19 漸く逢えた姉君
ブルーナは書庫で本に目を落としたまま、先ほど現れた若い男性の事を思っていた。顔を上げ、その男性が立っていた場所を見つめる。気がついたらあの場所に立って居た人。
見た事のない端整な顔をした人だった。そして、低いが聞き取りやすい声。
——あれは誰だろう?……今日訪問客があるとは聞いていなかったけれど……。
例え訪問客があったとしてもブルーナには殆ど関係はない。訪問客が書庫を使うようならいつも事前に報せがあった。でもすぐに出て行ったのだから気にしなくてもいいだろう。そう思ったブルーナはまた本に目を落とした。
しばらくするとエルダが慌てた様子でやって来た。
「お嬢様! あの方がここへ入っていかれたと聞いたので……」
「今日は何かと忙しいのね……」
エルダは溜息をつくブルーナの顔を見ると、恐る恐る尋ねた。
「あの……誰かいらっしゃいましたか?」
「さっき男性の方がいらしたけど……その事かしら?」
エルダは唇を噛んで頭を下げた。
「申し訳ありません! 急なお見えでしたので、お嬢様にお知らせする事が出来ませんでした」
謝るエルダにブルーナは苦笑する。
「エルダのせいじゃないでしょう? 突然やって来たその人が悪いのよ……それで? あの人は誰なの?」
「ラディウス殿下です」
途端にブルーナの顔から笑顔が消えた。
「ラディウス殿下……あの人が?」
「頼まれた事をやる前にお嬢様にお知らせするべきでした……」
エルダはすまなそうにブルーナに謝った。
「私は自室に戻った方がいい?」
「いいえ……もうこちらにはいらっしゃらないと思います。お帰りの支度をしていらしたようなので……」
ブルーナは少しホッとしたように笑った。
「いずれ会わなければならない人だったのでしょう? こんな形で顔を知った方が幾分気が楽だわ」
「ルドヴィーグ伯爵様は何かお考えだったと思います。ちゃんとした場を設けるおつもりだと聞いておりますから……」
「かしこまった場は嫌いよ。それに、もう顔を見合わせたのだから、そんな事をする必要もないでしょう? これから先、もう会う事は無いと思うわ」
「お嬢様……」
「家族で集まるのは夕食の時だけで十分。後は私の好きにさせてもらうわ」
笑顔のブルーナをエルダは少し寂しい気持ちで見つめた。ルドヴィーグ伯爵は心からブルーナの事を案じているのがエルダにはわかっていた。一時は素直になりかけたブルーナの心はなぜ閉じてしまったのだろう。
アリシアがリングレントへ旅立ってから、以前にも増してブルーナの心は奥底深くに沈んでしまった。もう二度と会えないかもしれないという思いはブルーナを落ち込ませるのだろう。どうすればブルーナの幸せを手助けできるのか、エルダにはわからない。いつも側に付いているだけしか出来ない自分が歯痒い。
「お姉様! 居るの?!」
その時、エレーヌが書庫に駆け込んできた。そのまま奥のブルーナの所へ走って来る。声を聞いたブルーナの顔がほころんだ。
「ここよ! エレーヌ!」
ブルーナが声をかけ椅子をずらせたところで、エレーヌが入って来た。そしてそのまま膝に飛びつく。
「とても会いたかった! だから、走って来たの!」
ブルーナは嬉しそうにエレーヌを膝の上に抱き上げると頬をくっつけた。
「来て良かったの? お客様だったでしょう?」
「お父様は駄目だって言ったけれど、お兄様が行っていいと言ってくださったの」
嬉しそうなエレーヌにブルーナは少し顔を顰めた。
「エレーヌ、ラディウス様と言いなさいって、父上に言われてなかった?」
「だって……お兄様がそのままで良いって仰るんだもん」
「婚約者なのよ」
「だって、お兄様は名前で呼ばれるより、その方が良いと仰るんだもの」
「困った子ね」
ブルーナはわざと大きく溜息をついたが、エレーヌはウフフと笑って気にしてない様子である。
エレーヌは本当の婚約の意味を解ってはいない。婚約者という言葉の意味を誰も教えてくれないとエレーヌがブルーナに泣きついて来たのはつい先日の事だった。婚約者の意味を聞かれた時、ブルーナは解り易いようにと「父上と母上のようになる約束をする事」と教えたが、聞いた途端エレーヌは目を輝かせて「とっても仲良しって事ね」と言い、その後ラディウスとの婚約を仲良しの友達だと思っているのだ。
エレーヌは成長と共に、この先、嫌でも本当の意味を知る事となる。ブルーナはまだ小さいエレーヌの未来が決められている事が不憫な気がして、幼子の金色に輝く柔らかい髪を優しく撫でた。本来なら王太子妃になるのだから喜ぶべき事だろう。だがブルーナはそれを喜べなかった。あの舞踏会の日を思い浮かべると簡単に良かったとは言えないのだ。
「お姉様、今日は何のお話を読んでいるの?」
ブルーナの心配をよそに、エレーヌはテーブルの上に広げられた本を見た。
「エレーヌには少し難しいお話よ」
そう言いながら、ブルーナはエレーヌの顔を覗き込んだ。
「聞きたい?」
エレーヌはブルーナに笑顔で頷いた。ブルーナは少し嬉しそうに説明を始めた。
エルダはそんな二人の様子を見つめて、そっと書庫を後にした。なかなか会う事のできない仲の良い姉妹の時間を邪魔したくはなかった。書庫を出る手前で、ブルーナの軽やかな笑い声が聞こえて来た。ブルーナは、アリシアやエレーヌの前では屈託なく良く笑う。自分の前でも笑うのだがその感情は少し違うように思えた。
常日頃、無関心を装って表に出さない感情をアリシアやエレーヌの前では素直に表に出すのだ。ブルーナの感情が表に出る時間が、出来るだけ長く続けば良い……そう思ってエルダは書庫を出て行った。
* * * * *
ラディウスは城に戻ってからもエレーヌの姉であるブルーナの事を考えていた。ルドヴィーグ伯爵はなぜブルーナの存在を自分に知らせなかったのか。
ルドヴィーグ伯爵はブルーナが気難しいというが、ラディウスと接した時の彼女の様子からは気難しいとは微塵も思えなかった。もう既に彼女は誰かとの婚姻が決まっているのだろう……だから伯爵は自分には紹介しなかった。そう思うと納得がいく。だが、身内を紹介する場に居なかったのは何故なのか……。
ラディウスの中でブルーナが本を読み耽る姿が思い出された。黒に近い茶色の髪が肩から流れるように落ちていた。
暫く考えた後、ラディウスは考えるのを辞めた。先ずは彼女と話してみたい。気難しいという彼女がどのくらい気難しいのか確認するのも良いだろう。予想を上回るか、そうでは無いのか、話してみなければ何もわからない。それに婚約者であるエレーヌの姉なのだ。ラディウスは彼女を知る必要があると思った。
それから暫く時間を置き、ラディウスはルドヴィーグ伯爵家を訪れた。この日の目的はエレーヌのご機嫌伺いとブルーナとの意志の疎通だった。
「今日は書庫の本を見せて欲しい」
ルドヴィーグ伯爵家に着くなりラディウスはそう言った。書庫に行けばブルーナが居る、彼はそう思っていた。
「今日は仕事を兼ねているのですか?」
ルドヴィーグ伯爵が書庫について来た。中に入ると伯爵は説明を始めた。
「中は五階まで全部書庫になっております。一階にあるのは殆ど学者による専門書です。ですが一部の書棚だけ開けてあります。ここには製本が崩れた物や破れてやり直さねばならないものを置いてあります。二階も同じく科学書と哲学書などの学術書が主ですがローマ・ギリシャ時代のものが多くあります。化学書と哲学書はすべての階に置いてありますが、階が上がるにつれて年代が新しくなります。三階から伝記や戦記、歴史書が混ざり始めます。ここに地図や旅行記関係のものもあります。四階は物語や芸術、それから詩や歌が書かれたものがあり……五階においては製本されていない物や分類されていない物などを置いてあります」
ルドヴィーグ伯爵はサラリと説明しただけなのだが、ラディウスには長い時間に思えた。
「成程、では、一階から見て回ろうと思う。もし良ければ一冊本を借りても良いか?」
「えぇ、宜しいですよ。その場合は本の名前を私に教えて下さい」
「わかった……」
「では……私は居間に戻ります」
ルドヴィーグ伯爵はラディウスをそこに残したまま戻って行った。ラディウスはもう一度吹き抜けの上階を眺めた。この中から欲しい一冊を探すのは困難に思える。だが今日の目的はブルーナとの交流だ。ラディウスは一階の奥に足を進めた。
一番奥のテーブルの並ぶ場所に行ってみたが、そこにブルーナの姿は無い。居た形跡も無いようだ。ラディウスは一階の隅々を回ってみたが、どこにも彼女の姿は無かった。
ふと二階に目をやるとラディウスは二階に上がっていった。だがそこにもブルーナの姿は無かった。交流を持とうと思ったのだが本人がいないのであれば仕方がない。ラディウスは階段を降りようと思ったが、三階から伝記や戦記があると言っていたのを思い出し、最上階まで見て回ることにした。
三階に上がると同じように本が並ぶ書棚を見て回るその中に、自分の知っている物があった。『ガリア戦記』言わずと知れた『ガイウス・ユリウス・カエサル』の書いた戦記である。
ラディウスは少年の頃よく読んでいた数巻に分かれてあるその一冊を手に取った。カエサル本人が書いたとされるその本は実に面白かった。有能なカエサルがどうやってガリア人と戦って勝ち進んだかが書いてある。騎士を夢見る少年達は大体これを読んでいる。ラディウス自身も昔夢中になって読んだ。
成人してからも数回読んだその書物を、ラディウスは書棚に戻した。今これを読むほどの時間は無い。それなら別の読んで無いものを借りる方が効率がいいでは無いか。
本の中には書いたその人の考え方が混じる。ラディウスはそれを最も面白いと感じていた。人の考え方は様々で、元から決めつけて書く者もいればジックリと観察し事実のみを書く者もいる。考察に時間をかける者がいれば、端的に結果を記す者もいる。自分を基準に考えると色々な見方があるのが面白いのだ。
五階まで観て回ったラディウスは一冊の本を手に降りて来た。読む時間を考えるとひと月で読めるのか不安はある。実質、昼間の明るい時間に読める時間は無い。だがラディウスが手にしたのは旅行記だった。自分は殆どこの国を出る事はないが、この国を出た者が見聞きした物を記している旅行記は胸が躍る気がするのだ。
書庫を出る前にラディウスはもう一度書庫をグルリと見渡した。今日はブルーナは居なかった。それはまた次でも良いだろう。彼はそう思っていた。
だが、次に訪れた時にもブルーナには会う事が出来なかった。そしてその次の時も会う事はできない。ラディウスは次第にブルーナに会うのが目的の様に意固地になり始めた。
何故会えないのか? 一向に姿を見せないブルーナと交流を持とうにも会う事が出来なければどうしようも無い。ラディウスは考えた。何故前は会えたのか……。そして行き着いたのは会えた日は自分の突然の訪問だという事だった。
——そうか……確かあの時は突然ルドヴィーグ伯爵の家を訪れたのだ……ならば、次回試してみるか……。
察するに、ルドヴィーグ伯爵はブルーナが失礼な事をしないかと気を揉んでいた事から、ラディウスが訪れる日には自室に篭るように促している可能性が強い。ラディウスは次回の訪問を二日早めルドヴィーグ伯爵家に知らせずに行く事にした。
ラディウスの姿を見たルドヴィーグ伯爵家の従者達は再度慌て出した。以前の時のようにラディウスがふらりとやって来たからである。また悪い事にこの日伯爵は留守だった。
「本日は伯爵が不在でおりまして……」
「そうか、だが書庫を見せて欲しい。先日借りた本が面白かったのでな、続きを借りたいのだ。駄目だろうか?」
「あぁ、いいえ駄目ではございませんが……伯爵がいらっしゃらなくても宜しいのですか?」
「そちらがよければ私は構わない。ルドヴィーグ伯爵にもそう説明してくれ。それからエレーヌ嬢は在宅か?」
「はい、エレーヌ様はいらっしゃいます」
「ならば書庫に行った後、顔を見たい」
「畏まりました。しかし案内するのは書庫の状態を見てからでも宜しいでしょうか……」
従者のハンスはそう言うと並んで出ていた従者に耳打ちをし、従者がその場を離れた。
「作業の途中か何かか? だが、今の状態のままで構わない。このまま案内してほしい」
ラディウスは強引に中へ入って行った。
「あ……お待ち下さい。散らかっている場合もありますので……」
「構わぬと言っている。失礼するぞ」
ハンスは慌ててラディウスの先に立った。書庫へラディウスを案内する途中、女性の従者が一人慌ててラディウスを追い抜き先に行こうとした。
「待て!」
ラディウスはその侍女に声を掛けた。侍女はビクッとすると止まり、廊下の端に身を寄せた。
「君はどこへ行こうとしているのだ?」
ラディウスはできるだけ優しい声を出した。
「申し訳ありません。ラディウス殿下が今日おいでになるとは思いませんでしたので……書庫に用がありまして……」
「そうか……では共に行こう」
「あぁ……いいえ、先に行って用を済ませて参りたいの思うのですが……ラディウス殿下は書庫にご用があるのですよね。書庫を空っぽにしておかなくてはならないと、ルドヴィーグ伯爵にも言われております」
その侍女は下を向き頑なに先に行きたいと言った。
「名は何という?」
「え?……」
「君の名前だよ。何と言うのだ?」
「私はエルダと申します」
「ではエルダ、貴女が私を案内すれば良い」
エルダは困ったようにラディウスを見た。ラディウスは何でもない事のように飄々としている。エルダは焦った。今、ブルーナは書庫にいる。このままではラディウスとまた鉢合わせになる。だが、今これを解決する方法など無い。ここはラディウスを案内するしかなさそうだ。諦めた面持ちでエルダは承知した。
「ここからはエルダに頼む。貴方は自分の仕事に戻って良い」
ラディウスはハンスにそう言うとエルダの後について書庫へ向かった。
書庫に入るとエルダが二階へ続く階段を示した。
「ラディウス様のお借りになった書籍の続きはこの上の方の階にあります。どうぞ御自由に本をお探し下さいませ……」
エルダはそう言って自分は一階に留まろうとしていた。
ラディウスは前にブルーナを見た場所へ目をやった。恐らく、ブルーナは今日居るのだ。エルダはブルーナに自分が来たことを知らせるだろう。そして自分が上の階に行っている間にブルーナは居なくなるのだ。ラディウスは心の中でニヤリと笑った。そんな事はさせない。今日こそブルーナと話をする。
「確かに、続きは上の階にあるが……少し気になっている書籍がこの奥にあってな……」
エルダの示した二階への階段を無視しラディウスは奥のテーブルの並ぶ場所へ足を運んだ。エルダが慌ててついて来た。間違いない。今日はブルーナがいるだろう。
そして、ブルーナは確かに前に会った時と同じように一番奥のテーブルの一角に座っていた。
今日のブルーナはしっかりと顔を上げ、ラディウスを見ている。ラディウスは踊りだしたくなる程に嬉しかった。
漸くブルーナに逢えたのだ。




