17 カツラの木の夢
ブルーナは窓の外を見ていた。中庭のカツラの木が夏の日差しを浴び、青々とした姿を見せている。
アリシアはもう既にリングレントへ向かっただろう。東の端のパルスト辺境伯領からリングレントまでの旅路の日数は三週間は掛かると言う。王都を寄らずに真っ直ぐ向かったとしてそれだけの日数が掛かるのだ。ここからリングレントへの日数の三倍だ。アリシアは道中大丈夫だろうか? そんな事を思っていると、エルダが慌てたようにやって来た。
「お嬢様! たった今アリシア様が到着なさいました! リングレントへ向かう前にお嬢様にお会いしたいと!」
ブルーナは驚いて立ち上がった。
「ここへ? アリシアが来ているの?」
「そうです。直ぐに、こちらへおいでになります!」
ブルーナは驚き過ぎて少し心拍数が上がる。たった今、アリシアの事を考えていただけなのに会える事が信じられなかった。そして、落ち着かなく立っている間に扉が開き、そこに満面の笑みのアリシアがいた。
「本当に? アリシアなの?」
「えぇ! 私よ!」
二人は抱き合った。柔らかな優しい包容にブルーナは思わず泣きそうになる。アリシアの金色の髪がブルーナの顔にあたりくすぐったい。それで漸くブルーナは笑い出した。
「驚き過ぎて……何が何だか分からないわ」
「だって驚かせたかったんですもの。大成功よ」
アリシアも笑う。それから直ぐに真面目な顔になる。
「私、リングレントへ行くわ」
決意の色がそこに見えている。ブルーナは頷いた。
「えぇ……決めたのね」
ブルーナはリングレントへ行くと言うアリシアからの手紙をもらった時から考えていた。恐らく……アリシアはアルヴァンの元へ嫁ぐのだろう。そして彼女はそれを決めたのだと。
「でもね、アルヴァン様が嫌な奴なら戻って来ようと思うの。その時は出戻りだとしても会ってくださる?」
アリシアが茶目っ気たっぷりにブルーナに向かってそう言った。ルティアが顔をしかめるのを見ながらブルーナは苦笑しながらも頷いた。
「勿論よ。何があろうと私は貴女の親友でしょ?」
「フフッ、そうね、そうだわ」
「行っても行かなくても私は変わらないわ」
「そうね、私とブルーナはいつ何時でも親友よね」
二人は笑い合った。だが、ブルーナには久し振りの友の声はどこか無理をしているようにも思えた。気のせいなら良いけれど……そう思いながらも嬉しいことに変わりは無く、ブルーナはアリシアを歓迎した。
「今日、ここで一泊させて頂く事になったの。今日は語り合いましょう」
「本当なの?」
ブルーナはエルダとルティアを見た。二人共ニコニコと笑っている。ブルーナは幸せを感じた。
「嬉しくて、どうにかなってしまいそうよ」
「発作は駄目よ! 発作だけは駄目!」
ブルーナの言葉にアリシアが慌てて言う。ブルーナは久し振りに声を立てて笑った。
「さぁさぁ、いつまでもそのままではいけませんよ。お茶を頂きましょう」
ルティアが二人を諭すように言うと、エルダが視線を揺らし急いで準備を始めた。
「……エルダ、今日アリシアが来る事を知っていたのね」
横目で拗ねたように言うブルーナにエルダは楽しそうに笑って見せた。
「お嬢様の驚く顔が見れて、私は嬉しかったです」
「もう……」
ブルーナの部屋のテーブルに次々とお茶の準備がされていく。
「今日はフィアが新しいお菓子を作ったと言うので、お二人に味を見て欲しいのだそうですよ」
準備をしながらエルダが言うのを、アリシアは嬉しそうに頷いた。
「そういうのは任せて頂戴。容赦無く意見を言うわ」
ブルーナはまた笑った。
「アリシアは前もそう言って、出された物を美味しいと全部食べてしまったじゃない」
「あら、それは本当に美味しかったからよ。私は美味しいのなら素直に美味しいと言うし、美味しくなければちゃんとそう言うわ」
二人の話は尽きない。エルダもルティアも苦笑しながらお茶の準備をした。
そして出されたフィアのお菓子はブルーベリーソースの掛かったプディングのようなものだった。柔らかく、ミルクとバターの味がする生地にほんのりと焼き色が付き、上に掛けたブルーベリーの味が加わると、中々に深みが増して美味しい。匙で掬い、口に入れたアリシアは目を輝かせた。
「これは美味しいわ!」
「ほら、やっぱり美味しいって言う」
ブルーナはそれを笑う。
「私が悪いのではないわ。美味しい物を作るフィアが悪いのよ」
無理にそう結論付けるアリシアにブルーナはまた声を上げて笑い出した。
こうしてその日の午前中は過ぎて行った。
午後に入り、ブルーナとアリシアは中庭のカツラの木の下のベンチへ向かった。気持ちの良い風と夏の日の光が差し、カツラの木の下は木漏れ日で程よく日陰になっている。ブルーナはそのベンチに座りアリシアを見上げた。
「ここなら何を話しても聞こえないわ。何か、話したい事があるのでしょう?」
ブルーナがアリシアに言うと、アリシアは少し笑い素直にベンチに座った。そうして空を見上げ話しを始めた。
「アルヴァン様はとても行動力のある方だったわ。実はね、私がここでお世話になっている間に、彼は父に手紙を書き、王都とパルスト辺境伯領の中間にあるデルマの街で会ったらしいの。デルマの街を知っている? 街道が交わる主要な都市よ。ここを通って東西南北の街へ行けるの」
ブルーナは首を振った。自分に関係のない事は余り知らない。それを見てアリシアは微笑んだ。
「その時にアルヴァン様は……リングレントへ私を嫁がせる気は無いかと、父に話したらしいの」
アリシアはここに至るまでの事をかい摘んで話した。
パルスト辺境伯にはアリシアを含め七人の子供がいる。その中でアリシアは三女で上に姉二人が、下に弟三人と妹が一人居る。二人の姉はそれぞれ嫁ぎ、今家にいるのはアリシア以下五人の子供達なのだそうだ。姉二人は近くの貴族に嫁いで行っている。一人は領内、もう一人は領外ではあるが王都に比べるとずっと近い場所らしい。
「だから、私も近くの貴族に嫁ぐものだと思っていたの……それが甘かったわ。私が行く場所は、一番遠くのしかもルガリアードでもない所ですもの」
アリシアは軽く溜息をついた。自分の考えと違う場所だった事がアリシアには意外だったのだろう。その表情からもそれは伝わって来た。
「パルスト家を継ぐはずの弟は腕白過ぎて参ってしまうけれど……心根は優しい子なの。後はもっと当地の勉強をすればいいと思うわ。あの子が悪さをした時、叱り付けるのは私だったけれど、家を出る時、見送りに出たあの子は目を真っ赤にしていたわ。でも、もう私が居なくても大丈夫だと思う。これからは自覚が出て来るでしょうね」
アリシアは少し寂しそうに笑った。
「私はリングレントへ行くけれど、この国ルガリアードとの絆の為でもあると父に言われたわ。私はアルヴァン様の事を何も知らないけれど、リングレントでも力のある方なのかもしれないと思っているの。だって、王宮にも許可を得たなんて……それこそ何様なの? って思わない?」
ブルーナは笑った。確かにそうだと思う。惚れた腫れただけでは無い、何かがあるのだろう。自分には何も知り得る事は出来ないが……。
「リングレントへ行っても、手紙を書くわ。ブルーナ……貴女は私の大事な友達なんですもの。絶対に書くから、貴女も手紙を書いてね」
アリシアはブルーナの手を取った。ブルーナはその手を強く握った。
「勿論よ。書くに決まっているでしょ」
ブルーナから見たアリシアは不安ながらもキラキラと輝いて見えていた。彼女は自分の道を行くのだと、その力があるのだと強く思った。アリシアが安心したようにブルーナに笑って見せたその笑顔を、忘れないでおこうと思う。リングレントへ行ってしまったら、簡単に会う事は出来なくなるだろう。それだけはよく理解出来た。
そこまで話した時、風が吹いてカツラの木の枝を揺らした。木漏れ日がキラキラと動く。アリシアとブルーナはカツラの木を見上げた。優しい丸みを帯びたハート型の葉がゆらゆらと揺れている。
アリシアがその葉を掴もうと手を伸ばした。カツラの木は大きくて、ベンチから立ち上がったとしても葉に手が届く事はない。それでもアリシアは手を伸ばす。
「本当に欲しい物は手が届かないのだわ……」
アリシアが小さく呟いた。ブルーナはアリシアの横顔を見た。アリシアは真剣な瞳で手を伸ばしている。彼女の望む物とは何だろう。ブルーナにはアリシアが話してくれない限り知る由もない。だがその横顔には強い気持ちが潜んでいた。
「本当はね。私はパルスト辺境伯領にいる動物や植物、それから地形の事を調べていたの。弟が後を継いだ時に補佐出来る様にしたかったの。幼馴染みとね……でも、遠くへ嫁ぐならそれは無理でしょう? 仕方ないので、幼馴染みに今までまとめた物を託してきたわ」
アリシアが伸ばした手を下ろすと同時に、ブルーナを見た。そして笑う。
「いくら勉強をしても、嫁いでしまえば、今まで自分が蓄積した物が全て、役に立たない物なのだと気がついたわ。郷に入っては郷に従えと言うものね。ブルーナは出来るだけ自由に生きて……貴女はそれが出来る人だと思うから……」
ブルーナはアリシアの心の奥にある物を感じ取り返事が出来なかった。きっとその幼馴染みは男性だろう。そしてアリシアはその人の事が好きだったのかもしれない。ブルーナは何も言わず、そっとアリシアの肩に自分の手を乗せた。アリシアは笑っていたが目に涙が滲んでいた。ブルーナの手が背中に回り優しくアリシアの背を叩いた。アリシアは溢れる涙を止めることが出来なくなり肩を震わせ始める。眉間に皺がより、笑顔が歪む。
「我慢せずに泣いてしまえば良いわ。ここには私しか居ないもの」
ブルーナの声が優しく響いた。アリシアは俯いて初めて人前で泣いた。我慢していた物が、抑えていた物が、溢れ出て来た。やるせない気持ちは今ここで全部置いて行けばいい。アリシアが落ち着くまでブルーナはずっと背中を摩った。
ブルーナの手にアリシアの気持ちが伝わって来るように思えた。だがそれすらブルーナには羨ましいと思う。その辛い恋も、自分は経験した事がない。アリシアは幸せ者だ。色々な経験が彼女を強くし、でも彼女を弱くし、そして未来に繋がるのだから。
ブルーナはアリシアが先程言った事をもう一度考えた。
——出来るだけ自由に生きて……あなたにはそれが出来る……。
アリシアは少し誤解をしている。自分にはそれしか無いのだ。選択肢自体が無いのだ。だが、ブルーナはアリシアを羨むと同時に愛おしいとも思う。アリシアは実に正直だ。自分のように先を考えて動けなくなる事はない。経験から色々な事を学び、一番良い方法を選択している。そう思えた。
経験を増やせばもう少し自由になるのだろうか……。ブルーナはアリシアの背中を摩りながらそう思った。経験を積む……それにはどうすれば良いのだろう? ブルーナにはその方法さえ分からない。
友の華奢な肩はまだ震えている。ブルーナはカツラの木を見上げた。そうして自分も手を伸ばしてみる。届く筈のない枝に広がる丸いハート型の葉は、風に揺れている。アリシアだけではなくブルーナ自身も手は届かない。ではブルーナの欲しい物は何なのか。それすらブルーナには分かってはいない。
午後の日差しは木漏れ日を通して優しく二人に注がれている。アリシアはきっと自分の未来を切り開いて行く……ブルーナは朧げにそう感じていた。
翌日の朝、アリシアは旅立って行った。何度も何度も振り返り、手を振るアリシアの姿が徐々に小さくなり、門の向こうへ消えて行った。
ブルーナはそのまま暫く玄関の前に佇んでいた。そして願わずにはいられなかった。アリシアの未来がどうか穏やかで素晴らしい物であるように。そうして出来るなら、自分が生きている間にもう一度アリシアに会う事が出来ますように。ブルーナは心の中で何度もそう願った。




