2 母のドレスとエルダ
思えば、リリアナが嫁いで来た時、ブルーナは素直にリリアナに応じることが出来なかった。
この家に突然やって来た彼女は、穏やかながらもテキパキと使用人を動かしながら徐々にブルーナの居場所を狭くして行ったのだ。
妹のエレーヌが生まれた時、天使のような笑顔に感動し、ブルーナは心から妹を可愛いと思った。そしてエレーヌ可愛さに交流を持つようになった後、リリアナとの隔たりを感じなくなり始めたその矢先。
ある日、エレーヌの前でブルーナは発作に見舞われた。その時、まるでブルーナの病がエレーヌに移るかのように引き離され、リリアナはなかなかブルーナの元を訪れなかった。その出来事はブルーナの心に影を落とし、完全にエルダ以外の人に心を開くことを止めてしまったのだ。
それからというもの、ブルーナはリリアナが嫁いで来る前と同じ様に、一日の大半を書庫にこもって本を読むのに没頭するようになった。
二歳になったエレーヌは、それでも美しく優しい物知りのブルーナに懐いた。
リリアナに禁じられてもブルーナの傍に行きたがり、ブルーナが元気な時は書庫を訪れる事もある。
でももう、ブルーナから家族の元へ向かう事はなくなっていた。そして、自分は厄介者であるという文字が常にブルーナの心に宿るようになってしまった。
ブルーナはテーブルの招待状を手にとった。
表に『ブルーナ・レティス・ド・ルドヴィーグ様』と書いてある。その美しい飾り文字は、確かに格式が高い宮廷の文字だ。
小さく溜息をつき、ブルーナはペーパーナイフを取り出すと招待状を開けた。中は父の言葉通り『すずらん祭り』の舞踏会に招待する内容だった。催される日付は一ヶ月後に迫っている。
父に行くと言ったものの、ブルーナは舞踏会に着て行けるドレスなど持っていない。舞踏会など頭からブルーナの中には存在しないものだった。今更どうしろと言うのか。何度も溜息が漏れた。何をどうすれば良いのか、経験のないブルーナには見当もつかない。
その時、扉が三回叩かれた。
「お嬢様、入ります」
エルダがルドヴィーグ伯爵の侍従のハンスと料理長のグレゴリーを従え入って来た。エルダの背後の二人は何か大きな木箱を持っている。黙ったまま見ているブルーナを余所に、木箱を持った二人はキョロキョロと辺りを見廻した。
「どちらに置きましょうか……」
「こちらにお願いします」
大きな体の男が二人掛かりで持ってきた木箱は、長椅子の側へ置かれた。
「ハンスさん、グレゴリーさん、本当にどうもありがとうございました。私一人ではどうにも出来ませんでした……後程お礼に伺いますね」
黙って見ているブルーナを尻目に、エルダは二人に声をかけ、二人が出て行くと木箱の閂を開け始めた。
「エルダ……これはなに? 何をするつもりなの?」
戸惑うブルーナにエルダは満面の笑みを浮かべた。
「お嬢様を美しく変身させるものをお持ちしたのです」
そして、木箱を開けると中に入っていた幾つもの色とりどりのドレスを出し、クローゼットに並べ始めた。
「ちょ……ちょっと待って……エルダ、これは一体どういう事?」
いつの間にこんなものを用意したのだろうか。エルダは並べたドレスを眺め、ブルーナの方を振り向いた。
「これらはすべて、レティシア様の持ち物です……旦那様が舞踏会で使うようにと仰せです」
ブルーナは目を見開いて、掛けられたドレスを見た。
「お母様のドレス……」
エルダは嬉しくて仕方ないようだ。その高揚した気持ちがブルーナにも伝わって来る。
「はい! お嬢様の晴れ舞台にレティシア様の物を使うことが出来るなんて……夢のようです」
エルダが六歳でこの館に奉公に上がった時、ブルーナを産んだばかりのレティシアはまだ健在だった。レティシアはまだ母親が必要な年齢で奉公に出されたエルダを不憫に思い、とても可愛がってくれたと聞いている。
そのエルダはとある男爵家の末娘だった。だがその男爵家は貧乏でお金がなく、教育と躾という名目の口減らしの為に奉公に出された。その奉公先がここルドヴィーグ伯爵家だったのである。
来て初めの頃のエルダは豊かな食事に驚き、暖かな部屋に驚き、穏やかな毎日に驚き、毎日を驚きに満ちて過ごしていたらしい。その彼女にブルーナの母であるレティシアは十分な愛情を注いだ。
それがそのままエルダのブルーナに対する想いになったのである。赤子であったブルーナをエルダは何よりも大切にした。常に傍にいて危ない事がないように、病気にならないように、いつも笑っていられるように何かと手を尽くした。
レティシアはそんなエルダの様子を見て、姉妹のように育てようと思っていたのだと聞いた事がある。
だが、そんな中、エルダの実家の男爵家が破産してしまった。旱魃が訪れ、手放さずにいた微々たる土地も人の手に渡らなくてはならなくなった。その事実を知った時、エルダは自らブルーナの侍女として雇って欲しいと願ったのである。
その願いはレティシアにより聞き届けられ、今に至っていた。
ブルーナは母を亡くした時も、エルダと一緒だった事で押し迫るような寂しさを感じずに済んだ。それもこれもレティシアが用意してくれたものだった。
エルダの笑顔とレティシアの残してくれた物を目の前にして、ブルーナは先程までの苛立ちが消えて行くのを感じた。
「お嬢様は細くていらっしゃるので、あちらこちら詰めなければならないとは思います……それに……幾分デザインが古くなっていますので、少しお直しが必要かと思いますが……お嬢様がどの衣装を着て行くのか決めましたら、二週間もあれば余裕でお直しいたしますよ」
エルダは自信ありげに微笑んでいる。そこでようやくブルーナの表情が和らいだ。母のものだったという色とりどりのドレスが眩しい。
ふと先程の舞踏会へ行く事を勧める父を思った。父はブルーナの十五の誕生日にこの母のドレスを贈りたかったのかも知れない。それなら舞踏会に行けという父の気持ちも理解できるような気がする。経験するだけでもいい……父はそう言っていた。エルダと共に行くなら心理的な負担は半減する。エルダの笑顔を見ながらブルーナは微笑んだ。
「さぁお嬢様! 選び放題ですよ! どれもこれも素敵なお召し物ですから!」
エルダが楽しそうなのがブルーナの思いを後押しする。ブルーナの中に小さな喜びの種が芽吹き始めていた。
それは、今まで自分の容姿がどう人に映るかなど、あまり考えた事のなかったブルーナにとって新しい感覚だった。クローゼットの中に掛けられた幾つものドレスを見上げると、陽だまりの中にいるような思いにとらわれる。
「お嬢様の髪の色からすると、ハッキリとした色味でも良いかもしれませんね」
エルダは何度も掛けたドレスを引っ張り出しては確認し、また掛け直す動作を繰り返した。
「こちらの鮮やかな青の物か……桃色の物か……緑色も綺麗ですね……お嬢様、こちらの姿見の前に立って見てください。私がドレスをあてますからご自分でも見てくださいね」
エルダはそう言うと、鏡の前にブルーナを立たせ一つ一つブルーナに合わせて見た。何度か繰り返した後、青色のドレスを合わせた時、エルダは歓喜の声をあげた。
「まぁ……お嬢様! これが一番素敵です!」
エルダの目にかなった濃い青のドレスは、襟元と広く開いた袖口とスカート部分の上に使われた薄い布に複雑な金の刺繍が施され、ブルーナの黒に近い茶色の髪に良く映えるばかりではなく、その肌を滑らかな大理石のように見せている。それだけでブルーナの頬がうっすらと桃色に染まったように見え、普段顔色の悪いブルーナは別人のように見えた。
ブルーナ自身も鏡に映る自分の姿を見て、目を見張った。
(……これが私?)
「お嬢様、これがいいです……瞳の色の緑にもとても合いますもの。これにいたしましょう! ね!」
ブルーナは鏡の中のエルダに微笑んで見せた。エルダもブルーナに微笑む。そして、しばらくニコニコとブルーナを見つめていたエルダの瞳に、キラリと何かが光った。
「エルダ?……」
ブルーナは慌てて振り向いた。
「申し訳ありません……レティシア様がこちらをお召しになっていた事を思い出してしまいました……」
エルダは涙を拭いて笑った。
「レティシア様に負けず劣らずお似合いですよ、お嬢様」
ブルーナは微笑んだ。エルダが今でも母の事をとても好いてくれている事が何より嬉しかった。ブルーナの記憶の中に母レティシアが映像となって出てくる事はなかったが、エルダの話してくれる母の事は、まるでブルーナが体験した事のように記憶の中で存在感を放っていた。
「さあ、これからの二週間は忙しくなりますよ。お嬢様の準備も考えると、一ヶ月は必要ですね……でも頑張りましょう!」
エルダは張り切った声でブルーナを勇気付けた。
それからの一ヶ月は文字通りめまぐるしい忙しさだった。何度もドレスの仮縫いをし、ドレスに合わせた宝石を選び、舞踏会でのマナーの勉強をした。ダンスは避けなければならないが、マナーは身につけておかなければ恥をかく。そう思うとそれなりにブルーナも真剣になった。元々が物静かに過ごす事が多いため、身のこなしは直ぐに身についた。不思議なもので、今まで世の中から忘れられたように生きていたブルーナの心に、この出来事は色を差し始めた。




