1 伯爵の娘
『ガラスの植物園』に出て来るジークリフト王子の母ブルーナ王妃の話です。
彼女の人生、大親友やラディウスとの出会い、その生涯を描いていきます。
彼女は時代が大きく動く時に生きた才女です。
気に入ってくれたら嬉しいです!
五月の昼下がり、長椅子で微睡むブルーナは夢を見た。
誰かがブルーナの目の前に居る。その人はゆっくりと手を差し出し、優しくブルーナの頬に触れた。
心には彼に対する愛しい気持ちが溢れている。彼との時間を大切に『生きよう』……そう思えている自分に少し驚いた。そんな人に出逢う事が出来たのだ。
彼は触れた手の親指でブルーナの唇をなぞり、目を閉じると、どこまでも優しく愛おしそうに口づけた。柔らかな感触が繊細に何度も唇に落ちる。
穏やかな幸福感に包まれ、愛しさが緩やかな水の流れのように彼に注がれていく。
唇を離し、彼の目を見つめようとした瞬間、目が覚めた。
部屋の天井を見つめた後ブルーナは二、三度瞬きし、部屋の中を見回した。ここはいつもの自分の部屋の中だ。
少し鼓動が速くなっている。胸の上に手を置き鼓動を確認した時、何だか可笑しくなった。愛する人が居る夢を見るなんて、ブルーナには一番縁遠い事なのだ。それに、夢の中の彼の顔を思い出そうとしても全く覚えておらず、思えば男性と愛を語るなどありえないのに。
ブルーナは鼓動が収まるのを待ちゆっくりと身を起こしてから窓の外を見た。
窓枠の向こう側に青い空と樹木の緑がキラキラと輝き、春の暖かい陽射しが薄いヴェール越しの光のように見えている。
——今日もいい天気のまま過ぎて行きそう。
窓の外を眺めていると完全に胸の鼓動は治まってきた。だが、いつも医師に言われている通り、ゆっくりと大きく息を吸い、ゆっくりと吐き呼吸を整えた。こうすれば、必要以上に心臓に負担を掛けなくて済むらしい。
気持ちを落ち着けたその時、不意に部屋の扉をノックする音がした。返事をすると侍女のエルダが入って来た。
「ああ、お嬢様……お目覚めだったのですね。お変わりはありませんか?」
エルダの顔は笑顔だが心配しているのが伝わってくる。
「ありがとう、変わりはないわ」
いつも心配をかけているエルダに、ブルーナは今出来る最高の笑顔を向けた。エルダはその笑顔を見て心からホッとしたように笑った。
つい二日前、ブルーナはまたあの胸の痛みに襲われた。幼い頃より、ずっとこの胸の痛みに悩まされている。医師からは五歳になるまで生きるのは難しいだろうと言われていた。でも、彼女は十四歳を迎える事が出来、後二週間で十五歳になる。
医師は自分の見たてが間違っていたのだろうとしながらも、胸の痛みがある時は、安静にするようにと常に言われていた。それは頻繁に起こるわけではなく、時には一ヶ月もない事もある。
だが、痛みが始まると立ってはいられなくなる。それが起こると、薬を飲み、身を横たえ、薬が効くまでただひたすら痛みに耐えるしかなかった。
運動を制限されていたブルーナには、年頃の子達がするような屋外での行動は禁じられている。唯一許されているのは庭の散歩ぐらいだ。その庭を眺めていると、エルダがテーブルの水差しからカップに水を注ぎ、ブルーナに差し出した。
「お嬢様、こちらを……」
差し出されたカップには水が入っている。医師から水分を取るよう注意されているため、エルダはいつも何かにつけブルーナに水を飲ませる。
「ありがとう」
素直にそれを受け取り、ゆっくりと飲み干した所でエルダが言った。
「ルドヴィーグ伯爵様が、何かお話があるとの事なのですが……あちらに参りますか? それとも、こちらに来ていただきましょうか?」
「父上が……?」
父が自分に話があるとは、珍しい事もあるものだ……そう思い一瞬考えたが、体は楽になっていてもう安静にする程でもない。
「伺うわ」
ブルーナは空になったカップをエルダに渡し立ち上がった。
「ルドヴィーグ伯爵様は居間に居られますが……大丈夫ですか?」
エルダは心持ち心配そうな表情を浮かべる。
「平気よ」
ブルーナはエルダに笑いかけ部屋を出た。
ブルーナの部屋は中庭に面した一階にあった。両親と妹の部屋は二階にあったが、一階のブルーナの部屋は体の弱いブルーナの為に、身体の負担にならぬよう父が屋敷内を改造して作らせたものだ。一階の中程にあるブルーナの部屋からは、いつも入り浸っている書庫や食事をする部屋や居間も同じ程度に離れていて、広い屋敷ではあったが移動が負担になることはなかった。
居間の扉の前に立つと軽く息を吸い、装飾された木の扉を叩いた。
「ブルーナです……」
「入りなさい」
声を掛けると中から入るよう父の声がした。
扉を開けると、中程にある椅子にルドヴィーグ伯爵が座っており、その横に義母のリリアナが立っていた。その一瞬、ブルーナの心には何とも言えない思いが過ぎった。
ブルーナを産んでくれた母は、彼女が二歳になるかどうかの頃、病でこの世を去っていた。その後、九年経ちブルーナが十一歳を迎える頃に父はリリアナと再婚し、再婚して暫くして妹が産まれた。可愛い盛りのその妹は三歳になる。
——二人が揃っての話とは……一体なんだろう。
ブルーナは身構えた。
「体調はもういいのか?」
顔色を窺うように伯爵が尋ねてくる。
「はい……もうすっかり……」
促されるままブルーナは椅子に座った。木の椅子はいつもより冷んやりと感じる。ブルーナを見る父の表情は心配と安心が入り混じっていた。
「ブルーナ、お前ももうすぐ十五歳になる……」
父は穏やかな声で話し始めた。父は彼女が十五歳を迎えるという事は奇跡に近い出来事だと今も思っているようだ。それはそうだ、五歳までは生きられないと言われていたのだから。
「二日前の発作からの回復も思った以上に早かった……」
伯爵は微笑んだ。いつもの穏やかな微笑みだが、決してブルーナの側には居てくれない薄い壁が見えるような空気を感じる。
「……はい」
一体何の話をするつもりなのか。ブルーナは父の横に居るリリアナの存在が気になった。
「もうすぐ『すずらん祭り』が行われるのは知っているね?」
「……はい」
このルガリアード国の一番盛大に行われる祭りが『すずらん祭り』だ。長い冬が終わり春の訪れを祝うこの行事は、近隣諸国からも客人を招き、ルガリアードの国の人々は三日間休みとなる。最大の見ものと言われたサーカスの催し物などは、隣国のリングレントからも人々が見に来るほどだ。
以前、もっと幼い頃、すずらん祭りで行われるサーカスを見たくて父にお願いしたことがある。でも、その時は行くことを許してもらえず、部屋に籠もって泣いた覚えがあった。七年前の事だ。まさか、その願いを今更叶えてやろうと云う訳ではないだろうが……ブルーナは父の顔を見つめた。
「『すずらん祭り』の最後の日に、リナレス城で舞踏会が行われるのは知っているだろう?」
サーカスの事を考えていたブルーナは、父の言葉に何も言わず、ただ瞬きをした。
一体何なのだろう?
父が何か封筒の様な物をテーブルに置く。
「お前宛の王家からの招待状だ……行って来るがいい……」
ブルーナは手に取る事なく、無表情のまま黙ってその封筒を見つめた。
「お前もそのような年頃に成ったという事だ」
父の声は穏やかだが、ブルーナは大きく息を吸うと、ハッキリとした口調で言った。
「……私は参りません」
「ブルーナ……」
ブルーナは不快だとでも言うように眉間に皺を寄せた。
「何故私にそのようなことを言われるのですか? 父上は嫌という程わかっていらっしゃるでは無いですか? もし宮廷内で発作に見舞われたらどうするのですか? 恥をかくのは私より、父上の方です」
「その事だがね、ブルーナ……舞踏会当日にはお前にエルダを付けてはどうかと思っている。本来ならばエルダも行って良い筈なのだから……二人で羽を伸ばすと良い」
ブルーナは黙った。エルダはそうかもしれない。でも自分は行く意味がない。
「お前は今までこの屋敷内の事しか知らない……外の世界を知ると言う意味で、私はお前にとって舞踏会は良い機会だと思っているのだよ」
「お言葉ですが父上、私はダンスをする事は禁じられています……私には良い機会だとは思えません。壁の花になるのが落ちではありませんか?」
何故急に父はそのような事を言い出すのか、ブルーナは理解出来なかった。自分の体の弱さを一番知っているのは父ではないのか……。
「それでも良いのだ……美しく着飾るだけでもいい、舞踏会の最中は隅に立っていてもいい……経験してきなさいブルーナ」
父の言葉には有無を言わせないものがあった。それを感じた時、ブルーナの中に憤りが起こった。
「……御命令ですか?」
ブルーナの言葉に父の表情が明らかに曇るのがわかった。
「そう受け止めてくれても構わない……」
ブルーナは父の顔を見つめ、隣に立つリリアナの顔を少し睨みつけた。
「……わかりました……失礼いたします」
ブルーナはテーブルの上の自分宛の招待状を毟るように取ると、立ち上がり部屋を出た。
部屋を出て行きながら、これはリリアナの差し金だとブルーナは理解した。父は決して舞踏会に行けなどと言わない。リリアナなら言うだろう。ブルーナはリリアナが何を考えているのかいつも理解できない。
ブルーナが自分の血を分けた娘ではないからだろうか? きっと妹のエレーヌにはこんな仕打ちはしないだろう。舞踏会に行って何になるのだ。踊れもせず、ただ広間の雑踏の中でジッとしていろと言うのだろうか。自分が他の人とは違い病に侵されているのを思い知るべきとでも思っているのだろうか。ブルーナは怒りで震える気がした。
部屋に戻ると、ブルーナはテーブルに招待状を投げ出し、長椅子に座りジッと怒りが鎮まるのを待った。激しく動揺すると、発作に見舞われる可能性があった。一体これはなんの仕打ちだというのか……。