27 巡る季節
ブルーナはラディウスがルガリアードへ戻った十日後にルガリアードへ戻る事にした。
ルガリアードへ戻る事をアリシアに話した時、彼女は一瞬表情を曇らせたが、王太子妃になったにも関わらず毎日ブルーナの元を訪れていたのだ。寂しさは募ったがいつかまた会う約束をし、ブルーナはリングレントを旅立った。
帰りもまたリングレントの騎士であるルドックとグラセルが護衛につく事になった。
だが残念な事に帰りの旅路は天候に恵まれず、旅の日数の半分は雨だった。
冬間近の季節の雨は底冷えの寒さを感じさせる。
リングレントの最新式の立派な馬車での移動でも寒さを遮る事は出来ず、旅の日数も往路よりかかった。リングレントへ向かう時は気持ちが高揚していたからか何もなく過ごせたが、ルガリアードヘ戻るときは体調が優れぬ日が続いた。体調は気持ちにも準ずる。ブルーナはそれを身を以て経験する事になった。
帰り着いた時、父と従者が出迎えたがブルーナは自力で歩く事ができず、すぐに医師が呼ばれたが、しばらく寝込んでしまった。
ブルーナがリングレントから戻り三週間が過ぎた。外気は一気に下がり、季節は冬へ向かって突き進んでいる。
ブルーナの具合は帰り着いた時に比べ大分楽になった。
具合の悪さは旅の疲れと幾分緊張を続けた事が原因だろうと医師は言ったが、ブルーナは余りの自身の身体の弱さに気持ちが沈む。旅の疲れであってもエルダは何ともないのだから。どうすればもっと体力がつくのか、恨めしい気持ちになった。
医師に尋ねても無理はしないようにとしか言わない。無理とはどうする事を言うのか。そうなると動く事を極力抑えるしかないと思われた。それではいつもの自分の生活そのものではないか……。そう考えてブルーナは憂鬱になる。
ブルーナは冬が嫌いだった。窓から見える風景も樹木の葉は落ち枝が丸見えで、その姿も寒々として頼りなく思える。自分も含めた世の中の命が全て、隠れてしまう錯覚にすら陥る。
部屋から出ない長い冬が来る。
この時期、書庫は余りの寒さにとどまる事ができない場所となる。冬が深くなればなるほど、ブルーナは本を何冊も部屋に持ち込み暖炉に火をくべ、日がな一日中、自室で過ごす事になるのだ。今まではそれは幸せな事だと思っていた。しかし今は、果たしてそうなのか……。
元々エルダしか話す相手はいないのだが、冬になるとエレーヌさえブルーナの部屋には来なくなる。この時期はアリシアの婚姻の儀でリングレントを訪れた時とは雲泥の差だった。
長い冬は寂しさを伴う。去年まではそれほど寂しいとは思わなかったが、今年はやけに寂しく感じた。そう思うと憂鬱な空気がブルーナを包んで行く。
昨日持ち込んだ本が何冊もサイドテーブルに積み上げられている。でも、それに手をつける事なくブルーナは窓の外に目を向け溜息ばかり吐いていた。
ある日、エルダが部屋に入るなり申し訳なさそうにブルーナに声をかけた。
「お嬢様……体調が戻ったのであれば、今日の夕食はルドヴィーグ伯爵夫妻と摂るようにとの事です」
ブルーナは少し返事に間を置いたが了承した。
「……そう……わかったわ」
そうして了承する返事をしながらも別のことを考えていた。
ラディウスはブルーナがリングレントから戻ってからこの家に来ていない。
リングレントで彼とお茶を飲んだ事が思い出される。思い出しながらブルーナは思わず眉間に手を当てた。彼はブルーナの眉間に指を押しつけ「これだけはいただけない」と笑った。あの表情はやけに楽しそうだった。
考え込みながらブルーナは慌てて首を振る。一体自分は何を考えているのか……。そうして徐に本を取り出し、広げて読み始めた。
その様子をエルダが不思議そうに見ている。
「どうかされたのでしょうか?」
「……」
ブルーナはエルダの質問に何も言わなかった。説明が難しい場合、無視するのが一番楽なのだ。自分の気持ちをどう処理して良いのかわからないのだから言いようがない。なんでもない事のように装い、ブルーナは本の活字に目を落とした。
そんな時間を過ごす内に、夕食の時間は直ぐにやって来た。エルダに促されブルーナは食堂へ足を運ぶ。歩みを進める廊下は薄暗く寒々としている。少し肩を震わせブルーナは食堂へ入っていった。
食堂には既にルドヴィーグ伯爵夫妻が席に着いていた。ブルーナは二人に、夕食に呼ばれた場合のよそよそしいお辞儀をし、自分の席に着いた。食堂の暖炉には薪が赤々と燃えていて、部屋の中は十分に暖かくなっている。
長いテーブルの端に父が座り、リリアナとブルーナが対面して座るよう設置されていた。その席に座るとブルーナは黙ってテーブルの面を見つめた。
「具合はもう良いのか?」
ルドヴィーグ伯爵がブルーナに尋ねた。
「はい、もう大丈夫です」
ちらりと父を見ると少し安堵した表情をしている。ブルーナは直ぐにまたテーブルの面に視線を戻した。このなんとも言えない空気をどうすればいいのかわからない。
そうこうする内に料理が運ばれて来た。大皿にパンが乗せられ真ん中に置かれ、それぞれの前にスープが置かれた。スープは芳しい香りを漂わせている。
ルドヴィーグ伯爵が祈りを捧げ手を組むとリリアナとブルーナもそれに倣った。それからスプーンでスープに口をつけると、リリアナとブルーナも同じように手をつけ始めた。
スープは野菜をトロトロと形がなくなるまで煮込みこしたもので、もったりとした感触が喉に落ちていく。幾分野菜の甘味を感じ、旨味が口の中に広がる。ブルーナは少し驚いた。
「どうした? 気に入らないのか?」
「いいえ……」
その味わいには今までに感じた事のない奥深さを感じた。ブルーナは不思議そうにスープを眺め、それを見たルドヴィーグ伯爵はフッと笑った。
「料理係のフィアがな、少し料理を習って来たらしいのだ。味の決め手になる事だと言っていたが……格段に味わい深くなったのは間違い無いと思うがね……」
ルドヴィーグ伯爵はそう言った。リリアナは何も言わず相変わらずスープを飲んでいる。
「そうだったのですね。何かが違うと思いました」
ブルーナはスープを飲んだ。
暫くしてまた料理が運ばれてくる間にルドヴィーグ伯爵はブルーナの顔を見ている。
「ブルーナ、実はラディウス殿下よりお前を宮廷に勤めさせる気はないかと言う打診を受けた」
ブルーナは驚いて父の顔を見た。
「殿下はお前の病の事を知らない……宮廷で何をするのかを聞いたのだが、様々な用途の事に意見を述べて欲しいのだそうだ……以前、書庫内で殿下にお会いしたと聞いたが、その時に何かあったのかね?」
ルドヴィーグ伯爵はブルーナをジッと見ていた。目の前のリリアナもブルーナに視線を向けている。ブルーナは眉を寄せた。だが直ぐにその皺を解く。ラディウスに眉間の皺を笑われたのを思い出したからだが……。
「以前お会いした時『ガリア戦記』の考察を述べよと言われました。それで述べただけです」
ブルーナの答えにルドヴィーグ伯爵は少し考え込み、リリアナはまたスープを飲み始めた。
その後直ぐに、料理が三種類運ばれて来た。どれもこれもブルーナの好きな物だった。チラリと父とリリアナに視線を送ると彼らは二人とも素知らぬ顔で料理を食べている。ブルーナは料理を口にした。
もしかするとブルーナの病が治まった事への配慮なのだろうか? 一瞬そう思ったがリリアナが居るのだからそれは無いと気付いた。
「それで、お前はどうするのだ?」
ルドヴィーグ伯爵が問う。ブルーナは口にした料理を飲み込んだ。
「お断りした方が良いと思います。意見を述べると言っても私は宮廷内の多くを知りません。失礼な事をしでかすかもしれませんし、宮廷で発作を起こす訳にはいきませんから……」
その答えを聞いたルドヴィーグ伯爵は少しホッとしたようだった。自分に聞く前に断れば良いものを、わざわざブルーナに聞かせ判断させるとは、回りくどい事だとブルーナは思っていた。だが父は口を開いた。
「お前が宮廷で働くとなれば、色々と考えねばならなかったのだがね。断るのであればその必要はない。お前が宮廷内で人の視線に晒される事もないのだ。私はお前は今のままで良いと思っている。何も苦労をわざわざする必要は無いのだ」
ブルーナは父の言葉を少し悔しく感じていた。自分にだって出来る事はある筈だと、反発したい気持ちはあった。だが寝込んだばかりでは何も言い返す事はできなかった。
ラディウスは何を考えているのだろう。女性である自分が政治の中枢に行けるわけがない。別な目的があるとすれば一体何なのだろう。実際にブルーナは舞踏会の時に王城へ行ったきりルガリアードの王城へは足をむけた事がない。王城では日々どのような事が行われているのかも実際には知らない。父の文官という仕事も何がなされているのかは知り用がないのだ。
ラディウスの申しではブルーナにとって魅力のある事ではあった。好奇心が擽られるのも事実だが、何にしても自分の身体の弱さはどうしようもないのだ。
食事を終え、ブルーナは両親に挨拶をすると直ぐに部屋に戻った。心持ちルドヴィーグ夫妻はホッとした表情をしていた。
数日の後、ルドヴィーグ伯爵にラディウスの到着が知らされた。月に一度のいつもの訪問である。出迎えるルドヴィーグ伯爵にラディウスは憮然とした表情で館の中に入って行く。客間に通されて直ぐにラディウスは口を開いた。
「ブルーナ嬢の事だが……」
「はい」
ルドヴィーグ伯爵は予想していた事とはいえ背筋を伸ばした。その伯爵に向けてラディウスは言葉を続けた。
「断る理由が曖昧のままでは納得出来ぬ。本人に尋ねたいのだが……」
伯爵は頭を垂れた。ラディウスの気持ちも分からなくはない。しかし、こればかりはルドヴィーグ伯爵の一存でもない。
「ブルーナ自身が断って欲しいと申し出たのです。私には何とも言いようがありません」
「その理由は何なのだ?」
「……私には何とも……」
言い渋るルドヴィーグ伯爵にラディウスは尚も憮然とした表情になった。
「本人に尋ねるしかない訳だな……よい、書庫へ行く」
ラディウスはそのまま客間を出ると書庫へと向かった。冷たい風が渡り廊下を吹き抜けたが、ラディウスは構わず書庫へと急いだ。
書庫の中は外と同じくらいに冷たい空気が澱んでいる。ラディウスはブルーナのいつもの席に向かった。しかし、そこにブルーナの姿はない。
——逃げたか……。
ラディウスはブルーナがいつも座る場所に立った。無性に腹立たしいような、虚しいような、そんな思いが巡る。
ブルーナは一筋縄ではいかない、それは初めから分かっていた事だ。ならばやり方を変えるしかない。ラディウスは暫くその場に佇んだが、今日はブルーナが現れる事はないと踏んで客間へ戻った。
ルドヴィーグ伯爵家から城へ戻る途中で、考え込むラディウスに側近のデュランが声をかけた。
「殿下、真冬になると雪のため、ここまでの道のりは遠くなります。どうか次の訪問で暫くは控えてはいかがでしょう」
「あぁ……」
それにも生返事をしていたラディウスだがふとデュランを見た。
「デュラン、お前には妹が居たな?」
「……はい」
「お前の妹は冬場はどうやって過ごして居る」
「どうされたのです?」
「ふむ……私には男の兄弟しかおらぬ。女性は冬場に何をして過ごすのか知りたいのだ」
「……何をしてと言われましても……私とは違うとしか言いようがないのですが、どうでしょう……暖炉の前で書物を読んだり、繕い物をしたりでしょうか……」
デュランが妹の事を思い出しながらそう言うと、ラディウスはまた考え込み始めた。言わずとも分かる。ラディウスは今、ブルーナのことを考えている。彼女を自分の文官にするためにあらゆる手段を取ろうという心持ちなのだろう。
デュランは溜息をついた。ラディウスは中々に頭の切れる人物だった。だが一つだけ難点を挙げるとすれば、自分がこうだと思う事に関して徐々に余裕がなくなって行くのだ。今はまだ考え込みながらの行動であるが、一度決めてしまうとしっかりと前を向きまわりの煩わしい物をシャットアウトしてしまう。そうなればいくらデュランと言えども止める事はできなくなる。女性が文官になるなど聞いた事がない。果たしてうまく行くのか未知数過ぎて測る事ができない。
以前ラディウスが隣国の王太子であるディオニシスの事を「思う事をやり遂げる男」だと言っていた。デュランは(いやいや、貴方も同じですよ)と心の中で呟いたが、口にすれば良かったと思う事が度々ある。口にした所でラディウスの行動を制限する事にはならないのではあるが……。
その冬、ラディウスがいくらルドヴィーグ伯爵家を訪れてもブルーナの姿を見かける事はなかった。雪が深くなるとラディウス自身もルドヴィーグ伯爵家に行くことが出来なくなり、春が訪れるのを待つほかなかった。
長い冬はブルーナにとってもラディウスにとっても己と向き合う時間を増やした。




