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29 ラディウスの思惑


 ラディウスは春になって直ぐにルドヴィーグ伯爵家を訪れた時、何としてもブルーナを捕まえて話をしようと息巻いた。そして確かに彼女は書庫に居た。だが話すうちに強風でよろめいたブルーナの手を取った時、あまりにも冷えた両の手を、思わず暖めるように包み込み握ってしまった。


 後で考えた時、あれはいけないとラディウスは反省した。恐らく、ブルーナは警戒すると思われる。そうなると、また会うのが難しくなる。会えないと文官として起用したいというラディウスの願いは叶わない。これは悪循環でしかない。


 そこでラディウスは考えた。警戒心を解くにはどうすれば良いのか。自分がブルーナには害がない事を解って貰わなくてはならない。それならどうするか……頻繁に会えば良いのではないか? その時に決して余計な事は言わず、本を借りて返すだけにする。そして直ぐにその場を退散する。それを繰り返せば、ブルーナはまた来た……程度でラディウスに接するようにならないか?  

 ラディウスは少し考えこれを実行する事にした。


 ラディウスはルドヴィーグ伯爵家を訪れた時、書庫から薄い本を一冊だけ借りて来た。数日後に読み終わるのが目的だったのだ。そうすれば直ぐに本を返しに赴き、また何か薄い本を借りれば良い。読み終えたら返しに行き、また借りる。それを繰り返す事でブルーナの警戒は解ける筈だ。


 書庫では思わず目についた一番薄い本を手に取り、中身を見る事なく借りて来た。城へ戻って確認のために薄い本を開いてみれば、それはローマ商人の台帳だった。各年事の仕入れの商品の名前と入数、そして売れた量と合計が羅列して書いてある。


「しまった……」


 ラディウスはそう独り言を呟いた。

 この本を手に取った時、ブルーナは離れた所で本を読んでいた。あの莫大な量の本の中から、ラディウスが何を借りたのかなど知りはしないだろう。何度も通う事を考えると薄い本である事が重要で、直ぐに返しに行く口実が大事なのだ。


 ラディウスはその本の事がバレているとは思っていなかった。それゆえ、十日もしない内に再びルドヴィーグ伯爵家を訪れた。


 薄いローマ商人の台帳を返し、他にないかと並ぶ本を眺めてみたが、程良い細さの本は見当たらない。あちらこちらの書棚を回ってみたが、ラディウスの求めるそれらしい細さの本はなかった。

 チラリとブルーナを見ると、彼女はそしらぬ顔をして自分の選んだ本を読んでいる。仕方がないのでラディウスはまたその台帳を借りた。 


 数回これを繰り返すと、初めは緊張して見えていたブルーナの(まと)う空気が、読み通り柔らかくなったように感じられてきた。恐らく緊張感が薄れたのではないだろうか。だが念には念を入れた方が良い。ラディウスはもう暫くこれを続ける事にした。




 ある時、城の執務室で毎回持ち帰るローマ商人の台帳をパラパラと眺めていたラディウスは、ふと気づいた事があった。同じ商品のものが、日付や年によって値段が変動していたのである。


「ふむ……」


 ラディウスはオレンジの値段を年代毎に書き出してみた。ある程度は変わらぬ値段で、平均するとあまり上下の差は無いように見えた。だが、ある年は値が下がるが、ある年は高騰する。少し考えればわかる事だが、恐らく凶作と豊作の差なのだろうと思われた。数字の羅列だと思えたそれは、実に雄弁に過去の状況を物語っている。


——主食である穀物はどうだ?


 ラディウスは気付いた事を書き連ねた。

 するとそこから見えてくる物があった。同じ台帳の中の同じ項目の中から穀物だけを年代順に並べていくと、ある年から突然高騰しているのが見受けられる。


——これはどういう事だ?


 それ以降しばらく高騰したままの値段だったが数年をかけて徐々に落ち着いてきている。しかし、値段は元には戻らず、少しだけ上がったままで落ち着いていた。


——考えられるのは何だ?


 戦さ、作物の不作、国の編制、元老院の代替りいくつかの原因が考えられる。ここで何かが起こり穀物が高騰した。その上、高騰した穀物はなかなか下がらなかった。何故だ? 人は不安を感じるとそれに向けて対策をしようとする。この時期に何かがあったのは間違いない。


——この時期の民は……しっかりと食べ物を手に出来ていたのだろうか?


 戦さ続きならば有り得る。長く戦いが続いた場合、前線の兵士達に食べ物を配給せねばならないが、兵士に食料が無いのは有り得ない。しかしこの時代、戦さ続きだっただろうか? 比較的平和な時代では無かったか? カエサルの生きた時代とこのローマの商人が残した台帳の時代は年代が違った。商品台帳の年代はもっと古い。


——商人が利益優先で動いたか……元老院が経済を操作したか……。


 一度上げた値段は元の値段に下げるのが難しい。商品台帳から判る事はいくつかあった。

 ラディウスは品名を並べて書いた紙を指で辿り考え込んだ。

 

 ルガリアードは今、経済的には安定している。隣国リングレントとの協力体制は万全である。そして近隣諸国からルガリアードが抜きん出ているものとしてはガラス工芸があった。これは自他共に認める程に盛んだ。山にはその原料となる石が大量にある。それから建物を作る場合の質の良い石灰岩や白大理石が大量に出る。そしてリングレントに比べ、平野は少ないが東と南に広がる農地は二代穀倉地帯としてルガリアードを支えるだけの広さが十分にある。


——だが……。


 ラディウスはずっと思っていたことがあった。それだけで良いのか? いつかこれらの資源が枯渇した場合、ルガリアードの強みを維持出来なくなる。この国には今、改革が必要では無いのか? そしてまた商品台帳に視線を落とした。


——これを調べる事が突破口になりはしないだろうか? 調べる価値はあるだろう。


 思いを巡らせながらラディウスは立ち上がった。


「デュラン、文官を二、三人集め、図書室へ寄越してくれ」

「はっ!」


 王宮の図書室へ向かいながら、ラディウスはふとブルーナを思った。彼女ならこの状態に対して何を思うだろう。過去のローマ商人の台帳と現在のルガリアードの状況。過去から学ぶ事は多い。それに対し、ブルーナの見解はどのようなものになるだろう。


——いつか……聞いてみたいものだ……。


 ラディウスは書庫の重厚な扉の向こうへ入っていった。






 ラディウスが週に一度ルドヴィーグ伯爵家を訪問するようになってから、ブルーナはラディウスに対して緊張する事が少なくなっていた。慣れというのは怖いものである。


 週一の訪問が二月(ふたつき)目に入るとラディウスが書庫に入って来ても気づかない事すら出始めた。ラディウスの存在に慣れて来たわけだが、ブルーナとしては、それはそれでいかがなものかと思っていた。いくら何でも相手は王太子だ。存在に慣れるなど言語道断ではないだろうか。普通ならそうだろう……。


 でも、実際には書庫に立ち寄るラディウスに気づかない事は多々あった。



 ある時、ブルーナはいつもの様にいつもの席に座り、本を読んでいた。本に夢中になるのもいつもの事で、その日もまた何も変わらない日常の一部だった。


 エルダがストールだけではまだ寒いと膝掛けを持って来てから、ブルーナは本の世界にのめり込んだ。


 その日ブルーナが読んでいた本はギリシャ神話が書かれたもので、貪欲に生きる神々の生き様が描かれてあった。


 キリスト教が支配するこの国では、ギリシャ神話は一つの妄想と捉えられていた。ギリシャの神々は存在する訳ではないのだ。キリスト教では唯一無二の神が世界のすべてを作ったのだと幼い頃から教えられる。そのためギリシャ神話は信仰の対象ではない。


 遥か昔からあるギリシャ神話は禁書として知られているが、一部の研究者と貴族にのみ読むのが許されていた。


 ルドヴィーグ伯爵の三代前の人物が、その研究者の一人であった。書き写され清書されたものは五階の禁書の箱に入れられ鍵が掛けられている。だが清書前の書き写された紙の束が本のように綴られ、鍵付きの箱に入れるのを忘れられ書棚に並んでいた。ブルーナはそれを禁書とは知らず見つけたのだ。

 

 ブルーナはその神話を読んだ。ブルーナにはギリシャ神話は人の営みの様々な状況を描いているように思えていた。そこには息吹がある。存在しない神だとしても、神も人間も同じなのだと思わせる何かがある。


 読み進めながらブルーナの周りの音が掻き消えていった。本の世界に夢中になるとブルーナは外界から自分を分離する感覚になる。音はなく目の前には神々の世界が広がる。そんな感覚だ。


 いつの間にかその音のない世界に入り込んでいたブルーナは、夢見心地でふと顔をあげた。そして見えているものが現実であるのに気付くまで、数秒ほど目の前の光景を見つめてしまった。そこには頬杖をつくラディウスが居たのだ。


 目が合うと彼はニコッと笑い口を開いた。


「やあ、ブルーナ嬢。本に集中していたな……」


 ラディウスはようやく頬杖を外した。ブルーナはただ驚いて声を出す事もできず、ぽかんとした表情でラディウスを見るしかできない。


「声を掛けたのだが、君は夢中で読んでいて聞こえていないようだった。なので、待たせてもらった」


 ブルーナの顔が少し紅潮した。名前を呼ばれた事に気付かず本を読み()けり、無防備な自分を(さら)したようで恥ずかしい。


「それで? そこまで夢中になる程、何を読んでいるのだ?」


 ブルーナは眉間に皺を寄せたが、慌てて右手で眉間を抑えた。それを見てラディウスは笑う。


「相変わらず癖はなおらないな。それで? 何を読んだらそこまで夢中になれるのだ?」


 ラディウスの声にブルーナは(ようや)く口を開いた。


「神々の(いとな)みが書かれたギリシャ神話でございます」


 わざと馬鹿丁寧な言葉でブルーナは告げた。途端にラディウスの表情が曇る。


「ギリシャ神話だと?」

「はい……そうでございます……」


 ラディウスは表情を曇らせたままブルーナの顔を見ていた。その様子に少し不安を感じたブルーナは本に視線を落とす。何か粗相をしただろうか?


「君は……それが禁書だと知っているのか?」


 ブルーナは驚いてラディウスの顔を見た。


「禁書? まさか……」

「いや、この国では神は唯一の一人だけだという教えから、ギリシャ神話やローマ神話はこれにそぐわないと禁書になっている」

「……」


 ブルーナはもう一度手元の書籍を見た。確かにブルーナは本をただの物語として読んでいたが、神という文字の羅列は何度も見た。キリスト教の神とは違うものの存在を教会が認めるわけはない。考えればわかる事だったのかもしれない。


——私は罰せられる……。


 ブルーナは身を(すく)めた。この国の王太子に禁書を読んでいる事が分かってしまった今、罰せられない筈はなかった。この家を出て、牢獄に連れて行かれるのかもしれない。そうなるときっとエルダとも離され、一人で生きなければならない。薬ももらえない。恐らく自分はすぐに息絶えるだろう。


「……」


——でも……父と義母はホッとするかも知れない……可愛くもない娘が家を出るのだ、きっと彼らはホッとする……。


 そう思った時、ブルーナは顔を上げラディウスの瞳を見つめた。


「私を捕らえ、牢へお入れになりますか?……」


 ラディウスはこの言葉に衝撃を受けた。ブルーナはたかだか十五、六の女性なのだ。普通であれば罪の意識から泣くか、気を失って倒れるか、はたまた少しの媚を売ろうとするのではないか。それがどうだ? 堂々と己の過ちを認め、毅然と自分を捕らえるのかと聞く。


 ラディウスのブルーナへの興味はさらに深くなった。


「捕らえるかどうかは……君次第だ」

「どういう事でございましょうか? 私は禁書を読んでいるのです。捕らえて牢獄に入れるのが筋ではないのでしょうか?」


 ラディウスは頬を緩めた。

 ギリシャ神話は確かに禁書だった。だが遥か昔から知られているこの話を、全ての人々に禁止する事はできなかったのだ。貴族の教養の一部として図書室内では読んでも良いことになっている。それをブルーナは知らない。彼はこれを好機だと見た。少しずるいやり方かも知れないが、こうでもしないとブルーナは従わないだろう。


「……いや、捕らえはせぬ。その代わり、取引をしないか?」


 ブルーナは少し驚いた。ブルーナを捕らえることはせず、取引をしようと持ちかけるとは……。ブルーナはラディウスを見詰めた。


——この方は何をしようとしているのかしら……。


 ブルーナはラディウスを見つめたままだったが、その瞳の色にラディウスは我が意を得たと微笑んだ。


「提案は二つある。一つは……この書庫内でだけは対等に話をしないか? その方がお互いに思う事を言えるだろう?」

「……」

「私は君と意見交換をしたいのだ……」

「……」

「つまり、ここでだけは友として接して欲しい」

「友?……」


 いつからラディウスはブルーナのことを友と認識していたのだろう。婚約者の姉ではなく友と呼ばれた事は少なからずブルーナを驚かせた。


「禁書を読んだ代償にしては余りにも緩いと思われますが……」


 ブルーナは眉間に皺を寄せた。それを見たラディウスが一言いった。


「眉間の皺……」


 ブルーナはハッとして右手を眉間に添える。ラディウスは声を出さずに笑った後、真面目な顔になった。


「もう一つの提案として、禁書の事だが……書庫での話は書庫内だけに止める事にしないか? 他言は無用。そして意見を戦わせようが、君が失礼な事をしようが罪には問わぬ……どうだ?」


 ブルーナは不思議な思いでラディウスの言う事を聞いていた。


「なぜ罪には問わず、ここでの自由を認めるのですか?」


 ブルーナはラディウスが分からなかった。何の目的があってそう提案するのか、彼の思うことを聞きたい。


「君の自由な発想がここで育った訳だろう? ならばそれはそれで置いておきたいのだ。発想は簡単に(つちか)われるものではない。君の意見を自由な発想で聞いてみたいと思うのは変ではないだろう?」


 この言葉を聞いたブルーナの脳裏に自分を文官として城に勤めさせないかと父に提案したラディウスを思い出した。

 城勤めは出来ない。だが、ブルーナの中で期待をするような不思議な気持ちが起こった。変わらない日常が少しだけ変化するような……。


「……わかりました。この書庫内では敬語はやめます」


 ラディウスはブルーナが承知するとは思わなかったのか少し驚いた顔をした。


「何ですか?」

「あ……いや……いや、何だ? 驚いたのだ……君が承知するとは思わなかった。これは素直に嬉しいと言っていいのかわからぬ」

「……何ですか? 自分で仰ったのですよ」


 ブルーナは少し呆れたようにラディウスを見た。そして、狼狽(うろたえ)るラディウスとの距離が近くなったように感じた。


二人の歩みは緩やかです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] そぞろな春はたくらみの季節。なるほど!ラディウスの意図がよくわかりました。多分賢明な読者なら予測する展開にラディウスの本の選択ミス・・つまりイレギュラーが加味されているので意外な展開と彼へ…
[良い点] 今回は取引台帳の話が特に私の興味を惹きました。私のノベプラでの投稿作品「アドリアンシリーズ」が完了いたしました。私の作品とはまるで共通点が無いのですが、この取引台帳の下りだけは多少似ている…
[一言] 2人の距離がだんだん近づいている( ´ ▽ ` ) まずはお友達からなんだね!本と書庫を通して親しくなるのが良い!この2人がどうなるか楽しみ。
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