22 リングレントの竜
昨日、アリシアと夜遅くまで話していたブルーナは、遅い時間に目が覚めた。
馬車移動の疲れが出たのか、自分の部屋ではないリナレス城の客室だというのにずいぶんと良く眠れた。起き上がるとベッドサイドのチェストに水と薬が準備されている。エルダは早くに起きたようだ。
「あ……お嬢様、起きていらしたのですね」
「おはようエルダ」
隣の部屋からエルダが来た。エルダはニコニコと笑い、手紙をブルーナに差し出した。手紙はアリシアからである。
「たった今、届けられたのです」
中を確認するとお昼を共に頂こうという食事の誘いだった。
「エルダ、今は何時頃かしら?」
「はい、お昼までには二時間ほどあります」
ブルーナはベッドを出た。急いで用意していつでも出られるようにしておきたい。エルダはクスクスと笑った。
「お嬢様、アリシア様はお逃げになりませんよ」
「わかっているけれど、落ち着かないのよ」
午後の昼食はアリシアの部屋に準備されていた。呼びに来た従者に案内され、ブルーナはアリシアの部屋に向かった。途中、長い廊下があり、その廊下の両サイドにも植物が植えられていた。天気も良く廊下から外へ出られる場所では一度外へ出たくなる程気持ちの良い天気だった。
「ブルーナ! いらっしゃい!」
アリシアの部屋に入るとブルーナの部屋とはちょっと違い、こじんまりとまとまった部屋だった。でも自然が好きなアリシアらしく部屋の中の大きめの壺に花がふんだんに飾られている。それは花だけではなく木の枝や大きな葉なども入っていて、圧迫感はなく上手に空間を利用して飾られていた。
「どうぞこちらへ」
二人はテラスへ出た。そこには並んで座れるように長いテーブルが据えられており、その上に食事の準備がされていた。
「良い天気なんですもの。あのピクニックの時のように外でいただくのも良いと思ったの」
アリシアが笑った。ブルーナも微笑む。
ブルーナの大事な思い出はアリシアにも大事な思い出となっていた。ピクニックの時は、ブルーナは湖に落ちてしまったけれど、アリシアとの絆は強くなった。そしてあの時、アリシアはこの国の王太子に見初められたのだ。
「ここへくる途中に長い廊下があるでしょう? あの両サイドの眺めが素敵で……そこから外へ出たいと思ったわ。勿論、アリシアとの昼食に遅れるのは嫌だから出なかったけれどね」
「それなら良かったわ。ブルーナにとってもリングレントは過ごし易いでしょう?
今日の顔色がとても良いもの」
アリシアは笑いながら手を挙げて侍女に合図を送ルト、二人のテーブルの前には見事な料理が次々と並べ始めた。
「ブルーナ、食事の後、良いところへ連れて行ってあげる。だからしっかり食べるのよ」
「アリシアったら、お母様みたいよ」
「あら、実は私も言いながらそう思ってたの」
とにかく二人は良く喋り良く笑った。
パンと果物は大きな籠の中に先に並べられていたが食事は温かいものが運ばれてきた。煮込みスープと煮込んだ豆料理、それから肉を野菜と焼いたものと別な皿に何かゴツゴツとした楕円形の岩の様なものの上に乗っている艶々としたもの。磯の香りとハーブの香りが混ざり食欲を唆る。
「……これは何?」
「これは貝よ。食べてみて美味しいから。ほら、こうやって口の中に流し込むのよ」
アリシアはそう言うとそのまま貝の殻を口に運び、上にあった食材を流し込んだ。ブルーナは目を丸くした。
「今、咀嚼した?」
「流石にしたわよ。でもね、柔らかいから二、三回噛めば喉へ落ちていくわ。ほら、食べてみて。クリーミーよ」
ブルーナはアリシアに言われるがまま口へ運んだ。
口の中に入れると思うよりは弾力があり噛んだ途端に旨味と塩味が口の中に広がった。添えられていたハーブの香りも一緒に口に広がる。何とも言えないクリーミーな美味しさがある。
「あら……美味しい」
「牡蠣というのよ。この辺りでは小さいものしか取れないけれど遠くへ行けば大きいものもあるらしいわ」
アリシアは次々と牡蠣を口へ運んでいる。ブルーナはアリシアほど食べることはできなかったが、それでもしっかりと海の恵みに舌鼓を打った。
食事を摂りブルーナは満足した。食事の後はお茶を頂き、落ち着いたところでアリシアはブルーナを誘い出した。部屋を出て長い廊下に差し掛かったところでアリシアがイタズラっぽく笑った。
「あのね、貴女をソラに会わせたいの」
「ソラ? あ……あの竜のソラ?」
「そうよ」
アリシアが嬉しそうに笑う中、ブルーナは少しだけ尻込みをする。
「……大きいんでしょう?」
「えぇ、とても大きいわ」
「……私……大丈夫かしら」
「あら、大丈夫よ。だってブルーナだもの」
ブルーナはちょっと剥れた。その根拠がわからない。
「私だから大丈夫って何よ」
「ふふっ」
だがアリシアは構わずにどんどんと歩いてゆく。ブルーナは諦めてアリシアの後をついて行った。
アリシアの部屋に行くのに通った長い廊下に差し掛かり、庭に出られるように一段下がった所で、アリシアが一度立ち止まった。
「この中庭の奥にいるの。準備はいい?」
「準備も何も……どうすればいいのかわからないわ」
「うふふ、とにかく大きいけれど大人しいから安心してね」
アリシアはニコニコと笑うばかりだ。
「もう何でもいいわ……こうなれば覚悟を決めるから」
「それでこそブルーナよ」
根拠のない物言いをしながら二人は中庭へ下りた。
樹木の生い茂る植え込みの中を通り、植物をかき分けたその向こうに、突然大きな竜がこちらを向いている姿が見えた。
ブルーナの心音が大きくなった。だがすぐに大きく深呼吸をして整える。
目の前にいる竜はジッと静かにブルーナを見ていた。まるでブルーナを観察するようにジッとしている。竜の姿とその視線それから慈愛に満ちている瞳の奥の光に気づくと、恐ろしさが消え、気が付けば動悸はそのまま治っていった。
「翼を持つ竜のソラよ。ソラ、こちらが私の親友のブルーナ。素敵でしょう?」
アリシアはこの対面がうまく行くのを分かっていたかのように、ソラにブルーナを紹介した。ブルーナは視線をソラに向けたまま大きく息を吐き、ホッと胸を撫で下ろした。そのソラの目が笑ったように感じられる。
成程、アリシアの言葉通りソラの背には翼がある。この巨体が空を飛ぶのだろうか? そう疑問に思った時、ソラが頷くような仕草をした。
「もしかして……ソラは人の心が分かるの?」
アリシアに尋ねたつもりだったが、ソラがまた頷く。
「そうよ。竜は人の心が分かるの。とても高貴な存在なのだけれど、とても親しみやすい存在でもあるの。だから、彼女にどうしても貴女を紹介したかったのよ」
「彼女? ソラは女の子なの?」
「そうよ。ねぇソラ」
その時ソラが首を下ろし、手が届く位置でソラは止まった。ブルーナがソラの鼻面に触れてみると、心中で不思議な感覚が起こった。包まれるような温かい感情が奥底から湧き出てくる。
「……ソラ、これはあなたの気持ちなの?」
何故だかわからないが心の中の温かい感情は、ソラの気持ちだと感じたのだ。ソラは一回だけ瞬きをした。それは「はい」と言う返事なのだろうか?
途端にブルーナは嬉しくなった。この湧き上がる喜びは何だろう。
「貴女が竜に夢中になる気持ちが分かったわ。ソラはとても感情が豊かね」
「そうなの。もう一匹、翼のないフィールもいるの。彼もとても素敵な竜よ」
「翼がないと言う事は飛べないの?」
「えぇ、飛べないけれど子守が好きな竜なの。この国の子供達は竜と遊ぶのが好きよ」
「まぁ……」
ブルーナはソラを見た。それからその鼻面におでこを付け自分の感情を流し込むように心の中で呟く。
(ソラ、私はあなたの魂を信じるわ。アリシアは私の親友でとても大切な人なの。どうかこの国に嫁ぐ彼女を守ってね)
ソラはジッと動かず、ブルーナが離れると一度翼を広げた。ブルーナはその大きさに驚いたが、それも返事なのだと受け取った。アリシアが不思議そうな表情を向ける。
「何を話していたの? 今ソラに何か話したんでしょう?」
「秘密よ」
ブルーナはソラを見上げた。ソラの優しさがこのあたりを包んでいる感覚がずっと心にある。
きっと竜は遥かなる昔からこうしてこの土地を守って来たのだろう。ブルーナの心は、今、自由を感じていた。アリシアはリングレントに嫁ぎ縛られるわけではない。この地で自由に愛する人と生きるのだ。その感情はソラから送られて来たものかも知れないが、ブルーナはそれを受け入れた。
「本当の意味で理解できた気がするわ」
「あら、何を?」
「貴女の事やリングレントの事、それから竜の事もね」
「どういう風に理解出来たのか聞いてみたいものだな」
二人の立つ後ろから声が聞こえた。振り向くとそこにディオニシスがいた。
ルガリアード国の王城で出会った時の様に、正装をしている彼は精悍で美しく、相変わらず落ち着いていて、余裕のある笑みを浮かべていた。
「ブルーナ嬢は以前も我々リングレントの王は竜を手本にしていると言っていたが……」
「その節は勝手な事を申しました」
ブルーナは詫びたがディオニシスはそれを笑う。あの時はディオニシスをリングレントの王太子の護衛騎士だと思っていたのだ。
「いいや、実際ブルーナ嬢が言った通りなのでな。この国の理は竜から始まっている。それを竜に会った事もない筈の貴女が指摘したから驚いたんだ」
ディオニシスはソラに手を差し伸べた。その手にソラは顔を寄せる。
「太古の昔よりこの地には竜が居た。彼等はここを離れなかった。そこへ人間が後からやってきて住むようになったのだ。彼等は異質なものとの交流を選んだ。お互いに助け合う事を選んだという訳だ」
ブルーナは竜とディオニシスの間に親愛の情が漂っているように思えた。
「ここは閉ざされた地であったからな……生きるためには助け合わねば成り立たなかった」
ディオニシスがブルーナを見る。目が合うと切れ長の彼の目が優しく笑った。
「そういう方々が開いた国なのですから、竜は尚のこと、ここを動くことはなかったのでしょう。信頼の絆は心を強くしますから……」
ブルーナは隣に立つアリシアを見た。アリシアもそれを受け微笑む。
「あぁ、そうだな。まるで君らと同じだな」
ディオニシスは満足そうに二人に笑顔を向けた。
本当は竜のソラとブルーナの交流はもう少し長く重要な要素を含んでいるのですが、第一部を終えないとネタバレになるので、第一部が終わったらその部分を付け足す事にします。




