20 ブルーナという娘
ラディウスは逃さない勢いでブルーナの顔を正面から見据えた。
「ブルーナ嬢、先日は失礼をした。私は貴女の事を知らず、後で貴女のお父上から聞いたのだ。今日は再び会えてとても嬉しい」
やっと会う事の出来たブルーナは、先日は気付かなかったが線の細い女性だった。相変わらず結い上げていない柔らかな髪が肩から背に流れている。ブルーナは一瞬身構えたが黙ったままラディウスを見ていた。
「実は貴女と話がしたかったのだ……」
ラディウスの言葉を聞いたブルーナは数回瞬きをした。そんな事を言われるとは思っていなかったのだろう。彼女はラディウスを見つめたまま形の良い唇をゆっくりと開く。
「……何の、話でしょうか?」
やはりブルーナの声は凛としていて小気味いい、そう思いながらラディウスは口の端を上げた。
「何のとは……交流を持つ為の話に決まっている」
「……それは必要でしょうか?」
「あぁ、必要だと思うが?……貴女は私の婚約者であるエレーヌの姉君だ。身内となる私との交流は必要だとは思わないのか?」
「…………」
ブルーナは返事をせず、代わりに眉間に皺を寄せた。そんなものは必要ないと言いたげではあるが、あえて言葉にはしない、そんな感情が窺える。
ラディウスはふと疑問に思った。ブルーナは宮廷に居る女性達とは明らかに違う。媚びることはなく、凛として面を上げこちらを見ている眼差しは潔さが滲んでいる。とても格上のものに見せるものではない。
もしや彼女は自分が王太子である事を知っているのだろうか? もしや知らないのでは?
「エレーヌと私が婚約を結んだ事は知っているだろうか?」
「はい……」
「では私の事も知っているのか?」
「ルガリアード国の王太子であらせられます」
ブルーナは卒なく応えた。だが態度は変わらぬままじっとラディウスを見ている。
「知っているのであれば良いのだが……」
身の置き所を探すようにラディウスはブルーナの手元の本に目を止めた。ここで会話の糸口を見つけないと、やり取りがないままこの部屋を出る事になる。それは嫌だ。
「……何の本を読んでいるのだ?」
何とかブルーナと会話を成立させようとラディウスはその本を指差した。
ブルーナは自分の目の前に広げている本に目を落とし、徐に本を持ち上げると表題が見えるようにラディウスに向けた。
ラディウスはその行為に驚いたが、表題を読んで更に驚いた。
「なっ……『ガリア戦記』か?! 君は女性だろう? カエサルの戦記を読むのか?」
ブルーナはまた眉間に皺を寄せた。
「女性だから読んではならない、と言う事は無いと思いますが……」
「まぁ……確かにそうだが、役には立たぬ」
この取っ付きにくいエレーヌの姉は一筋縄では行かない。下手をすると自分より余程本を読んでおり、物事を考えている節がある。
ラディウスは気取られぬよう姿勢を正した。
「考察は言えるか?」
「考察?」
「そう、考察だ。これを読んでここから何が分かる?」
ブルーナは初めて少し意外そうな表情をした。
ラディウスはそれを見逃さなかった。ブルーナのその表情はこちらの言う事に興味を持った証拠だ。
ブルーナは自分の持つ本を見下ろした。考察を言うようにとは初めて言われたが、この話から読み取れるものを話せば良いのだろう。
それなら簡単だ……。
「このガリア戦記は……カエサルが書いたものと言われていますが、第三者の立場で書かれています。カエサルは何故分かり易い自分目線ではなく第三者の目線で書いたのか……一つにはその方が報告書として成立しやすいから。これはカエサルの戦地からローマの元老院への報告書でもあります。もう一つは他人の目線で書く事により客観的に自分の行動を注視する事が出来たからだと思います。つまり、書きながら自分の行動を深く考え、確認し分析する事が出来るのです。私は……それは戦いを進めるにあたり勝因、または敗因を知る為に必要な作業だと考えます。カエサルはそこをよく理解していたのではないでしょうか。多くの場合、同じような立場の集団の指導者には必要な視点であり利点だと思います。カエサルはそれが出来ている。ここから見えてくるものとしては、彼は指導者として優れていたとも言えると思います。それから……」
ブルーナは言葉を切った。目の前のラディウスが驚愕の表情を浮かべたからである。
「……あの……何か?」
その表情が余りに強張っていた為ブルーナは声を掛けた。
「……あ……いや、ただ、驚いただけだ……君がここまで深く考えているとは思わなかった……。すまない、気にしなくて良い。続きを……」
「はい……」
ブルーナは返事をしたものの、一旦言葉を止めた事で集中力が削がれてしまった。もう一度『ガリア戦記』を見つめ、暫くし口を開けた。
「読み取るには必要ない事だと思いますが……これを逆の立場で読むと別なものが見えてくるように思います」
「逆? 逆とは何だ?」
「はい、ローマ軍側からではなくガリア側です。ガリア側の立場になれば、この時の戦いの状況が一転します」
「…………っ!」
なんということだ……ラディウスはそのようにこの『ガリア戦記』を読んだ事は無かった。
少年の時はいわゆる戦記として、成人してからは戦時の戦略法、対策法、兵士達への鼓舞などいかに戦いを有利に進めるかの実践書としてこの『ガリア戦記』を読んでいた。
ブルーナは静かに手元の『ガリア戦記』に視線を落としている。その表情は実に静かで、ただそれを見るだけであれば美しい女性が本を読んでいるだけに見えた。だがその中は信じられない程の考察が蠢いている。ラディウスはこの一時にブルーナを欲しいと思った。
——彼女を自分の文官として傍につける事は出来ないか……。
ふとそんなことを思う自分がいて、反射的に口元を隠すように手をやってしまう。表情を読み取れる筈はないと思うのだが、深く考える彼女に自分の考えを悟られるのは避けたかった。
ブルーナは先を続けた。
「また、カエサルはガリアについてとても調べています。これは大変重要な事です。それまでは敵としてしか見ていなかったものを観察し知ろうとしています。相手を知れば戦略を立てられる。実際この後、ローマはさらに領土を広げていく。その手掛かりになっています……まだ続けますか?」
ブルーナはラディウスの表情を見て、言葉を止めた。ラディウスが不思議な表情を浮かべていたからだ。先ほどの探るようなものとは違う、静かな視線の表情。笑顔の前のような不思議な表情。
「うむ……いや、もう良い」
ラディウスは視線を外すと口元を隠したまま考え込み始めた。
時間が過ぎて行く。
その間、ブルーナはラディウスを観察した。
少し癖のある茶色の髪は少し跳ねている。ここまで来るのに馬を使ったのだろうか、おそらく風に吹かれるまま整えることもしなかったのだろう。それだけでも彼が急いだのがわかる。
彼の鼻筋の通った端正な顔は彫刻のように整っている。こんな人がいるのだと改めて思いながら、スズラン祭りの舞踏会会場で令嬢たちが騒いでいたのを思い出した。
——確かに美しい方だわ……。
背も高くスラリとして脚が長い。体格は細く見える割には肩幅もあり、外見を見れば令嬢達が騒ぐのも理解できる。しかし、中身はどうだろう……。
そう思っていると視線を上げたラディウスと目が合った。
「!」
ブルーナと目が合った瞬間ラディウスが笑った。
「ブルーナ嬢、今まで君は私が来る時は事前の知らせを受け、この書庫に来ないようにしていたのだろう?」
「…………」
ラディウスの笑顔に一瞬ドキリとした自分を隠すように、ブルーナは思わず下を向いた。図星を刺されてなんと答えればいいのか判らなくて返事ができない。
その行動にラディウスはまたフッと笑った。隙のなかったブルーナの本質が見えた気がしたのだ。
「君と話すのは実に面白い。次回からは逃げるな。私とこうして意見の交換をしようでは無いか。駄目かな?」
多少下手に出ながらラディウスが言うと、ブルーナはあからさまに渋い顔をした。こんな表情を自分に見せる令嬢など今まで何処にもいなかった。それを面白く感じている自分がいる。
「何故私がラディウス殿下と意見交換をしなければならないのでしょう? 必要だとは思えませんが……」
彼女の反論、それすら新鮮に感じている。ラディウスは声を出して笑い出した。彼が今まで接した令嬢達とは一味も二味も違う、このブルーナという娘ともっと話がしたい。
「君には必要ないかもしれぬが、私には必要なのだ。エレーヌの姉君」
笑うラディウスをブルーナは尚も渋い顔で見詰めた。彼女は自分と話すのは本意ではないのだろう。その感情をを隠しもしない。
「さて、今日は面白かった。私は本を返し、また借りて行くが……来月を楽しみにしている。もう一度言うが、逃げるなよ、ブルーナ嬢」
「…………」
ブルーナは返事をしなかった。このラディウス王太子は何を考えているのかさっぱり分からない。
自分に考察を言うだけ言わせ、笑い出し、次を期待している。アリシアであれば次に言う事がわかる気がする。そして納得もする。でも、この目の前にいるラディウスにはどうして良いのか分からない。ブルーナは首根っこを掴まれた猫の気分になった。
ラディウスには渋い顔のまま返事をしないブルーナの態度さえ面白く感じていた。
もっと彼女を知りたい。その先には文官方の側近として城に上げるということもある。女性の文官など過去に類はない。だが人材として貴重なのはわかる。何れにせよ、もう少し交流を持たなければ何とも言えないことではあるが……。
ラディウスはこの日は本を借り直し、エレーヌと遊んだ後、城へ帰って行った。
ブルーナはラディウスが帰った後、些か虚脱感を覚えた。極度に緊張した訳ではないが軽い疲労を感じている。知らない人との会話は疲れてしまう。そう思うのだが……。ブルーナはラディウスの去っていった方をもう一度見た後、持っていた『ガリア戦記』に視線を落とした。
ラディウスは自分と話して面白かったと言った。何が面白かったのかわからないが、自分の中にも何かが芽生えた気がしている。それが何なのかはわからないが、確かに自分の考えたことを口にし、それを面白く聞いてくれる人がいるという感覚は面白かったと言えるのではないだろうか。
意見を聞かなければ相手が何を思っているのか分からないし、そこから話の発展はないけれど、彼が面白そうに聞いていたのは感じ取れた。
ブルーナはラディウスの口にした一言を思った。
『逃げるなよ』
ラディウスは何かに挑むような勢いでブルーナにそう言った。少し口の端を引き上げ、でも瞳は一途に何かの光を帯び、真っ直ぐにブルーナを見ていた。ブルーナは思わず口元を引き締める。
——彼の方はこれからもここへ来るのかしら……。
ブルーナは落ち着かない気持ちになった。
——私は逃げていたわけではないけれど、交流を持とうとは考えなかったわ。
そう、今までは誰も自分と話そうとはしなかった。その事を寂しいとも思わなかった。
でも今日彼と会話をして考察を話したことは自分の中でも面白く感じている。
——そう、私も面白かったんだわ……。
改めて自分の感情を認めたブルーナは少し笑った。
テーブルの上には『ガリア戦記』がある。ラディウスはこの本を女性が読んでも役に立たないと言った。
でもそんな事はない。この本は咄嗟の判断をする場合の指南書のようなものでもある。事に当たる場合、いかに準備が必要であるかが良くわかる。戦い方などではなく、普段の生活に応用出来る事が多く書かれてある。彼はそれに気付いてないのだ。
それを話したら彼は何というだろう。きっとまた驚いた顔をして面白そうに質問してくるだろう。そう思うと次に会うのが楽しみになりそうで、ブルーナは慌てて気持ちを落ち着かせた。期待はしない方がいい。自分の生活は何も変わる筈ははないのだから。
気が付けばエルダは近くにおらず、ブルーナの周りの気配も静かになっていた。お腹も少し空いている。ブルーナはお茶を頂こうと立ち上がり自室へと戻って行った。
* * * * *
それから二週間が過ぎた。
今朝到着したアリシアからの手紙を持ち、ブルーナは窓辺を行ったり来たりしていた。手紙には結婚式を執り行うのでブルーナにもリングレントに来て欲しいと書いてあった。リングレントが最新式の馬車を用意するとも書いてある。
ブルーナは直ぐにでも行きたかった。だが、エルダやルドヴィーグ伯爵は反対するだろう。でも、親友の結婚式なのだ。どうしても行きたい……。
何度も行ったり来たりを繰り返し、ブルーナはエルダを見た。
「お手紙には何と?」
なかなか言い出さないブルーナに、エルダは先手を打った。ブルーナは長椅子に座った。
「アリシアはリングレントで結婚式を執り行うのだそうよ。最新式の馬車を用意するから、リングレントに来て欲しいと書いてあるの。エルダ……私は行きたいの」
「まぁ…………」
エルダは一瞬喜びの表情をし、それから直ぐに黙り込んだ。ブルーナが行きたい気持ちは痛いほど分かる。だが何日も続く旅路はブルーナには過酷だろう。今は秋深い時期だ。風が冷たくなっている。それを考えると、とてもじゃ無いが許可を出せない。決してルドヴィーグ伯爵も許さない筈だ。
「…………」
エルダが返事を出来ないでいるとブルーナは真剣な瞳でエルダの顔を覗き込んだ。
「お願い。父上にお願いをしたいの。お許しが出たらエルダも付いて来てくれる?」
「それは……付いて行きますが……伯爵様は許可はしないと思います」
エルダが言い終わらない内に、ブルーナはエルダの言葉を無視し部屋を出て行った。
「お嬢様?!」
エルダは慌てて付いて出た。ブルーナの足取りには決意が見えていた。カツカツとした廊下を歩く足音が力強く感じる。
「今日はお父様は家にいるわよね? 話をしたいの」
そのままブルーナはルドヴィーグ伯爵の部屋の扉を叩いた。中から返事があり、暫くするとハンスが扉を開けた。ブルーナは直ぐに中に入り机に座る父に向かって頭を下げた。
「父上、お願いがあるます。私をリングレントへやって下さい。アリシアの結婚式があるのです。私はどうしても行きたいの……父上の許可が必要です」
少し驚いたルドヴィーグ伯爵はブルーナを見ている。エルダはブルーナの背後につき共に頭を下げた。おそらくルドヴィーグ伯爵は許可を出さないだろう。それが分かるだけにエルダは緊張していた。
ルドヴィーグ伯爵は考え込んでいる。机の上に同じようにアリシアからの手紙が置いてあった。
そこには同じような内容が書かれてはいたが、ルドヴィーグ伯爵を納得させるだけの最新式の馬車の解説書も入っていた。
最新式の馬車は今までの物よりかなり大きく、内装に取り付けられた器具の一部を使って組み立て直すと、車内がベッドとして使えるようになっていた。
馬車の内装には厚い皮と布が使われ外気を遮断できるようになっており、雪道を行ったとしても車内は暖かくいられるよう工夫されていた。水を入れる瓶を置けたり、中で着替えられるよう仕切りがあったりと様々な細工がされているのだ。
ルドヴィーグ伯爵は深い溜息をついた。
アリシアが結婚する相手は隣国の王太子ディオニシスである。この旅行を断ったとしても別に国同士がどうこうなる事はない。だが、アリシアが王太子妃になればもう、おいそれと外へ出る事は叶わなくなり、アリシアとブルーナはこれを逃せばもう逢えなくなるかもしれない。それは理解している。
ブルーナはアリシアと出会い、交流を重ね少し外の世界を知った。その為かは分からないが娘は以前と違い明るくなっていた。数ヶ月前、アリシアがここを訪れて以降はまた閉じこもる事が多くなったのだが、それは明らかに遠くへ嫁いで行く友と直に会える機会がなくなるからだ。
ルドヴィーグ伯爵は娘の人生を考えた。ブルーナはこのまま死ぬまでこの屋敷で過ごすのだろう。だから舞踏会へ行った事は成功だった。そして友も得た。短い期間の交流だが、それでも死ぬまでその交流は続く。ただ、逢えはしなくなるのだ……。
ルドヴィーグ伯爵はブルーナを見た。ブルーナの瞳が今までになく輝いていた。行きたいと言う意思がそこにハッキリと見えている。
「お願いします父上! 私はアリシアに会いたいのです!」
ルドヴィーグ伯爵は次にエルダを見た。エルダは下を向いたままこちらに視線を向けてはいなかった。またルドヴィーグ伯爵は溜息をついた。心配は尽きない。だが合わせてやりたい。
「……無理をしないと誓えるか?」
ルドヴィーグ伯爵が声を掛けた。途端にブルーナは瞳をさらに輝かせた。
「誓います! アリシアに会いに行くんですもの、無理は絶対にしません!」
ルドヴィーグ伯爵は少し微笑んだ。意志の強い娘の誓いの言葉が弾んで聞こえる。
「ならば……行っておいで。いいね、決して無理はしてはならん。進んだ時間と同じだけ休みなさい。それが出来るのなら、許可しよう」
ブルーナは胸の前で手を組んだ。
「父上、ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
ルドヴィーグ伯爵はブルーナの心から喜ぶ顔を初めて目にした。いつも自分はブルーナのやることを抑えてばかりだった。ルドヴィーグ伯爵の声が少しだけ上擦った。
「……いや、くれぐれも慎重にな」
——そうか……ブルーナはこのように喜びを表すのだな……。
ルドヴィーグ伯爵の心ではまだ葛藤があった。だが返事をしてしまったのだから、余程のことが無い限り撤回はできない。伯爵はエルダを見た。
「エルダ、少し話がある。君は残りなさい」
「はい……」
エルダは呼び止められ、ブルーナは喜びの感情のまま父の部屋を出た。アリシアに手紙を書かなければならないとそのまま自室に帰り、ブルーナはアリシアへの手紙を書いた。
それからの一週間は大変だった。リングレントからの迎えの馬車が来るまでドレスの準備、宝石の準備、薬の準備、持ち出せる食べ物の準備、アリシアへのプレゼントに手土産、リングレントはルガリアードより暖かいのだからそう冬の服は要らないと思えたが、エルダが承知せず荷物は次から次へと増えていった。
リングレントはルガリアードに比べ、温暖で暖かい。それはリングレントが海に面していて、暖かな海流が流れているからである。
ブルーナは海を見た事がない。湖すら近所のナリア湖しか知らない。見渡す限りの海と対岸が見えないのはどのような感覚なのか。リングレント行きが決まってからのブルーナはずっと踊るような心地だった。