16 それぞれの道
その日、ブルーナはいつものように書庫へ向かおうと準備をしていた。日差しは春から初夏の装いに変化し、そよぐ風には甘い花の香りが混じっている。中庭の植物は伸び伸びとした風情を見せ、明るい日差しを受けているのが見えた。
その初夏の日差しの中、窓は開けたままにしブルーナは部屋を出た。
ブルーナは中庭へ続く廊下を過ぎ、そのまま扉が開け放たれている書庫へ足を進めた。書庫の扉は毎朝侍従が開け、夜に差し掛かる時に鍵をかけられる。いつも朝食を済ませ、ブルーナは開く時間には書庫へ向かった。
書庫の中は少し冷んやりとした空気が漂っている。その中を一番奥のいつもの席へ移動した。一番奥の書棚にはブルーナの読みかけの本が置かれていて、それと一緒にさほど厚くない木箱が置かれてある。ブルーナはその木箱ごと本を取るとテーブルに置いた。
箱の中には手紙用の紙とインクそれからペンと本が一冊入っている。ペンとインクを並び置き、ブルーナはその本を取り出して捲ると、文字が書いてある下の部分に今日の日付を書いた。それはブルーナの日記帳だった。
その日記は幼い頃に文字を覚えるため、父が課題として課したものだったが、今はブルーナの日常業務になっていた。普段は書く事があまりなく天気や読んだ本を記すだけで一、二行で終わるのだが、舞踏会の日やアリシアが訪れた時は一ページを割いて書かれてあった。
ブルーナは日付だけを書くと、インクが乾くまでの時間暫く開いたままにしていた。そうして一緒に置いてあった本を開く。そこには栞がわりにカツラのハート型の葉が一枚挟んであった。そのカツラの葉はアリシアがここに宿泊した時に、彼女が中庭で拾った物だ。アリシアはこれを本の間に挟み、乾かした後に後ろに紙を貼りよく本を読むブルーナに渡してくれたのだ。ブルーナはそれを見る度に友の優しさを想い、暖かな気持ちになった。
暫くブルーナが開いた本を読み進めていると、エルダが勢いよく書庫に入ってきた。
「お嬢様! あの、お部屋の方に戻られてください!」
エルダが慌てるのは久し振りの事で、ブルーナは少しだけ驚いた。その間もエルダはインクの壺にコルクの蓋をし、ペン先を布で拭き取り木箱に片していく。
「エルダ、一体どうしたの?」
「今日はラディウス王太子の訪問があると言うのです。今し方、王城からの使いが参りました」
「ラディウス王太子? 視察は数日前に終わったのでしょう?」
「詳しくはわかりませんが……」
エルダはブルーナを見てそのまま言葉を飲んだ。直感的にブルーナはエルダは理由を知っていると思った。だが、話さないと言う事は話せない理由があるのだろう。ブルーナは素直に立ち上がった。エルダはいつもブルーナの立場を優先してくれる。つまりはエルダが話せないと言うのなら、聞く必要がないものなのだ。
「父上は今日、家に居るの?」
「はい、今日は家での仕事があるようです」
「……そう」
家の中の事をブルーナは殆ど知らない。今日、父が家にいるのなら、用がある王太子がここへ来てもおかしくは無い。
「本は部屋に持っていくわ」
「わかりました。私がお持ちします」
ブルーナはそのまま部屋に戻り、エルダは本を持ってきた後、直ぐに部屋を出て行った。
ブルーナはそのまま長椅子に座り、先程の読みかけの本を広げたがそこにカツラの葉の栞が見当たらない。
「あ……置いてきてしまった……」
先程、エルダが木箱を片した時に間違ってその中に入れてしまったかもしれない。慌ててブルーナは立ち上がった。
書庫に戻ると木箱の場所へ行き、またテーブルに木箱を置いた。開けて探そうとしていると数人の侍従たちが書庫に入って来た。
「いやはや……驚きましたな。エレーヌ様の縁談が決まったとは……」
「それは口外してはいけないものだ。くれぐれも他人に話してはならないよ」
「それは聞きましたが、ここでなら聞く人もおらぬでしょう。先程エルダがブルーナお嬢様を部屋に連れて行かれていましたから」
「あぁ、だが、ブルーナお嬢様こそお辛いかもしれないのだ。決して耳に入れてはならない」
「承知しております」
ブルーナは木箱の蓋を静かに閉めた。彼らは二階へ足を進めている。その音は更に遠のき、三階、四階と上がって行っているのが分かった。ブルーナは一瞬問いただそうかと思ったが、侍従達はブルーナを案じていた。それが分かった為、ブルーナはその木箱を持ったまま書庫を出た。
——エレーヌの縁談が決まった……私が辛いとは何?……。
その事はブルーナには驚き以外何もなかった。世間の爵位を持つ貴族達は早々と決めるもので何の驚きもないが、ブルーナは世間を知らなかった。まだたった三歳の妹の縁談が決まったというのは、ブルーナにとって違和感しかない。
木箱を持ったままブルーナは部屋に戻り、机に木箱を置くと暫く立ったまま考えていた。
決められた相手とはどのような人物なのだろう。まだ幼いエレーヌと釣り合う事を考えると、どこの貴族の子息なのか……聴かなければ何もわからない事だらけだ。エレーヌはこの事を知っているのだろうか? あの父がエレーヌに不利になるような事はしないと思うが。
ブルーナは悶々と考えていた。そこで考えを断ち切るように扉がノックされ笑顔のエルダが入って来た。
「お嬢様、アリシア様からお手紙が届いていました」
「あ……アリシアから?」
ブルーナはエルダから手紙を受け取ると直ぐに封を開けた。ブルーナとアリシアは彼女がパルスト辺境伯領へ戻ってからも手紙のやり取りを頻繁にしていたのである。
ブルーナは長椅子に座りアリシアの手紙を読み始めた。暫く読んでいたブルーナは驚いた声をあげた。
「アリシアがリングレントに竜を見に行くらしいわ……王城で会った騎士の方、あぁ、私を助けてくださったわね……あの方にご招待されたのですって、私も共に行かないかと言って来ている……あの方の名前、何だったかしら……」
「アルヴァン様です」
「そう、アルヴァン様だったわね……」
そう言いながらブルーナは考え込んだ。こんな機会は滅多に無い。この先死ぬまで一生ないかも知れない。リングレントの竜は是非見たい。だがリングレントヘ行くとなると長旅になる。果たして自分の身体は保つのだろうか?
「お嬢様、リングレントまでは少なくとも五日掛かります。普通の人でそれくらいの期間なので、お嬢様が行くとなると、休みながら進むとして倍以上の日数が掛かります。お辞めになった方が賢明だと思います」
エルダは不安そうな表情を浮かべていた。ブルーナはエルダを見て少し笑った。
「行ける訳ないわよね……分かってるわ……」
手紙の文字に視線を戻し、ブルーナはまた目で追った。元気であれば何としても竜に会いに行くのに……。ブルーナは諦めることに慣れていた。そうして自分を守って来たのだ。
——でも……。
と少し思う。私の人生はこれで良いのだろうか? 三歳のエレーヌにすら縁談という形で人生が見え始めている。アリシアはリングレントで何を見聞きするのだろう。そして自分は……ブルーナは初めて自分の人生というものを想った。
「お嬢様、私は今から少し、お使いを頼まれたので行って参りますが……何かございますか?」
ブルーナはエルダを見たが何も言わなかった。
「では、小一時間程で戻って参ります」
エルダはブルーナにニコッと笑って部屋を出て行った。
ブルーナはアリシアの手紙を膝の上で広げたまま、長椅子の背もたれに深く寄り掛かった。何故かわからないけれど寂しさがブルーナの胸に湧いて来ていた。アリシアは見聞を広げ、きっとどこかの殿方との縁談が持ち上がり結婚する。アリシアもエレーヌもそれぞれの人生を行くのだ。それに比べ自分はここから先は何もない。そう本を読む以外何もないのだ。ブルーナは窓の外を見た。そしてエルダが戻って来るまで、ずっと外を見ていた。
エレーヌが正式にラディウスの婚約者として認められてから、ラディウスは初めてルドヴィーグ伯爵家を訪れることになった。縁談相手は世間に伏せられたままだった為、どこの家の出身でその家の誰なのか、城ではその話でもちきりだった。
あれからと言うもの元妃候補の三人の令嬢は大人しくなり、城での生活が穏やかに過ぎるようになっていた。ラディウス自身はもう悪夢を見る事はなくなっている。精神的な極度の圧迫感がなくなると、人は忽ち心と身体の均整がうまく取れるようになる。今のラディウスがそれだった。彼は頗る元気だった。
ラディウスはエレーヌとの二度目の面会に花と木で出来たおもちゃのリスを持参していた。ラディウスには小さな女の子が何を好むのか知らない。側近二人は結婚しておらず、聞く事は出来ない。仕方がないので共に仕事をしている文官の娘を持つ者に聞いてみたのだ。すると、人形が良いだろうと言われた。それで急遽用意した物が木で造った可愛いリスの人形だったのだ。エレーヌがこれを喜べば良いのだが……ラディウスはそう思いながらルドヴィーグ伯爵家を訪問した。
ラディウスの中ではエレーヌはまだ婚約者としてではなく、どちらかと言うと齢の離れた従姉妹や姪の感覚でしかない。だが自分を救ってくれた恩人である。今の所、正式な婚約者となってはいるが先は長いのだ。どうなるのかは分からない。
「ラディウス殿下、よくおいで下さいました」
ルドヴィーグ伯爵家に入ると玄関には伯爵夫妻とエレーヌが待っていた。伯爵夫人に会うのは初めてであったが、エレーヌは夫人によく似ていた。薄茶色の髪をきちんと結上げ、華美ではなく清潔感のある装いで楚々とした印象がある。伯爵夫人は深々と挨拶をした。
「ようこそおいで下さいました」
「お兄ちゃま、また来てくださったの?」
エレーヌは、先日ラディウスが来た時に一緒にお茶をいただいた事をちゃんと覚えていた。それが彼女なりに楽しかったらしく、ニコニコと笑顔でラディウスを迎えている。そのままいつもの様に客間へ通されるとラディウスは腰に下げていた入れ物に触れた。
「今日はエレーヌに土産を持って来たのだ。受け取ってくれるか?」
ラディウスが花とリスの人形を取り出すとエレーヌは花には見向きもせず、リスの人形を嬉しそうに受け取り最高の笑顔でラディウスにお礼を言った。
「お兄ちゃま、ありがとう!」
「これ、エレーヌ。お兄ちゃまではなくラディウス殿下とお呼びしなさい」
ルドヴィーグ伯爵が嗜めたがエレーヌの気はもうリスに向かっていた。
「ラディウス殿下、申し訳ありません」
謝るルドヴィーグ伯爵にラディウスは首を振った。
「ここでエレーヌ嬢と接すると、何の気負いもない自分で居られる気がするのだ。気にしないで良い。寧ろ、そう呼ばれる方が気が楽だ」
ルドヴィーグ伯爵は苦笑した。その言葉からも日頃のラディウスのこの国を継ぐ者としての重圧は相当な物だと思える。ルドヴィーグ伯爵は口を開いた。
「今日は少し時間はありますか?」
「そうだな、そうそうユックリもしていられないのだが……今日はお礼とお詫びをしに来たのだ」
そう言うとラディウスはルドヴィーグ伯爵夫妻を前に真剣な表情になった。自然と伯爵夫妻も真剣な顔になる。
「この家の者は私の恩人だ。エレーヌとの事は今更ではあるがもう一度、真剣に考えようと思う。貴方方二人はそれをどう思うのかきちんと聞いておきたい」
ラディウスの真摯な気持ちは、エレーヌの名前を伏せている時点でルドヴィーグ伯爵夫妻の心にも届いていた。彼はエレーヌを守ろうとしてくれている。
「私達は……」
ルドヴィーグ伯爵は離れた所で侍女と遊ぶエレーヌの姿を眺めながら話し出した。
「親ならば誰でもみなそうであると思うのですが……私達はあの子が幸せになれる事が一番の願いです。正直に言いますと、色々と考えました。王族以外の貴族の元の方が自由ではないか……あの子に不必要な心労を負わせるのではないか……順位から言えば、我々伯爵家は中位でしかない。それで城へ上がれば虐められるのではないか……本当に色々と考えます」
「うむ……」
ラディウスはそれしか返事ができなかった。ルドヴィーグ伯爵の気持ちは痛いほど良く分かる。あの有象無象の輩の中に心根の優しい者が放り込まれたら、辛い状況になるのは目に見えている。だが、だからこそラディウスは信頼し合い家族になる相手に対して愛情深くいたいのだ。
ルドヴィーグ伯爵は真っ直ぐな淀みのない瞳でラディウスを正面から見つめた。
「ラディウス殿下、エレーヌを嫁がせるのなら、多くの物から守ってくれる人が良いと思っています。それには地位は必要ないとさえ思っています。それは同じ位の爵位だろうと王族だろうと下位の爵位であろうと同じです。私は……殿下、貴方を信じます」
ルドヴィーグ伯爵の言葉はラディウスの姿勢を改めさせる程の熱意があった。そしてその言葉は重い。形の無い物ではあるが、彼の想いはズシンとラディウスの心の中心に落ちた。
「貴方の想いは受け取った。私は貴方に約束しよう、何があろうと彼女を守ると……」
ルドヴィーグ伯爵はホッとしたように笑い、リリアナを見た。リリアナはまだ不安そうな表情をしていたが、少し目が潤んでいる。
「ラディウス殿下。エレーヌにはまだその事は知らせないでいても良いでしょうか? 幼い子供は素直に何でも人に話してしまいます。どこから漏れて、妨害に遭い、あの子に何かあっては……私達はどうしようもありません」
「あぁ、それはそうだな。こちらも公にしないのはそれを危惧するからだ。まだ言わなくても良いだろう……」
こうしてエレーヌは正式なラディウスの婚約者となった。だがまだ世間の人は知らなかった。




