15 ラディウスの運命
ラディウスは、執務室の机の上に置かれた手紙の束を見て大きく息を吐いた。妃候補の三人の令嬢とその家族からの晩餐会やお茶会や非公式の話し合いの招待状が積み上げられていたのである。
昨日のルドヴィーグ伯爵家の訪問自体は楽しかったが、エレーヌはまだ年端も行かぬ少女だった。ラディウスは絶望の中にいた。もう駄目だ。今更、妃候補を自分で探す時間はない。あの三人の中から選ばなくてはならないのだ。
「カミル、悪いが机を片付けてくれないか……これでは仕事にならん」
「はい、これらの手紙はどう致しますか?」
「後で目を通すが、令嬢達からのは……捨てて良い……」
「わかりました」
カミルは素早く手紙を束ね、角の机に置くと仕分けをし始めた。約半分がそれぞれの侯爵家からの招待状であり、半分が令嬢達からのものであった。
「彼らは暇なのか?……」
その山を見ながらラディウスは小さく呟いた。これだけの量の手紙をよくもまあ二日の間で書いたものだ。
ラディウスはルドヴィーグ伯爵家から戻ってから、再び悪夢を見るようになっていた。ズルズルと沼に引き摺り込まれる夢だ。その感触がリアルで、毎度飛び起きてしまう。それもこれも今のこの現状がそうさせるのだ。
ラディウスはただただ深い溜息をついた。あの三人の妃候補の中から選ばなくてはならないのなら、強いて言えばローズだろう。彼女の父親は腹黒いリルデンシュ侯爵ではあるが、日々の生活を思うと三人の中では彼女がまだましだ。ラディウスは三人の妃候補の中でローズを選ぶ事に決めた。
五日の猶予からの最終日。オルファ王から呼び出しがあった。ラディウスは素直にそれに従い執務室を出た。今日呼び出されたのはオルファ王の執務室ではなく、謁見の間だった。恐らく三人の妃候補者も呼ばれているのだろう。
ラディウスは執務室から出ると側近二人を連れ謁見の間へと廊下を進んでいく。ラディウスの執務室は王宮の中程の二階にある。そこから呼び出された部屋までは回廊部分の二階を通るのが早かった。彼はその回廊の二階を進んでいたが、ふと窓を見ると中庭を挟んで対面した一階の回廊にローズとユリアナが何やら話しているのを見つけた。ここからは何を話しているのか分からないが、見ていると突如、ユリアナが手を挙げローズの頬を平手打ちした。ラディウスがギョッとしてそのまま見ていると、今度はローズが思い切りユリアナの頬を平手打ちする。彼女は小柄な為、そのまま少しよろめいて倒れた。そこで慌てて侍女達が間に割って入り、それ以上事が大きくならないよう二人の距離を取ったのを確認し、ラディウスは憂鬱な表情のまま窓辺を離れた。
心底もう嫌だ。物分かりのない子供でもあるまいに、公の場で手を出し合うとは……何故選ばれたのはあの三人なのだ。ラディウスは深く大きな溜息をついた。
謁見の間に入る前にラディウスは小部屋に通され、そこで呼ばれるのを待っていた。だがなかなか呼び出しがない。先程、ローズとユリアナはお互いに叩き合いの喧嘩をしていたのだから、それが関係しているのだろう。頬の赤みなり腫れなりが引かなければ人前には出られないに違いない。
その間もラディウスは考えていたが、決心した表情で側近のカミルに声をかけた。
「カミル、悪いが、ルドヴィーグ伯爵を呼んでくれないか?」
「今でしょうか?」
「あぁ、今直ぐだ」
「……わかりました」
カミルは出ていったが、暫くすると小部屋にルドヴィーグ伯爵を連れ戻って来た。ルドヴィーグ伯爵は謁見を待つ小部屋の彼らに少し戸惑っている。
「お呼びだと伺いましたが……ここで良いのですか?」
「あぁ、呼び立てて悪かった……ルドヴィーグ伯爵。おりいって頼みがある。とても大事な頼みだ。しかも貴方にしかできない」
「……何でしょうか?」
ルドヴィーグ伯爵の戸惑いは不安に変化していた。ラディウス王太子のおりいっての頼みとは見当もつかない。
「先日会った貴方の娘、エレーヌ嬢と婚約を結ばせて貰いたい」
ルドヴィーグ伯爵はラディウスの言葉が理解出来ず、二、三度瞬きをした。
「あ……エレーヌと婚約するのはどなたなのでしょうか?」
「私だ……」
「……え?……」
「私だ、ルドヴィーグ伯爵。私とエレーヌ嬢を婚約させて欲しい」
ルドヴィーグ伯爵はポカンと口を開けたまま、ラディウスを見ていた。
「実際に婚約しなくても、婚約の素振りだけでも良い。頼む! 貴方だけが頼りなのだ! 私を救えるのは貴方だけだ!」
ラディウスはルドヴィーグ伯爵に懇願した。もう時間はない。謁見の間に入ればもう何もかもが終わりだ。その間に約束だけでも取り付けることが出来ればラディウスは救われる。
ラディウスの必死の願いはルドヴィーグ伯爵にちゃんと伝わっていた。ルドヴィーグ伯爵は落ち着いて呼吸を整えた。余りに唐突な願い事だったため、理解するのに時間はかかったが、妃候補の争いはルドヴィーグ伯爵にも知っている。自分の娘がこの騒動に巻き込まれる方ではなくて良かったと胸を撫で下ろしていたのだが、ここへ来て急展開である。だがエレーヌをこの騒動に巻き込むのは憚れる。
「エレーヌ嬢の成長を待つと宣言する。彼女が素直で優しい娘に育つよう協力は惜しまない」
ラディウスは必死だった。城の回廊で殴り合いをするような娘などと結婚するのは嫌だ。キツい花の匂いをさせる娘も嫌だ。彼の意志はハッキリしている。だがルドヴィーグ伯爵は返事が出来ない。
「こうしては如何でしょうか?」
小部屋に居る者達が全て黙り込んでいる中、ラディウスの側近のカミルが声を上げた。
「殿下は婚約したい令嬢がいることをハッキリと宣言するのですが、婚約者の名前は出さないのです。そうして後日オルファ王にのみ現状のお三方の事を伝えつつ、婚約する令嬢の話も伝えておきます。その時に、あの御三家に妨害や嫌がらせを受ける場合があるため、詳しい事は話さないで欲しいと伝えておくのです。そうすれば外へ漏れる事は無いでしょう。真心を込めて話せばオルファ王もわかってくださるのでは無いでしょうか?」
ラディウスは聴きながら思っていた。
——あの父にそのような小細工が通用するだろうか?……。
だが名前を出さない事にはその場にいた者達全員が賛成した。意見が纏まろうとした時、扉がノックされ、一瞬部屋の中の者達はお互いに顔を見合わせた。
「失礼いたします。王がお呼びです」
入って来たのはオルファ王の従者だった。
ラディウスは謁見の間に通された。大きな広間には前方の壇上に中央に大きな椅子が設えられ、オルファ王がその椅子にどっしりと座っていた。部屋の中央の真ん中辺りにラディウスは連れていかれ、ラディウスをそこに残すと従者は引いて行く。
ラディウスが中心に立った時、扉がまた開き妃候補の三人の令嬢がしずしずと入って来た。そうしてラディウスからも見えるように横の壁際に並び跪いた。ラディウスも跪く。
いよいよである。
「ラディウス、約束の五日が過ぎた。その方の決めた結果を私は支持すると誓おう」
「はい……」
オルファ王は静かにそう言い、ラディウスは俯いていた顔を上げ決意の意を込めてオルファ王の顔を見た。
「私が選んだのは……」
ラディウスは言葉を切り、壁際の妃候補三人を見た。ローズとヴァイオレットは俯いていたが、ユリアナは期待を込めた眼でラディウスを見ていた。ラディウスは彼女から目線をオルファ王に移した。
「私の選んだ者は、この中にはおりません」
声高らかにラディウスは言った。妃候補の三人は顔を上げ驚きの表情でラディウスを見た。
「……おらぬのか?」
「はい、おりません」
オルファ王はぴくりと眉を動かしたが、それ以上は何も言わずラディウスを見つめる。ラディウスは繰り返した。
「私の選んだ者はこの場にはおりません」
「ではどこにいると言うのだ?」
「今は言えません。しかし、この五日間の内に探し出した事は報告いたします」
「ふむ……それは何処の誰だ」
「それについても、今この場で言うのはご容赦頂きたい」
その言葉にオルファ王は少し怒りを見せた。
「今までと何も変わってはおらぬではないか!」
だがラディウスはオルファ王の顔を正面から見ていた。ラディウスは先程のユリアナとローズの殴り合いの事を今ここで話したとしても、彼女らを陥れるだけの意味があるのか分からない。迷う所だと思っていると、ラディウスの背後から声を上げた者がいた。
「何故言えないのかには理由があります。それはそこに並ぶユリアナ嬢とローズ嬢の王宮の回廊での殴り合いを見たからです。今ここでその名を言えば巻き込まれる可能性を考えたのです」
「カミル! 控えよ!」
慌ててラディウスはカミルを嗜めた。だがオルファ王は壁際に並ぶ妃候補に目を向けた。
「殴り合い?」
二人はギクッとしたように一瞬体を強張らせ、今まで伏せていなかった流石のユリアナも下を向いた。ヴァイオレットも驚いて花を挿した頭を揺らし両サイドのローズとユリアナを見ている。
その様子にオルファ王は笑い出した。次第に大きくなる笑い声を、その場にいた者は皆、所在なさげに聞いていた。
「そこの三人はもう下がって良い」
一頻り笑ったオルファ王は妃候補だった三人の令嬢に下がるよう示すと、三人が出て行ったのを確認しラディウスに向き直った。
「これがお前の判断か?」
「……はい」
「ふむ……」
ラディウスの返事を聞くとオルファ王は立ち上がった。
「私の部屋へ……ここでは誰が聞いているか分からぬからな」
そう言い残しオルファ王は広間を出て行った。
ラディウスが後ろに控える側近二人を振り返ると、カミルはやってしまいました……とでも言うようにニカッと笑い、デュランは苦笑している。ラディウスは立ち上がり、部屋を出た。
オルファ王の執務室に入るとラディウスはお茶を出され、オルファ王は穏やかに笑っていた。
「実はな……あの三人の令嬢に関しては断るのが難しかった。実力のある家柄の娘たちなのでな。よってお前の判断に任せたのだが、嫌だと言うのはよく分かる。私も土台無理な話だ」
そう言うとオルファ王は声を上げて笑った。
「笑い事ではありません父上! 私がこの半年間、どれほど悩んだかお分かりですか?」
オルファ王はニヤリと笑いラディウスを見た。
「お前の好みなど私には判らぬ。リルデンシュ侯爵の娘ローズ嬢は見目は美しい、彼女を選ぶかも知れぬと思うておった」
「ご冗談を……」
ラディウスは軽く溜息をついた。それと同時にホッとしたのも事実だった。
「どうしても嫌だと言うのであれば仕方ないと思っておった。それでもう一人見つけて置いたのだがな……お前に話す前に掻っ攫われたわ」
そう言うとまたオルファ王は笑い出した。
「何処のご令嬢ですか?」
「パルスト辺境伯の娘、アリシア嬢だ。だが、ディオニシス殿に先に見つけられてしまった」
「あぁ、ディオニシスが見つけたと言うのはその方か……」
「知っておったのか?」
「面識はありませんが、ディオニシスが話していたのですよ」
ラディウスはお茶を啜った。それを見ながらオルファ王もお茶を啜る。
「お前が選んだ者を受け入れようと考えているのは間違いはない。話してみよ、お前が選んだのは誰なのだ?」
ラディウスは少し肩の荷が降りたように思った。そして素直な気持ちで話し出した。
「ルドヴィーグ伯爵の娘、エレーヌです」
「ルドヴィーグ伯爵……あぁ、彼は堅実だな……娘がおったのか、歳は?」
「……それに関しては」
「何だ? 言えぬのか?」
「言えぬわけではないですが……」
「なら申してみよ」
「はぁ……まだ三歳でして……」
オルファ王は口に含んだお茶を吹き出した。
「三歳だと?! お前はいったい……」
オルファ王は奇異な者を見るような眼でラディウスを見た。
「父上、違います! 私は彼女の成長を待つ方が、あの三人の中から選ぶよりよっぽどマシだと思ったのです! それだけです!」
慌てて話すラディウスをオルファ王はまだ疑いの目で見ていたが、成長を待つ方がマシだと言うラディウスの気持ちは理解出来た。
「まあ判らなくもないが、口は慎め」
「言わせたのは父上ですよ……」
「暫くは伏せておこう……誰の手が回るか判らぬからな。エマにも言わぬ方が良かろう。しかし、正妻がまだその年だとすると……早々に側室を見つけねばならん……このままという訳にもいくまい」
「はぁ……」
ラディウスは母エマ王妃を思った。確かに、母には言わない方が良いだろう。だが、側室を早々にと言われても、それはそれでまだ待って欲しいと思う。とりあえず今日を乗り切った、それだけでラディウスはホッとしていた。
それから後、ルドヴィーグ伯爵家にオルファ王からの書面が届き、伏せられてはいるもののエレーヌはラディウスの婚約者として正式に認められてしまった。
反対する間も無く、あれよあれよと決まってしまった事実に、ルドヴィーグ伯爵は数日眠れぬ夜を過ごし、エレーヌはそんな事は何も知らず、スヤスヤと安らかに眠るのであった。




