30 波紋の行方
あの禁書を見つけた日からひと月が過ぎ、ラディウスはルドヴィーグ伯爵家へ赴くべく準備をしていた。
ここの所のひと月は『すずらん祭り』で忙しかった。ラディウスはブルーナに声をかけたが断られ、それっきりだった。『すずらん祭り』の舞踏会に関しては皆が行きたがるものだと思っていたのだが……ブルーナに関しては世間の常識が通用しない。彼女の婚約者と参加すれば良いものを、彼女はそれをしない。
今日は久々に会う事ができるだろう。ラディウスは楽しみにルドヴィーグ伯爵家へ向かった。
ルドヴィーグ伯爵家に着くと、一通り挨拶をし書庫へ向かう。訪問の間隔が空いた事で、ブルーナ自身があの書庫内の約束事を反故にするかも知れない。折角ここまできたのだ。さすがにそれは回避したい。
だが書庫にブルーナの姿はなかった。いつもであれば既にテーブルについている時間ではあるのだが……。
ラディウスは借りた商品台帳を書棚に片付け、今日は別の本を借りていこうとその場を移動した。ブルーナの座る席の後ろにも本は並んでいる。その棚を見ている時、並んだ本の横に木箱が一つ置かれてあるのに気付いた。そしてその木箱の上に一冊、平積みの本があった。
ラディウスは惹かれるようにその本を手にしてパラリと開いた。文字が羅列しているが、文章の初めの部分に日付が書いてある。それは本ではなく日記のようだった。
何気なしにパラパラと捲ると、小さな几帳面な文字で埋められたページは、中々読み応えがありそうだ。前の部分は文字で埋め尽くされているが、ノートは中程までしか書かれていない。ラディウスは文字で書かれているページを開き、そこに書いてある内容を目にすると、思わず声を上げそうになった。それはブルーナの日記だったのだ。
『ラディウス殿下に禁書を指摘された。ギリシャ神話は禁書だという。
それを知らなかった自分を少し情けなく思う。
でも、その代わりに提示された約束事は、この書庫内では自由に自分の考えを述べて良い事、敬語をなくす事、この二つ。
殿下は何を考えているのやら……普通なら牢獄行きだろうに……』
目についたのは前回の訪問時に約束したことが書かれてあった。そして別のページには……
『あの方はいつも本を借りて行くけれど、毎回同じものを借りて行く。
それも、古代ローマ商人の商品台帳……。
あんな数字が羅列されただけのものを見て、何が面白いのだろう。
不思議なのは……返しに来たはずなのに、返さずにまた同じ物を持っていく事。
何をする為に来るのか。同じ物を借りるならここへ来る必要はないのに……』
目にしたラディウスの頬が少し上気した。この文を読む限り、ローマ商人の同じ台帳を借りている事は完全にブルーナにバレている。どうしようもない気恥ずかしさがラディウスを襲った。
暫くそのまま文字を見て、ラディウスは何処かに隠れてしまいたい気持ちになってくる。
「参ったな……」
思わず出してしまった自分の声に少し驚きながら思い出す言葉があった。
以前、父のオルファ王にラディウスは詰めが甘いと言われたのだ。ラディウスは大きな溜息を吐き、恨めし気に日記に目をやるが、書かれた事実は消すことは出来ない。そしてそのまま日記を閉じると元の場所に戻した。
だが気恥ずかしさと同時にささやかな幸福感を感じてもいた。
——ブルーナの日記に私の事が書いてある……。
自分とブルーナの間の隔たりは埋まる事はなく、書庫内の約束がどこまで有効かはわからない。それまでのブルーナはいつも素っ気なかったが、さり気なく自分の事を観察していたのかもしれない。
いつも見せるあの取り澄ました雰囲気の中でブルーナは全神経を自分に向けていたのだ。これは少し良い傾向だとは言えないだろうか? 想像するとにやけてしまった。
ラディウスはその場を離れ、横にある別な本の棚に移動した。
ラディウスにしても、毎回同じ物を借りている事がブルーナにバレているとは思っていなかった。始めはここへ来るための口実にすぎない物を真剣に選ぶ気が無かっただけだった。何度も借りたのは、数日で読めるような薄い本がそれしかなかったからである。それで同じ物を何度も借りてしまったが……今日は計画通り別な物に変えた方が良さそうだ。
その時、慌てたような様子でブルーナが書庫へ入って来た。そしてそこにラディウスの姿を見つけ驚いて立ち止まった。
「あ……居らしていたのですか?」
「あぁ……久しぶりだな、ブルーナ嬢」
ラディウスは素知らぬ顔で挨拶をしブルーナに笑いかけた。
「あ……では、私は後にします」
ブルーナの口調は丁寧ではあるが敬語ではなかった。彼女はあの約束を守っている。思わずニヤリと笑いそうになるのを堪え、立ち去ろうとするブルーナに声をかけた。
「今来たばかりなのに、戻るのか?」
「……はい、邪魔になる気はありませんので」
「邪魔? いつもは私が居てもあの席で本を読んでいるではないか……」
「……」
ラディウスはブルーナの心中を察した。前に禁書を読んでいる所を見つかったことが気まずいのだろう。この書庫での事は他では漏らさないといくら約束をしてもそれだけは仕方ない。
だがラディウスは気を取り直すように口を開いた。
「丁度いい時に来てくれた。頼みがある」
ラディウスはさりげなくブルーナに近付いた。書庫に来た時にブルーナの姿が見えなかったのにはガッカリしたが、彼女の方から来てくれたのだ、このチャンスを逃す気はない。ラディウスは笑顔でブルーナを見た。
「今日借りる本を選んでもらえないか? こうも沢山の本の中からでは、何を読もうか迷ってしまうのだ」
もっと彼女の事を知りたかった。ブルーナに選んでもらえれば、返した後その本について会話が成り立つだろう。ブルーナとの距離がもっと縮まる絶好のチャンスだ。
ブルーナは意外そうな表情でラディウスを見た。
「……私が選ぶのですか?」
「あぁ」
ラディウスは頷いた。
「……殿下が読む本をですか?」
「そうだ。商品台帳から学ぶことはもうないのだ。あれはあれで、過去の仕入れの値段と売値と量が書いてある事から、深く読み取ると当時の状況や他国との貿易や交渉状態、果ては政権の在り方まで学ぶことは出来るのだが……少し他のものを読みたいと思う」
ラディウスは商品台帳を借りる意味はあるのだと言い訳を言いそうになったが、出来るだけさり気なく理由を述べチラリとブルーナを見た。
ブルーナはラディウスの言う事を聞いて、少し考え納得したように軽く頷いている。台帳を借りた理由を理解したようだ。
「私の読む本を選ぶのは駄目かな?」
ラディウスの言葉をブルーナは黙って聞いていた。
暫くしてブルーナは、小さく「わかりました」と答えると書庫の中の本に目を移した。
ブルーナは断わるための答えを見つけることが出来なかった。それに妹の婚約者であり王太子である彼をもっと観察したいという思いもある。文官にと望まれたがそれには答えられない。だが、彼に本を選ぶくらいならできるだろう。
そう思うものの、ものの数分でブルーナは難しい事を引き受けてしまったと後悔した。妹のエレーヌやアリシアにならすぐに選んであげることが出来るのだが、ラディウスには何を選んであげたらいいのかがわからない……書庫の中をぐるりと見回し、ブルーナは考えた。
彼の事だ、物語の類は望んでいないだろう。戦記は幼い頃によく読んでいたと『ガリア戦記』の考察を述べた時に言っていたし……。詩集も違うように思う。哲学書や研究書は数多くあるが……同じ様なものは城の書庫に五万と有るだろう。
それに、今までブルーナが手を出したことのないローマ時代の商品台帳を読むような人だ。
——難しい……殿下はいったい何を望んでいるのかしら……。
そう思いながらチラリとラディウスを見ると、彼はリラックスした表情で書庫の本を見上げていた。穏やかな表情の中に、今この時間を楽しんでいる様子が見て取れている。
ブルーナは意外な気持ちでその顔を見つめた。いつもこんなリラックスした表情で書庫の本を見ていたのだろうか?
その時、ラディウスがブルーナを見た。ブルーナは一瞬目を逸らそうとした。しかし、シッカリと目が合った今、すぐに目を逸らすと余りにもわざとらしく映ってしまう。
そう思ったブルーナの口を付いて出た言葉は、憎まれ口だった。
「殿下が商品台帳からも学んでいたのは意外でした……」
「そうか?」
「はい、週に一度ここへ来られるので、暇な方なのかと思っていました……」
ラディウスは苦笑した。
「……君も中々言うな」
言葉が口を突いた瞬間、ブルーナ自身も(しまった……)と思った。気分を害するのは当然だ。しかし、ラディウスは怒りはしなかった。口を結んで少し考えるように視線を落とす。その姿を見て前回の約束は本当なのだとブルーナは理解した。
この時、ラディウス自身も意外なほど素直に己の心を考えていた。
ブルーナを文官に欲しいと思う。それには違いないが、ただそれだけであるなら命令すれば良いものを、何故自分はここへ通うのか……そして気付いた。自分はブルーナに無理強いさせたくはないのだ。ブルーナ自身が考え、ラディウスの元へ行きたいと思って欲しいのだと。
それに気付いた時、ラディウスは自分でも説明のつかない感情があるように思った。心の内にあるこれはなんなのか。どう説明すればこの心にあるものを表現出来るのか……。
「普段の私は、公務に追われているからな……正直ここへ来るのは、息抜きだ。エレーヌ嬢の顔を見て癒され、ここで知識の森に身を投じ、君との会話や考察で意外な見解を聞いて面白がり、そして城へ戻る」
そう言ってラディウスは笑った。その笑顔に嘘はなかった。ブルーナはラディウスの日常を思った。
——毎日大変な思いをしているのかしら……。
その時、ブルーナの脳裏に過ぎるものがあった。
「あっ……そう! 良い物があります」
ブルーナは三階の隅のエリアを見上げた。
「こちらへ……」
そして、先に立って歩き出した。商品台帳の棚を過ぎ、二階への階段を上がり、そのままさらに上の階へ進む。三、四階の一部はぐるりと壁づたいに書棚が並んでいる。その四階の一番奥へ行くと、ブルーナは目線より上の棚を見上げ、本を探し始めた。
「確か……この辺りにある筈なのですが……」
背表紙を一つ一つ確認していたブルーナは、一冊の本に目を止めた。
「あ……ありました」
その本は、『ガリア戦記』や『イリアス』に比べ、少し大きめに製本されていて、厚さはさほど無いが重そうだった。ブルーナが背伸びをし手を伸ばそうとすると、ラディウスが横から手を出した。
「私が取ろう……これで良いのか?」
「はい、その本です」
ラディウスは難なくその本を本棚から抜き、ブルーナに手渡した。
「ありがとうございます」
手渡された本を受け取り、ブルーナは微かに微笑んだ。そこにはいつものような無表情ではない本来のブルーナが見えていた。
ラディウスは一瞬にしてブルーナの鉄壁を崩す方法を得たような気がした。ブルーナは自分の壁が壊れかけている事をわかっていない。
「この本は珍しくすべて紙で出来ています。エジプトのパピルスを使用した物もあるのですが……時代の風刺画を集めたものなのです」
本を広げながらブルーナが説明し始めた。ブルーナはラディウスに本を見せながら寄り添うように立った。
「描かれているのは意味不明のものも多いのですが……あぁ、ほら、これなど何を意味しているのかさっぱりわかりません」
指差すページに書かれている絵は、数人の人が両手を上げながら列を作って走っている姿が描かれている。何かから逃げているのかと思いきや、描かれている人たちの顔は笑っていた。
ラディウスは奇妙な絵に魅入った。
「……確かにな」
「公務で忙しい時間を過ごした後、さらに活字を読むよりもこの方が楽しめるのではないですか? ただ眺めるだけでも笑えるものもありますから、疲れた気持ちが解れると思います」
その言葉にラディウスは肩が着く位に近寄っているブルーナの横顔を見下ろした。ブルーナは次のページを開け、絵を見て笑っている。その姿にラディウスはブルーナの本質に触れたような気がした。
本来のブルーナは屋敷の書庫に収まるような性格ではなく、活発に表に出る性格なのではないだろうか? リングレントでのブルーナは少し開放的だった。ラディウス自身は眉間の皺ばかりを見ていたが、ディオニシスは何と言っていたか?
『彼女は本質を見抜く』
確かそう言っていた。この聡明さも、心を許した者にだけ見せる優しさも、今、目の前にいる笑顔の魅力的な女性……それがそのままのブルーナなのだ。
ブルーナは本に夢中になりラディウスが自分を見ている事など気付いてもいない。不意に彼女はラディウス側のページに何かを見つけたらしく、よく見ようとラディウスの胸のあたりに顔を近付けた。
その途端、ラディウスの鼓動が今までにない程高鳴った。瞬間、ラディウスはブルーナを抱きしめたいと思った。しかし、きっとブルーナを抱きしめた瞬間から彼女は二度と自分とは会ってくれなるだろう。それは避けたい。だが……。ラディウスは自分の手をギュッと握りしめた。
「あぁ……これは小さな野ネズミですわ……ね、ここ見て下さい。こんなに小さく描いているけれど間違いなく野ネズミですよね」
ブルーナはラディウスが考えている事など及びもつかず、夢中になった為に言葉が崩れた事にも気がつかず、意見を聞こうとラディウスを見上げた。
そして、思いの外ラディウスの端正な顔が間近にあるのに気付くと飛び退いた。余りにも驚いてしまい、ブルーナは持っていた画集の本を落とした。自分の心臓の音が聴こえるようだ。
「あ……ご、ごめんなさい……つい夢中になってしまいました……」
「……いや……」
——助かった……。
ブルーナが気付いてくれたおかげで、ラディウスは自分を制することが出来た。そのままラディウスは屈み込み本を拾い上げた。
「大きい割に軽いのだな」
「羊皮紙と紙の製本の違いです」
ブルーナの説明を聞きながらラディウスはもう一度パラパラと捲った後、音を立てて本を閉じた。
「うむ……面白そうだ、借りていく」
ブルーナは胸の上で手を握りしめていた。余りにも驚いたせいで、発作の前触れかと思うほど心臓の鼓動が早い。だが、ここで倒れる訳にはいかない。
ラディウスは返事をしないブルーナを見た。彼自身も平静を装っている。
「……ブルーナ?」
「……あ……はい、あの……返すのはいつでも構いませんから……」
「……あぁ、ありがとう」
ラディウスはブルーナの様子がおかしいことに気付いていたが、自分が早くここを立ち去るべきだと思った。ラディウス自身も先程の鼓動の余韻が、まだ残っている。少し走り出したい気がしたがそれはグッと堪えた。
「ではな……もう一度、エレーヌ嬢の顔を見て帰るとしよう。邪魔をしたな」
立ち去るラディウスの後ろ姿を見ながら、ブルーナは動けなかった。階下へ続く階段を降りて行く姿を見ている時も動けない。ラディウスはブルーナを見る事なく、階段を降りて行った。
ブルーナが心臓の動悸が発作の前触れではない事に気がついたのは、ラディウスの姿が書庫から消えて暫く経っての事だった。
ゆっくりと足を踏み出しながら、ブルーナは大きく息を吐いた。ラディウスがいなくなった今、書庫に留まる事は出来たが、今日はもう自室に帰った方が良いように思う。
階段を下り、そのまま書庫を出ようとしたが、自分がここにきた理由を思い出し、ブルーナはのろのろとテーブルのある書庫の奥へ戻った。そして、いつもの席の後ろの書棚に手を伸ばす。ペンとインクと紙の入った木箱の上のブルーナの日記は、確かにそこにあった。ブルーナは木箱の上の忘れていた自分の日記を手にした。
近くで見たラディウスの端正な顔の残像が、記憶にちらつく。気が付くとブルーナは日記の表紙を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。
「……馬鹿馬鹿しい。あんな事はどうでもないものよ」
ブルーナは呟いた。ラディウスは妹の婚約者で、たまたまこの国の王子だっただけでブルーナにとってはそれ以上でもそれ以下でもない。そう思うものの、心の中に起こった波紋がゆっくりと確実に何かに向けて動き出すような感覚があった。
日記帳を握りしめ、ブルーナは書庫を出た。自室へ行くまでには中庭へ続く長い廊下を抜けて行く。のろのろと歩きながら、中庭を覗くとカツラの木に新芽が出ているのに気付いた。
——あぁ……外は春なのだわ……。
ブルーナは暫くその場で立ち竦み、若葉に覆われたカツラの樹木を見つめていた
お互いに意識をするようになった二人。
でもラディウスにとってのブルーナは婚約者の姉君。そしてブルーナにとってのラディウスは妹の婚約者。
二人の距離はまだ遠い。




