25 木苺のお茶
次の日、ブルーナは疲れていたにも関わらず早くに目が覚めた。
窓辺のカーテンのヒダの向こうに、幸せそうなアリシアの残像が見えた気がして、ブルーナは寝返りを打つ。
昨日、目の前で見るアリシアの幸せそうな様子は、いやでも自分との違いを感じさせた。もし自分が健康であれば、少しはこの人生は違うものになったのだろうか。その想いは深く沈んだ何かを刺激する。なぜ自分はこのように身体が弱く生まれてしまったのか……考えても仕方のない事だとわかっていてもそう思わずにはいられなかった。
ブルーナはベッドの中で意味もなく何度も寝返りを打った。別な事を考えようと努力しながら、昨夜の晩餐会を思い出す。
人々の好奇の目は自棄にあからさまだった。自分が何をしたのか分からないが、あのようにジロジロと見られるのは気分が良くはない。隣にいたラディウスは全くそれを気にはしていなかったが、酷く疲れを感じるものだった。アリシアとディオニシスに挨拶に行った時もラディウスと共に行ったのだが……その後、更に目線が自分に向いた気がした。一体あれは何だったのだろう。
窓の外に目を向けると屋外は陽の光で輝いて見えた。このままベッドの上にいてもろくな事を考えない。ブルーナは起きあがり、いつものようにベッドサイドに用意されている水を飲んだ。不思議なもので、花の香りを強く感じた。
その気配を察したのかエルダがやって来た。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「おはよう、エルダ」
エルダはニコニコと朝から機嫌が良かった。その笑顔を見ながらもブルーナは花の香りが今日は嫌に増しているのに気付いた。それは気のせいではないようだ。ブルーナは不思議に思った。
着替えを済ませ、朝食を取るために部屋を移動すると、大量の花が目に飛び込んできた。唖然としてエルダを見ると、エルダはニコニコと笑う。
「今朝、たくさんの方々より届けられたのです。この食卓の花はラディウス様から、あちらの大きな花瓶の花はアリシア様とディオニシス様から、こちらの花瓶の花はパルスト辺境伯様から、残りはリングレントの貴族の方々からのものです。あまりにも多くて覚えられませんでした……」
済まなそうに話すエルダの瞳には喜びが見えている。綺麗な花は好きだ。だがこれはどういう事なのだろう。自分は特に何もしていない。実際に昨日までは花を送られるなど何も起こってはいなかった。
「一体何が起こったの? これを誰か説明して欲しいわ……」
ブルーナはどうして良いのか分からぬまま、花の中で朝食を終えた。
朝食を終えたブルーナは本を読もうと窓辺の椅子に腰掛けた。顔を上げると大量の花が目に入る。これに対して自分はどうすれば良いのだろう……。一人一人にお礼状を書けば良いのだろうか? でも知らない人からの物は何に対してのものなのかが分からない。困ったものだとブルーナは溜息をついた。
その時、窓をコンコンと叩く音がした。顔をそちらに向けるとラディウスが立っていた。ブルーナは仰天して立ち上がり、窓を開けた。
「何をしていらっしゃるのですか?」
ブルーナの問いにラディウスは答えず、そのまま窓を跨いで部屋に入って来た。
「済まぬ、君の部屋を探して回っていたのだが、その間に身体が冷えた……少し温まるものが欲しい」
何とも滑稽に思えるその行動にブルーナは不審の目を向けた。
「なぜ部屋を探したのです? 私は何かいたしましたか?」
ブルーナがそう言った時、エルダがラディウスに気付き急いでやって来た。
「ラディウス殿下、どうなさったのでしょうか?」
「あぁ、エルダ、おはよう。ちょっと聞きたい事があったのでね」
「お茶を入れますのでお座りになってお待ちください」
「あぁ、ありがたい」
エルダは下がっていった。
ラディウスは部屋を見渡し、大量の花に驚いた。
「私が君に送ったのはここまでの量ではなかったと思うが……」
ブルーナは思い出したように口を開いた。
「あぁ……そうでした。お花をありがとうございます」
その言い方が取ってつけたようで、思わずラディウスはブルーナを見た。
「花は気に入らなかったのか?」
「いいえ、好きですわ。でも、いただく理由がわからないのです。分からないのにいただくのもどうかと思いまして……」
途端にラディウスは笑い出した。
「男は女性に花を送りたがるものだ。素直にもらっておけば良い」
そしてテーブルの椅子に座る。つられてブルーナも座った。
「でも、理由がわかりません。アリシアとディオニシス様やパルスト辺境伯からの花はわかるのです。お礼やこれからもよろしくと言う意味だと理解できます。でも、殿下だけではなくリングレントの貴族の方々からも、となると私にはもうお手上げです。お礼状を書いて良いのかすら分からない。どうすれば良いのでしょうか?」
ブルーナは素直に不安を口にした。ラディウスは少し驚いたがニコッと笑った。
「同じなのではないか? お近付きになりたい……ただそれだけだと思うがな」
ブルーナは眉間に皺を寄せた。
「なぜです? 私に近付いても何の得もありませんわ」
「得はあるさ。君はアリシア王太子妃の友だ。それに昨夜は私と共に晩餐会へ向かった。周りのものは皆、君が重要人物なのだと思ったのだろう」
ラディウスは涼しい顔でそう言った。
ブルーナは驚くしかなかった。自分が重要人物になるなど、考えた事もない。
「殿下と共に晩餐会へ行った事がきっかけですか?」
「まぁ、恐らくな……それまではアリシアと仲のいい彼女は誰なのだ? と言う認識でしかなかった筈だ……そこへ、私と君が現れたのだから。みんな驚愕したのではないか?」
「……なんて事……殿下はそれをわかっていて行動したのですか? 私を人前に曝そうと……」
ブルーナの心に怒りに似た感情が起こった。
「人聞きが悪いな……折角なのだ、注目を浴びるのは悪い事ではないと思うが」
「何を言うのです? 私は元々このような状況に慣れておりません。それなのに……こんな事になるなんて……」
ブルーナは飾られている花を見回した。
「まぁ……これからあれやこれやと君に近付く輩が増えるだろうが、『ガリア戦記』の考察のように、その輩を考察すれば良い。君には何でもない事だろう?」
「生きた人と書物は別です。そっとしておいて下さいませんか?」
ラディウスは苦言を口にするブルーナの顔を凝視し、眉間の皺に手を伸ばした。そしてブルーナの眉間を人差し指で押さえフッと笑う。
「眉間の皺……君の場合、これだけはいただけない……」
ブルーナはラディウスの手を払い睨みつけた。
「怒るな。怒った所で然して状況は変わらんぞ」
それに対してもラディウスは飄々としている。それがまた腹が立つ。ブルーナは腹立たしい気持ちを隠しもせずに外方を向いた。それなのにラディウスは気分を害するわけでもなく、ブルーナの顔を眺めている。一体なんだと言うのだろう。
そこへエルダが美味しいお菓子とお茶を持ってやって来た。
「お待たせいたしました。先程アリシア様よりお菓子も贈られておりましたのでお持ちいたしました」
エルダはそう言うとテキパキと準備をし二人にお茶を入れ、焼き菓子を乗せた皿を二人の前におく。ブルーナは剥れたまま木苺の砂糖漬けを一つ摘むとカップへと落とし、スプーンで潰しながらカップをかき混ぜた。
「そうすると旨いのか?」
ラディウスがブルーナに尋ねると、ブルーナは何のことか分からずラディウスの顔を見つめる。
「それだよ、その木苺、今、君はカップの中に入れただろう?」
「あぁ……」
ブルーナは木苺の砂糖漬けをお茶に落とすのがいつもの事なので気づかなかった。
「えぇ、私はこうするのが好きなだけです……」
普段の口調より少し強い物言いになり、ブルーナは一瞬口を閉じた。あまりにも失礼な態度だったかもしれない。リングレントにいると言う事が少し気を緩めてしまう原因になっている。だがラディウスは気にしてはいないようだった。
「いや、やってみよう、物は試しというからな……」
ブルーナの目の前でラディウスは木苺の砂糖漬けを一つカップの中に落とした。潰してぐるぐるとかき回し、口に運ぶのを見ていると彼は一口飲んで片眉を上げた。
「ほう……木苺の香りがする、中々に味わい深いな」
気に入ったのか彼はそのままお茶を飲んでいる。少しホッとしてブルーナもカップに口を付けた。
「君はいつルガリアードへ戻る……」
お茶を飲んでいると不意にラディウスがブルーナに尋ねた。ブルーナが目線をラディウスに向けると、彼はブルーナを見つめている。
「決めてはおりません……」
「……そうか」
そのまま沈黙が流れた。何か問題でもあるのだろうか? ブルーナはそう思ったが、問いはしなかった。
「共にルガリアードへ戻ろうかと思っていたのだがな……君はまだやる事があるのか?」
ブルーナは今度はまともにラディウスを見た。
「何故ですか?」
「何がだ?」
「私が殿下と共にルガリアードへ戻れば、また昨夜のように重要人物だと誤解されるではありませんか。私はそのような状況は嫌です」
ブルーナはハッキリと断わり、ラディウスは予想していたように「そうか……」と一言いうとそれ以上は何も言わなかった。
ブルーナはラディウスが何を考えているのか分からなかった。彼はルガリアードで会うより心なしか自由に見えている。それは自分も同様で、このお茶会がいい例だった。ルガリアードではこのような事には決してならない。
それからも少しだけ話をすると、ラディウスはお茶とお菓子をいただき、エルダにお礼を言うと部屋を出ていった。
ブルーナの部屋はラディウスが去った後も、花の香りが溢れたままであった。




