ蔑ろにできるほど自由だった。もし私が彼と同じ立場になった場合、彼と同じ行動を私は取れない」
ラディウスはここまで一気に話し、さらに言葉を続けた。
「……分かってくれ。『羨ましい』と言ったのは、彼の不道徳を言ったのではない。彼が自由であった事を言ったまでだ」
ラディウスの言葉にブルーナは顔を上げまともに彼を見た。ラディウスは少し困ったような顔をしてブルーナを見ている。だが、目が合うとあからさまにホッとした表情をした。
ブルーナはその一瞬で目をそらせると再び活字に目を落とした。
自分の考えていた『羨ましい』と彼の考えていた『羨ましい』の意味が確実に違ったことに、ブルーナはどこか安心していた。
——自由に生きたアントニウス……。
彼の言葉を心の中で反芻する。ではラディウスは今、自由では無いのだろうか? 次の疑問が頭を擡げた時、ブルーナは自分の気持ちの不明瞭な部分に気がついた。
——私はいったい何を怒っているのかしら……。
確かに、言い争いの原因はラディウスの言った『羨ましい』の一言だった。だが、ブルーナの中では『不道徳』が『政略結婚』へとすでに論点がずれている。そう思うと、ただラディウスに一方的に突っかかっているだけに思えてくる。
ブルーナは諦めたように口を開いた。
「……もう良いです」
ブルーナのその言葉から機嫌を直してくれたのだと感じたラディウスは、彼女の向かいの席に座った。
「今日は何を読んでいるのだ?」
ブルーナはチラッとラディウスを見ると、本を上げ表紙を見せた。その表題を読んでラディウスはあからさまに驚いた。
「……『ソクラテスの弁明』……プラトンか?……君は哲学書も読むのか?」
呆れたような、本気で驚いたような口振りだ。
「興味を持ったものは何でも読むわ」
ブルーナが言うと、ラディウスは溜息をついた。
「ガリア戦記といい、英雄伝といい、プラトンといい……君には敵わないな……」
敵わないと言いながら、口調は楽しんでいるように聞こえる。もう一度チラッとラディウスを見ると、彼は頬杖をついて微笑みながらブルーナを眺めていた。その途端にブルーナの居心地が悪くなった。ブルーナはさりげなく本で顔を隠したが、ラディウスの楽しそうな声にどこか嬉しく思っている自分もいる。
先程までの言いようのない歯痒さが今は消えていた。どうすれば、ラディウスのように素直に人に接することが出来るのだろう。どうすれば、喧嘩の後の、あの一抹の気まずい空気を一変することが出来るのだろう。自分が悪いなら謝ればいい、そんな事はわかっている。でも、いつも思う。どのタイミングで謝ればいいの? もし、自分が悪くないならどうすればいいの? 目の前のラディウスは、それを意図も簡単にやってのけた。
実際に二日前のアントニウス論議は誤解だったと思う。でも今、ラディウスが現れた時、ブルーナはどうして良いのかわからなかった。自分に非があるわけではないのに、自分が悪い事をした様な気分になり、ラディウスに意識が向いてしまう。笑うラディウスを尻目に、ブルーナは小さく溜息をついた。
その様子にラディウスが気付いた。
「それで? ソクラテスの弁明からは何が読み解ける?」
ラディウスの質問は有り難かった。ブルーナの居心地を悪くしている張本人だが、気持ちを本に移すことが出来る。以前読んだ本だ、内容は覚えている。その時に感じたままをブルーナは口にした。
「……ソクラテスは……当初から自分の弁明をする事に期待してないように思います」
「……と云うと?」
「もし、弁明によって無罪を勝ち取る事が出来ると信じていたら……彼ほどの人ですもの、出来たはず……いくらこの時代の弁明の方法が民衆の前で論じる事だったとしても、名を馳せた哲学者なのだから幾らでも言葉を並べて論じる事は出来たはず。現にそれまでの間に彼はさまざまな人を論破しているもの」
「うむ……」
「言論の技術を持っていたのに……もっと明確に……もっと合理的に行う方が最も彼等に伝えられるのに……あえて、それをしなかった……」
「なぜだ?……」
「……いいえ違う……彼は論じ民衆を納得させたけれど死ぬ事を選んだのだわ」
ブルーナは自分の言葉と考えの中に入り込んで行った。
「初めから自分が死ぬ事を想定していたから……だから、自分の言いたい事を自分の言葉でいう必要があった……誰もがわかる自分の持つ言葉で……それは、自分が正しいと思っているから……後にソクラテスが正しい事が判った市民は後悔するに決まっている……彼はそれで良かったの」
ブルーナは目の前にラディウスがいる事を考えていなかった。
いつも頭の片隅にある想いが、ソクラテスを介してブルーナに答えを授ける気がしてきた。ソクラテスの弁明を広げ、その活字を見ながらブルーナは独り言の様に呟いた。
「……彼は死を恐れていない……それだけ長く彼が生きたから?……若くて死ぬわけではなく、生き抜いたから?……では……若くて死ぬかもしれない場合は?……少ない経験の中で納得出来るのかしら?……諦めの方が先に立つのではないかしら?……諦めが先に立つと、こんなに自信に満ちて堂々として居られるかしら?……」
ラディウスはブルーナを見つめ黙って聞いていた。
ブルーナは自分の考えに沈んで行く。
ブルーナはソクラテスが羨ましいと思った。確実に自分の人生を有意義に生き、ある時、神の啓示が有り、今度はそれに没頭して生きる。
自分はどうだろう……ただひっそりとここにいる。ここに生まれた理由は一体なんなのだろう? 自分は生き抜くという事とかけ離れた場所にいる。
目線はずっと『ソクラテスの弁明』に向いているが、ブルーナの中に時間の感覚がなくなってきた。
ブルーナが声を出さなく成り暫くの沈黙が続いた後、ラディウスが口を開いた。
「……ただ生きるのではなく良く生きる……ソクラテスは死の間際にそう言っていたな……」
ブルーナがハッとしてラディウスを見た。
「私はまだ人生の経験が浅いから、確かな事は言えぬ。が……年を取れば取るほどしがらみという物に取り付かれ、良く生きる事が難しくなる場合があるだろう……若い方が純粋であるから正義感に勝り良く生きるのには適していると言えるかもしれない……しかし、経験がないために良しにしろ悪しきにしろ他からの影響も受けやすい……ソクラテスは経験を踏まえた上で、年を取っていても良く生きることに執着したのではないか?……なぜなら、彼は人としてそれが最善だと考えたからだ」
ラディウスの言葉は明確で的を得ていた。
「良く生きる事に年齢は関係ない……私はそう思う」
「えぇ……えぇ……確かにそうだわ……」
ブルーナはラディウスを見つめた。ラディウスの顔を見ながら、ブルーナは何かを掴みかけた気がした。
ラディウスの笑顔に微笑み返し、ブルーナは目線を本に移した。
しかし、心の中では先程までのもどかしさがなくなっている。
ブルーナは自分がラディウスと同じ方向を向いていると思えた。ふとこの人と友人関係になれて良かったと思う。 こんな風に心の内を話しても彼はちゃんと向き合ってくれる。それは小さな喜びとしてブルーナの心に花のように咲いた。
そして思う。彼がこの姿勢でルガリアードを引いていけば、きっとこの国は正しい方向へ進んで行くのだろう。
そして同時にラディウスの言った『羨ましい』の意味が理解出来た事が嬉しい。妹はきっと幸せになれる筈だ。
「……君と仲直りが出来て良かった。さて、私は帰るとしよう」
ラディウスは笑顔で立ち上がった。
一瞬、ブルーナの心に寂しい思いが駆け抜けた。
「あ……今日はそれだけのためにいらしたのですか?」
「まあね……この前、君が誤解しているとわかってはいたが、私も少々頭にきていたからな。自分の言いたい事が少しも言えなかったし、誤解を解くのは早いうちがいいと思ってね」
ラディウスは少し照れ臭そうにそう言った後、慌てて真面目な顔をした。
「言っておくが、決して暇人なわけではない。この近くに来る予定があったからここまで足を延ばしただけだ」
ブルーナは笑った。
「言い訳のように聞こえますけれど……」
そして、ラディウスを見ると少し間をおいて言葉を続けた。
「殿下の言いたい意味がよくわかりました……それに……その……私も言い過ぎたと反省していました」
二人は照れ臭さを隠すように笑いあった。
「では、また来る」
「えぇ……お待ちしています」
手をあげてその場を後にしかけたラディウスは、思い出したようにブルーナを振り向いた。
「そうだ……あの風刺画の本だが、面白いものを見つけた……」
「面白いもの?」
ラディウスは悪戯っ子のように笑う。
「あぁ……本を返す時に説明する。楽しみに待っていてくれ」
ラディウスはそう言うと、書庫を出て行った。ブルーナはラディウスの後ろ姿を目で追った。彼はこの後、何時ものように城へ帰る。そして自分も変わりのない日常に戻るのだ。
ブルーナはラディウスの言ったソクラテスの言葉を思い出し『ソクラテスの弁明』を数ページを捲った。そこにはソクラテスのこんな言葉が書いてあった。
『良い人は生きていても死んでいても悪い事が起こることはない。なぜなら、神が配慮してくれるからだ』
ブルーナはクスッと笑った。本当にそうだと言い切れるわけがなかった。良く生きるためのあらゆる事は自分の中にこそ存在する。ソクラテスがそれを分かっていないはずはないのだ。
途方も無い現実に身を置きながら、途轍もないロマンチスト。つまりはそれが『ソクラテスの弁明』だったのかもしれない。
ラディウスは信頼できる人でした。
ブルーナの心の波紋はどこまでいくのか……




