31 初めての言い争い
ラディウスはそれからも自分の心のある部分に蓋をした状態でブルーナに接していた。
書庫でのブルーナを抱き締めたいと一瞬でも思ってしまった事が、ラディウスの心に罪の意識を生んだ。これは許される事ではない。幼いエレーヌが自分の婚約者であり、ブルーナはその姉なのだ。それを感じていたラディウスは、ブルーナに対し誠実でありたいと努力していた。
だが、ラディウスは心に蓋をしてでもブルーナとの交流をやめる気にはなれなかった。それ程にブルーナとの会話は魅力的だったのである。
初めの頃のラディウスの思惑は、ブルーナと話すようになってからというもの確実に意思に反した方向へ向かっているように思えた。しかし、文官としての起用は成し遂げたい。そう思いながらラディウスは考えた。城で話さずともここで話せは良い。ここでの約束事には他には漏らさぬ事が含まれている。
——寧ろ理想的では無いか?
ラディウスはブルーナと語り合うのが面白かった。彼女は様々な観点からものを見ている。その意外性は新たな発見の連続だった。それを接する度に感じていた。何としてもブルーナの考えを引き出したい。ある意味、ラディウスは意固地になっていたともいえる。
それからもラディウスはルドヴィーグ伯爵家の訪問を続けた。余りにも忙しい時には来れない事もあったが、大体において彼は変わらずルドヴィーグ伯爵家を訪れた。
春の日差しはいつの間にか強く眩しい太陽の季節になっていた。木々の葉の緑は若葉から濃い緑へと変化し、十分に養分を溜めている。
この頃になると二人の会話は数多く交わされ、冗談や戯言などの言葉も少しずつ増え始めた。今や友としての信頼関係が築き上げられようとしている。
ブルーナ自身も知らず知らずラディウスの訪問を心待ちにするようになった。思う事を心置きなく言える相手というのは中々いないものだ。だがそこに関してラディウスは実に大らかだった。怒るどころか面白がる。それがわかった時、ブルーナは素直に嬉しかった。
今まで家族にしたことのない話もラディウスとは出来た。お互いに意見を戦わせる事もあったが、ブルーナの知りえない事をラディウスはよく知っていた。有意義な時間を共に持つ事は二人の隔たりをなくして行った。
ある時、ブルーナは英雄に関する本を読んでいた。
初めに書かれていた人物は「アレクサンダー」だ。彼はマケドニアの王子だった頃から優れた人物だったとある。彼の存在は世界中の誰もが知っていると言っても過言ではない。彼の足跡と成した出来事はそれ以降の多くの人物に影響を与えている。
アレクサンダーはこの国でも人気の高い英雄だった。だがブルーナの見解は少し違う。彼に関しては、おもちゃを欲しがる子供のような印象を受けていた。自国を拡げた理由も勢いだけで成し遂げた印象が強い。若くして世を去った事もそれを後押ししているように思えていた。
「一つだけ認めるとすれば……行動力ね……」
ボソッと呟きページを捲る。アレクサンダーの事は一番多くページを割り当てられていた。それを捲りながら次の人物に移る。
次に書かれてあったのはハンニバル。最強だと言われていたローマ軍を打ち破ったカルタゴの将軍だ。彼については驚くべき事実がある。ローマの北に聳え立つ山脈を大軍を連れて越えてきたのだ。何故そのような事が出来たのか……彼に関する記述はそう多くはない。彼の死後、彼の戦術はローマ軍によって徹底的に研究され尽くしたという。
「やあ、ブルーナ……」
次のページに進もうとした所で、ラディウスがやって来た。相変わらず彼はうんざりする程に爽やかだ。
「ご機嫌よう、殿下」
以前とは違いブルーナはほんの少し口角を上げた。それだけの変化でもラディウスは嬉しかった。
「前に借りたローマ商人の台帳なのだが……」
話し始めたラディウスの言葉にブルーナは耳を傾ける。ラディウスはこうして何かとブルーナに気がついた事を話す。ブルーナはそれが嬉しくて、書庫内ではこうして話す二人の姿がよく見られていた。
「何か発見はありました?」
「ふむ……先日わかった事がある」
ラディウスは持って来た物をテーブルに広げた。それは商品台帳から分かった事をまとめて綴っている紙の束だった。
「ここを見てくれ……」
ブルーナがラディウスの指し示すところを見ると、そこには石材や木材など建築に関する物が羅列されていた。
「穀物が高騰した時期とこの石材や木材の建築資材が大量に取引された時期がほぼ重なるのだ」
「穀類と建築資材の高騰時期が同じ?……それはつまり、何か大きな建築物を作ったということかしら?」
「うむ……神殿か、闘技場か……劇場か、大きな建築物だったのだろう。建物を作るには奴隷の力が必要だ。彼らに与えるパンの原料は小麦粉だからな」
「あのローマ商人の台帳からこのような事がわかるなんて……面白いですわ」
ラディウスを見るブルーナの瞳が輝いている。
「分かった事はそれだけではないのだ」
ラディウスはブルーナの瞳を覗き込み自慢げにニコッと笑った。
「年代を照らし合わせると、この時代に第二次ポエニ戦争があった」
「まぁ、ハンニバルですか?!」
「そうだ、この穀物の高騰は戦いの前線の兵へ送る食料が深く関わっていると思う。だが、この高騰には二段階あるのだ。ここでまず高騰している。値段は戻らず次がここで更にだ。豊作であればここまでの高騰はないだろう。建築資材と共に大量に購入した穀物が、この辺りで手に入りにくくなったのかも知れぬ」
ブルーナはラディウスの持ってきた紙の束を見つめた。
「ローマ時代、ローマ市民は多くの恩恵を受けていましたが、ローマ以外の国からの税金で彼らは生活していましたね……」
「そうだ」
「という事は……他国の税金としての穀物が不作で入ってきにくくなった上に、戦い続きでローマ都市に穀類が入りにくくなったと?」
ブルーナの言葉にラディウスはニコッと笑う。
「そういう事だ。悪条件が二重に重なったとすれば、必然的に穀類は高騰する」
「なんて面白いのかしら……殿下はよくこれを見つけましたね」
ラディウスはこの事実をローマ商人の商品台帳の数字の羅列から見つけたのだ。ブルーナは尊敬の念を持ってラディウスに視線を送った。
「私だけが気づいた訳ではない。文官と側近達の働きもあったのだ。これが分かった時、早く君に教えたくなった」
ラディウスの笑顔にブルーナは少しだけ心臓がキュッと音を立てた。だがそれを無視し口を開く。
「実は私は今日、英雄伝を読んでいたのです」
ブルーナは横に置いてあった本を持ち上げて見せた。
「その中にハンニバルがいました」
ブルーナはニコリと笑った。ラディウスは自分の持って来た紙の束を閉じ、ブルーナが読んでいた英雄伝に手を伸ばした。
「英雄伝か……懐かしい」
ラディウスはパラリと本を開いた。
「アレクサンダー王を始めとしてハンニバルが次に載っています。その次に載っているのはカエサルだったかしら?」
「あぁ、書いてあるな……カエサル、アントニウス、アウグストゥスが並んであるが……」
ブルーナはそれを聞いた途端、顔を顰めた。
「なぜその英雄の中にアントニウスが入っているのか、私にはわかりません。カエサルとアウグストゥスは分かるのです。でもアントニウスは自領の統治すらもほぼ放棄したわ」
「いや、そうではないぞ。ブルートゥスを排したのは彼だろう。アントニウスがいたからローマはアウグストゥスの世になり彼は事実上の帝政を運営できた」
ブルーナは渋い顔のまま頷いた。
「それに関しては文句はありません。でも、彼は信用できない……」
「君はアントニウスが嫌いなのか?」
「彼は元老院を蔑ろにしてクレオパトラと組んだわ。そして滅びた。彼がクレオパトラと組まなければ、もしかするとまだプトレマイオス王朝は続いたかも知れない。彼がエジプトを滅ぼしたも同じよ」
「……クレオパトラには彼の力が必要だった。成り行きだとしてもな……」
ブルーナの口調からはアントニウスを嫌っているのがよくわかった。だが、ラディウスは思う。アントニウスは自由だった……。
「アントニウス……少し羨ましい気もするがな……」
ボソッと言ったラディウスの言葉を聞いた途端、ブルーナはラディウスを見つめた。
「……アントニウスが羨ましいのですか?」
その目を見たラディウスは黙った。ブルーナの目には、非難と戸惑いがあった。
「アントニウスは自分の母国であるローマを裏切った堕落した人です」
ブルーナは遥か昔の歴史上の人物であるアントニウスを徹底して嫌っていた。そのアントニウスを、羨ましいと言うラディウスの心境をブルーナは理解できなかった。
ラディウスはブルーナの静かな怒りに、つい余計なことを言ってしまったと後悔した。せっかく気分良く話をしていたのに、このままでは完全に怒らせてしまう。だが、ブルーナの非難はアントニウスだけでは収まらなかった。
「貴方の事を良い方だと思っていたのに、失望しました……」
ブルーナの辛辣な言葉はラディウスの心を逆なでした。そもそも、ブルーナはラディウスの言った『羨ましい』という意味を取り違えている。ラディウスが『羨ましい』と思った説明も聞かず、失望だとはなんなのだ。何故自分が失望されなければならないのか? その筋合いはない。
「私の何が君の感情を害させたのか、理解出来ないのだが」
ラディウスは自分の意思を示すべく強い口調でブルーナに言った。
「こんなにハッキリとした意味合いを、理解出来ないのですか?」
「あぁ……さっぱりね」
「アントニウスはローマを裏切ったばかりか、手当たり次第に女性に手を出すような道徳観念のなかった人です。しかも他国のエジプトで放蕩三昧を尽した。あまりにもだらしないわ……それを羨ましいという貴方はどうかしています」
「私の言った意味はそこでは無い。何故そこまで怒る理由があるのだ?」
「何故ですって? 貴方はご自身が何を言っているのか判っていますか?」
「君こそ歴史を学んでいるのか? この時代の人間は愛人などいくらでもいる」
「確かに、信じる神も違うし道徳を説くものは少なかったかもしれない。でもペリクルスとアスパシアのように真実の愛を貫いたカップルもいます。寧ろそれは世紀の恋愛としてこうして今も語り継がれている」
ラディウスは一瞬言葉を飲んだ。そして……
「アントニウスとオクタウィアは政略結婚だ! 仕方がなかった! 君はその苦痛を全く分かっていない!」
売り言葉に買い言葉だった。ラディウスが言葉を発した時にはブルーナの表情がさらに失望に変わる。沈黙が二人を包んだ。ブルーナは小さく息を飲んだ後、口を開いた。
「……エレーヌとの婚約もそうなのですか?」
「バカを言うな! それが嫌だから、自ら探したのだ!」
本心だった。父の提示した妃候補は、余りにも自分の意志を無視したものだったのだ。確かに、幼いエレーヌとの婚約は時期尚早だったとは思う。もっとエレーヌの近辺を調べていれば……ラディウスは目の前に立つブルーナを見つめる。
見つめられたブルーナはラディウスの瞳に真意の程を見てとると静かな口調で言った。
「……そう、良かった……エレーヌとの婚約の意味合いがアントニウスと違うのなら、それで良いのです」
ラディウスはブルーナから視線を外した。ブルーナに言われた『良かった』の一言が思いのほか胸に突き刺さる。
[……帰る」
今日はこれ以上居てもブルーナと言い争いになるだけのように思えた。ラディウスは一言そう言うと部屋を後にした。始めての言い争いは腹立ちより、虚しさの方が優っていた。
ラディウスが立ち去った後、ブルーナはテーブルにつき、本も広げずじっと考えていた。
『政略結婚』の一言が今更のように重くのしかかる。ブルーナに取ってはアントニウスとオクタウィアの結婚が政略だろうがそうでなかろうが気になるものではなかった。ただ、愛情を軽んじているアントニウスという人物像が無性に腹立たしかったのだ。そのアントニウスをラディウスが擁護するものの言い方をしたのが気に入らなかった。
しかし、ラディウスに取って政略結婚は自身に降りかかる話だった。
政略結婚には愛はいらないのだろうか? ラディウスが苦痛だと言った意味を考える。
——苦痛を感じながら共に生きるとは……どういう事なのかしら……。
ブルーナには愛してもいない人と結婚し共に生きるなど想像がつかない。
結婚はブルーナには縁遠く、考える価値もないものだった。エレーヌの婚約話しが持ち上がって少し身近になったものの、アリシアの婚姻すら他人事だった。幸せそうに微笑むアリシアを羨む気持ちはあったが、だがそれも叶わぬ自分の人生と比べたものに過ぎない。
婚約者候補とはあの舞踏会で会ったローズだろう。自分が男性だったとして、ローズと結婚したいと思うだろうか? 容姿は美しく申し分ない。しかし、わがままな物言いをしていた彼女を思い出し、ブルーナは首を振った。確かに彼女と結婚する気にはなれないだろう。
——ラディウス殿下とエレーヌは……。
今更ながら、四歳のエレーヌと婚約をせねばならなかったラディウスの事情が少しだけ分かったような気がした。ラディウスは真摯に自分の望む相手を探そうとしただけなのだ。その時に年頃の相手を探す事ができなかったのだろう。
もし自分が結婚相手を選ぶなら……ブルーナは考えた。本心で話ができる相手が良い。様々な事を話して、それが広がるように会話が尽きない相手が良い。信頼できて共にいるのが苦ではない相手が良い。そして少し欲を言うなら、自分の知らない事を話してくれる人が良い。出来るなら尊敬もできて、仕事に取り組むその人を支えられるような関係が良い。
そう思った時、不意に脳裏に今し方帰って行ったラディウスが浮かんだ。一瞬ブルーナは愕然とし、慌てて別の事を考えようとした。だが、ラディウスの影は頭の中にこびりついていた。
「馬鹿馬鹿しい……私には関係ない事よ……」
思わず口にした言葉を、もう一度心の中で唱え、ブルーナは小さく息を吐いた。ブルーナの中に何かが生まれている気がした。自分の胸の奥底深くに芽吹いた何か……これは一体何なのだろう? これもまた波紋のような広がりを感じ、ブルーナは自分の腕を体に引き寄せた。
——考えてはならない事だわ……。
ブルーナは窓の外を見た。明るい日差しは木々の葉をキラキラと輝かせている。
「……違うわ」
誰に説明するわけでもなくブルーナは呟いた。自分の気持ちを説明するのは難しい。ただ、ラディウスへの気持ちがなんなのかが分からない。エレーヌと結婚する人。何かと書庫で話をする人。様々なことを話せる人。ラディウスはブルーナにとってそれだけの筈だった。
少しづつラディウスの心を知ってゆくブルーナです




